今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

生活ともしもの狭間で・2021年11月14日

 下書きがあった気がするが、はて。気の所為だったか。大抵、下書きを放置して数ヶ月経ち、数ヶ月前の自分と対峙することからこのブログは始まるのだが、今回はそうではないようだ。このブログをなにかのきっかけで今お読みになっているあなたは元気に暮らしているだろうか?元気でなくても無事であれば。こうやってくだらない文章を読む余暇が少しでもあってほしいと願う。

 

 美術展へ行く機会はめっきり減ってしまったが、読んだ本も、聴いた音楽も、少なからずあったけれど、自分語りからはじめようかな。(自分で語るのであればどこまでいっても自分語りか)

 スーパーの買い物からの帰路、スピッツの『魔法のコトバ』を聴いていた。“また会えるよ/約束しなくても(魔法のコトバ)”というフレーズの破壊力たるや。

 昔、スピッツが好きな親しい友人がいた。人生で何人か、「特別きっかけがあったわけでもないが、深い心の部分でなにかが通っていたような“気がする”」友人がいる(ただし向こうはこの限りではない)。その友人のひとりだ。友人とは、距離の問題でメールのやり取りがほぼであったが、いま仮に読み返せば内容だけではなくその文章の長さに吐き気がする程の文章量のやり取りをしていた。よく向こうも付き合ってくれたものだと感心する。

 時折直接的な交流もあったものの、大人になるにつれその頻度は減っていった。特別大きなきっかけがあるわけでもない、普通の友人関係のように、この関係性も希薄となった。しかし、不思議なもので、スピッツを聴くとその友人を思い出す。その友人そのものだけではなく、その時抱いていた自分と相手との交流における情緒や、ある意味では拠り所となっていた自分の根源みたいなものに気付かされる。音楽は過去へ連れて行ってくれると言うが、その最たるものであるなと、このスーパーからの帰り道で感じた。

 友人よ、どこかで元気に暮らしているだろうか。元気でなくても無事であればいい。なんとなく、またどこか、なにかのきっかけで、なんの理由もなく出会う気がしている。

 さて。まだ読み切っていないものを紹介するのも若干の抵抗があるが、この文章の流れで思い出した本がある。『東京の生活史』は、辞書ほどに分厚く繊細な、東京に暮らす150名へのインタビュー集だ。岸政彦による編集で、ずっと東京に住んでいる人、上京してきた人、男性女性年齢問わず、150名の東京で暮らす人々に、150名異なる人間がインタビューをしている。1名、1名丁寧に、けれどある意味では断片的な、物語性があるようでない、例えるなら居酒屋やバーよりも、その人の自宅で広く浅く(けれど時にその会話は遠くへ飛び)自己紹介を聞いたときのようなそんな感覚の短編が幾重に織り込まれている。

 わりと1名分を読み切るのにも体力がいる。けれど読んでいると、前述のようにその場の、その人の、自宅、空間に居るような、「はじめまして」の感覚を持たされる。(だから体力がいるのかな)

 生活していくということは、出会いと別れを繰り返すということだ。もっと言えば、選択を繰り返すことである。答えもなければ、間違いもない。淡々と日々は動いていく。人間の営みを、この胸に、このコロナ禍で優しくも痛く刻むことのできる一冊であると思ってる。すべての人に物語はあり、それは変哲のない儚さを持つ。生きていくということは大それたことじゃなく、営みを紡ぐということに他ならない。これは只の史であると同時に唯の史である。昨日の夕暮れ時にみた鉄塔の美しさと同じ、偶然が生み出した万物の記録なのだ。

 

 ここまで来たらもうひとつ。このコロナ禍で私は直接足を運ぶことができなかったが、手にとったもう一つの「東京」に纏わる本がある。2021年8月から9月まで東京都現代美術館で行われた「もしも東京展」に展示された漫画家やエッセイストの作品をまとめたアンソロジーだ。

 あくまで作品として収録されているので、会場の雰囲気は見て取れない点は注意。

 いろんな作家さんの「東京」に纏わる物語は、どれも魅力的な内容で久々に刺激をとても受けたのだけれど、最も刺激を受けたのは芸人のパンサー向井慧氏のものだった。ほんの数ページのエッセイで向井氏が上京を夢見てから今日までの内省が描かれているのだけれど、とても胸が熱くなった。大変失礼なのは承知な上で、一言で言ってしまえば「まだまだ諦めたくない夢もあれば、とてもじゃないけど叶う気もしていない」といったような渇望に満ちた文章であった。けれど、十分な成功を収めたと言っても良い30代中盤の彼が現状に満足することなく未だ挑戦を、こんな選集の片隅でひっそりと決意を語っていることになんだか刺激を受けてしまったのだ。

 

 年を取れば年下の人間も増える。当たり前の話である。それと同時に、年上の存在はだんだんと薄らいでいく。いつもは必ずどこかにいた「教えてくれる人」が減ってくる。いつの間にか注意してくれる人は減り、正解は自分自身で編み出さなくてはいけなくなり、そしてその正解を確かめる術も大抵は自分の中にしかなくなってくる。

 その寂しさと虚しさをここ数年ずっと感じている。十分頑張っているじゃないか、その姿勢だけで、周りはもうそれ以上踏み込んでこない。なんなら瀕死の状態になったとて、誰か踏み込んでくるかどうかもわからない。なぜなら周りがもうそうなってしまったからだ。

 しかしそんな中でも新しいチャレンジをしている人を見ると、エネルギーをもらえるような気がしている。まだこの日本のどこかで、世界のどこかで、自分の中のもやもやと対峙しながら、それでも諦めずにそのもやもやの正体を突き止めようと命を削いでいる人がいる。そんな文章を書いている私自身は、やはりこなすことで精一杯になってしまっている一人なのだけれど。いつか人生の不可逆性に後悔する前に、その正体を明らかにしたいと思う。

 

 なんだかまた広く浅く文章を書いてしまった。「もしも東京」は浅野いにお目当てで買ったところもあるのだけれど、実は2020年(オリンピックの延期がなければ2020年に公開予定だった)版の浅野いにおの「もしも東京」は既に読んでいた。けれど、書き直したというから買わねば、ということであらためて買ったのであった。

 「もしも東京(2020年版)」は、古き良き浅野いにおの人生観が現れていて、「TP(2021年版もしも東京)」は最新の浅野いにお、人生観よりもエンターテイメント性(デデデデっぽさ)が強くでていたように感じました。どちらもとても面白かったです!

 

 こんなに表現力豊かな作家さんがこれだけ世の中にたくさんいるのに、それと対比するものではないけれど政治はあまりにも停滞していて、なんだか皮肉だなあ、と思う。事実は小説より奇なり、ではあるが、このコロナ禍において事実が小説よりも堕落しはじめているようにも思えてしまう。でもそんなときは、いつもリコーのキャッチコピーを思い出す。

 

退屈なのは世の中か自分か。(RICOH

 


www.youtube.com

 

知りたいと思うこと/謎を解くのだ夜明けまで(くせのうた/星野源)

死に至る病を抱えて、北へ向かう。

(まえがきのまえがき)

 「次にブログを書くときには間を空けないようにしたいな〜」

 「せめて月イチぐらいがペースとしては保っておきたいところ」

 「やはり心の変容を書き留めておかねばね!」

 なんて思っていたのも束の間、時はあっという間に経ち前回から3ヶ月。しかも前回は衝動的に書いたブログだったので実質半年ぶり今年2回目のブログか!?

 しかしまあ我らがMr.Childrenも新曲をリリースしていないところですので、それは実質「時は経っていない」と考えて良いでしょう。(サンドウィッチマンの0カロリー的な考え方)

 

 と、言いながら実は下書きがだいぶ進んでいたものがあって、読み返すとこれはさては5月だな……?

 タイトルもつけてあって、これはキェルケゴールキルケゴール)の「死に至る病」の感想を書き留めていたところだった。

 しかし当時の熱量がいまほぼなく、、、読み進めていただく方には申し訳ありませんがおそらく相当パッチワークな文章が展開されます。(もう既にそう)

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(本題) 

 

 少し前に東京は春を迎え、寒暖差の激しい毎日を繰り返していた。気が付けば夏を思い出させるような暑さ、それでもまだ風に湿り気がないのを感じる季節は5月。新緑が気持ちよく彩る町並みは、散歩をしても、自転車を漕いでも、或いはそれ以外でもきっと心を穏やかにしてくれる。ありのままの姿を映し出した自然に、もういっそこのままで、と思うことが何度かある。しかしそれは考えることを放棄することに他ならず、考える脳があるのであれば、できる限り問を繰り返したいと思い直す。ああ、いつの間にか2020年を通り越した僕らは次に来る新しい時代をどのような面持ちで迎えることになるのだろうか。

 

 『死に至る病』はキェルケゴールキルケゴール)が記した哲学書のひとつ。数ヶ月前に立ち寄った本屋でなんの気無しに手にとったままバタバタと読まずにいた(読まずにいた本なんてたくさんあるんだけど)。いまは東野圭吾の『麒麟の翼』を読んでいるのだけれど、なんとなく思い立って『死に至る病』について書く。(なんとなく、とか、思い立って、が多い記事だな。)

 

死に至る病 (岩波文庫)

死に至る病 (岩波文庫)

 

 

 私が読む『死に至る病』は斎藤信治氏訳で、第一編のタイトルは「死に至る病とは絶望のことである。」とある。その一編はこのように始まる。

 

 人間とは精神である。精神とは何であるか? 精神とは自己である。自己とは何であるか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、ーーそれで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するということである。

(引用元:死に至る病/キェルケゴール

 

 自己とはなにか?を問う中で、それは「他者によって措定されるもの」と「自分によって措定されるもの」と二分して考える。そして自分によって措定されるもの、すなわち“人間の自己が自分で自己を措定したもの”は“絶望して自己自身であろうと欲せず自己自身から脱れ出ようと欲するという形態についてのみ語りうるであろう”とキェルケゴールは語る。

 キェルケゴールの考える絶望にはいくつか形態があって、第一形態が前述の“自己自身から脱れ出ようと欲する形態”であり、第二形態は“絶望して自己自身であろうと欲する形態”である。

 そしてこの何れにおいても、キェルケゴールは「自分ひとりの全力を尽して自分の力だけで絶望を取り去ろうとしているようなことがあれば、彼はなお絶望のうちにいるのであり、」と語る。絶望とは自己との対話であり、自己との関係性であるが、それは突き詰めれば突き詰めるほど自己を絶望に追いやり、そうではないなにか(他者)を介在させることによってまた違う形態を見せる、しかし自己は自己を措定することで、自覚的に自己自身を基礎づけるのだ。

 

 そもそもキェルケゴールの語りかける絶望とはなにか?という点において、彼は「抽象的に絶望を考えようとすれば、我々は絶望は非常な優越であるといわなければならないであろう。この病に罹りうるということが人間が動物よりも優れているという点である。」と言う。これはつまり「人間は考える葦である(パスカル)」ってことでいいですかね?(違う)

 

 と、ここまでが私が熱量を持って書いた5月ごろの文章でして、本日は2021年8月7日なわけです(汗)

  

  ここ数年、自分の中でもテーマとなっていて、ブログの中でも似たようなことに言及することがあると思うけど、「ジョハリの窓」と「死に至る病」の内容は共通して考えられることもあるのかなあ、と思っていた。

 人間は、「自覚性のあるもの/ないもの」があって、「自覚性のあるもの」の中でもさらに「客観視できているもの/できていないもの」が存在する。それが所謂、「絶望」という状態における「絶望を自覚できている状態/できていない状態」「絶望を客観視できている状態/できていない状態」更にいうと「絶望(という心理状態)をコントロールできている状態/できていない状態」といった分解ができるのかな、と。

 ある種、この話は突き詰めると「自己との対峙」を物語っていて、それは例えるなら「ジョハリの窓」をどこまで意識的に組み立てることができるのか、というところにも通づるのかとも考えた。

 

 「死に至る病」は中盤「神との関係性」にも話が発展していくのだけれど、まあそれも現代においては一種のメタファーとして解釈しても差し支えないのかな、と。勿論著者においては全くその意図はないけれど、あくまで“現代風”にアレンジするなら。(怒られそう)

 

 暴論を吐くと、このコロナ禍において自己と対峙した人々とそうでなかった人々がいると思う。そうでなかった人々は、心理学でいう合理化が働いた場合もあると思うし、シンプルに慣れることができた、というのもあると思う。

 一方で僕は未だにこの状況にめちゃくちゃ違和感を抱いていて、コロナ禍という状況に対して向き合い方を考えてしまう。それはもはや政治が示す状況そのままに身を任せることができなくなっていて、自分自身で行動して責任を持って現状を決めていくしかないな、と。

 でも残念ながらその決定や試行錯誤が、人生になにか良い結果をもたらしているのか、ということが全くわからない、というのもそうなんだよね。別に僕らは無人島でサバイバルしているわけではなく、制度や規則、規律のある中で生活をしている。そうなってくると、そもそも慣れる、順応するということをしていけることのほうがスマートで、変な話、生存率みたいな面でもきっと高いような気がしている。

 

 だいぶ話脱線したな〜〜〜、でもいま冒頭読み直したら「できる限り問いを繰り返したい」なんてことをぼやいているので、もう少しこの性格を続けていきましょうかね。

 

 では、このあたりで。

 

 あ、最近のイチオシは「寺尾紗穂」さんですかね。アルバムでいうと2ndの「御身」が好きかな。こちらのYoutubeは比較的新しい楽曲『北へ向かう』でございます。


 

僕らは出会いそしてまた別れる/叶わぬことに立ち止まり祈る

日々生まれゆく/新しい愛の歌が/あなたにも聞こえますように

 

 (北へ向かう/寺尾紗穂)

 

 僕らは旅人同士、きっとまたどこかで出会えるね。そんな風に思って、最近は生きています。この広い世界で、ほんのちょっとすれ違っただけ。

 

猫がいた暮らし

 未明、一緒に暮らしていた猫が息を引き取った。人間にしてまだ50歳ぐらいの、まだまだこれから先があるはずの猫だった。持病を患い治療を行っていたが経過良好で、しっかり診てくださる獣医さんのもとで安定した日々が過ぎていたはずだった。一昨日、ご飯を食べない様子が発見されてからあっという間だった。昼頃に入院、翌日夜に救急搬送、そのまま治療を続けたが搬送先の獣医によれば詳細な原因不明のまま息を引き取ってしまった。

 

 動物のことを考えるとき、いつも思うことがある。動物と言語でコミュニケーションがとれたらな、と。

 このブログを書き始めたときに、とても拙い文章で書き連ねた記事のひとつに「動物のきもち」がある。

stock-flock.hatenadiary.org

 とても拙い文章ながらに、考え方が10年経っても変わっていなくて、たまに読み返したりする。

 

 猫ははたして一緒に時間を過ごせて幸せだっただろうか。

 猫にとってこの世界はどんな風に見えていただろうか。楽しかっただろうか。

 猫がいちばん嬉しいと思うことを、都度差し出してあげられていただろうか。

 

 そのどれもに、答えはない。

 

 仮にこれが人間であったとしても、もちろん真意を確かめようはない。しかし、ノンバーバルでない言語という、より記号的なコミュニケーションがとれていたら、それは私のエゴかもしれないが、どれだけ救われることがあるだろうと思う。ありがとうを伝えてばかりの状態を、私の脳の中だけですべて起こり完結してしまう寸劇を、君が悪戯にかき乱してくれたらきっともっと楽しいはずだ。そんな風に思っている。

 

 どんなに悲しいことがあっても、苦しいことがあっても、日々は続いていく。隣人の拙いピアノは軽快に響き渡り、下校途中の学生の話し声は窓を通して部屋に反響する。Aが存在する世界から、Aが存在しない世界へ、移り変わっただけなのだ。だけどせめてもの、ひとつひとつが、ひとりひとりが、一匹一匹が、今日も無事であるようにと、どうか無事であるようにと、祈りを重ねて生きている。目の前の猫は無情にも、その祈り届かず旅立ってしまったが、この世界よりももっともっと素晴らしい景色を天国で見れているといいな、と神様に願います。

 

 世の中にはわからないこと、解明されていないこと、確かめようがないことがたくさんある。その未知を楽しめるときもあれば、その未知が故に苦しむこともある。今回はその「わからない」にとても悩まされながら過ごした日々だったな、本人(猫)がいちばん辛かったよね、元気にまた走り回りたかったよね。大丈夫大丈夫と何度も呼びかけて、それでもダメなことがあるんだね。

生きている事。 ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。(斜陽/太宰治)

 またね。

 

魔法使いの弟子

 極限の恋愛とは

 先日、新海誠監督の『天気の子』が地上波で放映されていた。『君の名は。』は映画館で観たのだが、『天気の子』は観ていなかったので2021年1月3日の夜が初見だった。『天気の子』について、新海誠はインタビューで以下のように語っている。

僕は、『天気の子』は「帆高と社会の対立の話」、つまり「個人の願いと最大多数の幸福がぶつかってしまう話」だと思っているので、今作の中では「社会」は描いているんですよね。(“KAI-YOU.net”より引用)新海誠『天気の子』インタビュー後編 ”運命”への価値観「どこかに別の自分がいるような」 - KAI-YOU.net

  ここでいう“個人の願い”とは、主人公がヒロインに対する願いであり、最大多数の幸福とは、“主人公と彼女以外”が幸せに暮らす社会である。この『天気の子』は解釈によっては、主人公がヒロインを一途に思う純愛ストーリーであり、広く捉えれば「世界を天秤にかけるほどに盲目になってでも得る価値のあるものが愛である」とも物語の登場人物たちは訴えかけているようにもとれる。

 

 前回の日記で、書いたはものの、「稚拙な考えだな」と思って書き捨てた文章があった(メモにして書き残していた気もするが探しても見つからないので文字とおり捨ててしまったようだ)。それは現世における人間は満足した状態がデフォルトになってしまっているのではないか、ということだった。

 いま書いてもだいぶ頓珍漢な仮説なのだけれど、人間は日々生きていく中で一定の水準を満たしてしまうと“それ以上”を求めなくなってしまうのではないか、と最近ふと思って、人はいつまでも不満を探してしまう生き物であるとはわかりつつも、その一方で日々人と接していると“現状維持”を求める人は少なくないなあ、とも思っていた。

 コロナ禍における感情の麻痺と関連して、コロナ前であっても現代の人は感情の麻痺を起こしていたのではないか、というもので、誤解を恐れずに云えばそれは「いかに現状を幸福と見做すか」ということに人間はフォーカスしすぎているんじゃないかな、ということでもある。

 勿論、そのこと事態が悪いことではないとも思うし、人は常に思考をアップデートしているわけだからこそ稚拙だなと省みて書き捨てたわけだけれども、やはり“どういう状態で自分が満足するか”という満足の幅を調整できてしまうと、望むことや求めること、という状態も失っていくんじゃないだろうか、と考えていた。

 

 『天気の子』における主人公は、彼の世界における幸福の割合はほぼヒロインが占め、彼を幸福にするためのヒロインに向けて彼の行動のすべてが行われていた。彼にとって彼が生きる社会は彼とは無関係であり、彼女のみが彼であったのだ。(わかりにくい気もするがあえてそのように例える)

 それはどういう状態であれば自分が満足するかなどという俗世における常識とはかけ離れた思考で、彼は彼女のみを望んだ。

魔法使いの弟子

魔法使いの弟子

 
 人間の実存とは

 20世紀フランスの思想家ジョルジュ・バタイユによって第二次世界大戦の直前に雑誌「新フランス評論」にて発表された論文『魔法使いの弟子』は、そんな二人の世界について描かれた<恋愛論>である。酒井健により拙訳された冊子の帯には、以下のような言葉が内容より引用されている。

《その顔が見えなくなると心が苦しくなる》

そんな顔がこの世界を輝かしく変容させる…

魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ

 この本の書き出しは人間の欲求について問いかけることからはじまる。ジョルジュ・バタイユが生きる1900年代のフランス社会を「人間の生全般が衰退している」と提示しており、学問、政治、芸術、そのどれもが文化として独立して存在し、交わることなく、求められることなく、人間が生活しているという。それをバタイユは《人間でありたいという欲求を恐怖のために失ってしまった人間》と喩えており、「人間の活動の大部分は、有益な物品を生産する活動に隷属しており、この事態に決定的な変化は望めないように思う。(魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ)」と述べている。

 

 アランの幸福論を読んだときにも感じたことなのだけれども、「これだけ時代が変わっても、人間の状態は変わらないのか」ということである。

 この文章(「人間の活動の大部分は〜」)を読んだ時に、私自身が書き捨てた文章を思い出し、勝手ながらにとても共感してしまった。現代においても人は、人間であることを忘れて、その生活の中で違和感を持たずに暮らしていくことに従事しているように感じる。本来の人間が“求める”ということがどういうことなのかは哲学として存在するが、それを差し引いても人間は人間であるという欲求を失いかけてしまっているのではないか、とも思った。もしも100年前と今とで違いがあるとすれば、もしかしたら人間はとても賢くなりすぎてしまっているのかもしれない、ともふと感じた。

 

 バタイユは、そんな人間の状態を肺結核に例えて以下のように記している。(例えた理由がそれかどうかは不明だが、バタイユの恋人は当時肺結核で苦しんでいた)

結核は、苦痛を引き起こさずに気管支をどんどん破壊していくが、まちがいなく、最も悪性の病いだろう。同じことは、目立たないままに、そしてまた意識できると思われることすらないままに、人を滅ぼしていくすべてのことにあてはまる。人間を襲う最大の害悪は、人間の実存を隷属的な器官の状態に貶める害悪だろう。

魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ

 では、“人間の実存”とはいったいなんなのか。バタイユの云う“人間の実存[existence]”とは、『「今、ここで生きている」という生の現実、あるがままの人間の生のあり方を指し、「実存」を損なう近代生活は「人間の運命」に背を向けていること(魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ)』だという。

 話が少々飛躍する気もしないでもないが、バタイユにとって恋愛とは、恋人たちの存在によってつくられる世界とは『隷属的に縮小される以前の人間の生の特徴(魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ)』だと云う。

 

 『天気の子』を前段で引用させてもらった通り、確かに恋愛とは突き詰めれば盲目的な行動であり、それ自体がすべてにも成りうる、その存在自体を貪欲に欲する人間の機能であることには違いない。

 バタイユはそんな恋愛を、恋人たちの真の世界こそ、最初から偶然にすべて支配された状態であり、それを愛することこそ、恋人というミクロな状態から宇宙というマクロな状態までをも愛するという行為に繋がるのだ、すなわちニーチェの唱える運命愛なのだ、と語る。

 

 訳者あとがきで、こんな一文がある。

 「夜を飲み干す窓の広さを信じよう」

 魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ/訳:酒井健

 この一節は、訳者の友人が書いた詩であるという。(朧気な記憶かららしく、正確でない可能性がある)

 恋人たちだけが存在する部屋と、その窓の向こう側にある社会。その対比を書いた一節であるそうだが、ジョルジュ・バタイユもまたその極限について書き記した。バタイユもまた著書『肉的体験』にて「極限は窓なのだ」と述べ、その意味について訳者は「彼にとって大切だったのは、この狭間を可能な限り横滑りしていくことだった(魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ/訳:酒井健)」と推察し、「二つの世界の間の曖昧な境地をスライドし、宇宙との意識的な交わりを果たしていく(魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ/訳:酒井健)」とも解釈している。バタイユは、この状態を“交流”というテクストで書いた。

 

 まあ、めちゃくちゃ総合して個人的な解釈に戻すと、「生きる理由」を問いただすとき、その曖昧さに気が狂いそうになるときはあるし、運命愛なんて言葉で包容できるほど柔軟でもないなと考える一方で、そもそも運命愛とはすなわちその状況を受け止めることなのだというミクロな状態まで視点を落としていくと、また視えてくるものがあるかもしれないと思った。

 ただそれ以上に、求めることや、盲目であることは、バタイユの云う「欲求を失った人間は生産する活動に隷属する」こととはまた違った形での“自分自身へ呪いをかけること”に他ならないのではと思ってしまうことも確かで、それは自覚して死に立ち向かうか、無意識に死に抱かれるかということの違いでもないかとも考えてしまった。

 勿論恋愛において、そういった哲学や思想を持つことが、この世の真理に近づいた気がするひとつの手助けであることには世の中に残された文学や音楽からも分かる通りではあるのだが、やはりそれはいくつかの世界の境界を曖昧にスライド<交流>しているに過ぎず、辿り着くためにはより広義な解釈と、あくまでパズルのピースのひとつである、という自覚が必要なのかな、と感じました。

 

 まあ、そうやって考えてしまうことがまた答えが見つけられない、「これこそが答えだ」と決定づけられない袋小路に入ってしまっている理由なんだけれども。。

 

天気の子

天気の子

  • 発売日: 2020/03/04
  • メディア: Prime Video
 

 


映画『天気の子』スペシャル予報

 

 本の表紙はキリンジのスウィートソウルなわけなのだが公式PVがなかった為、天気の子をはる。(Weathering With Youって英題いいよね)

魂のゆくえ

 10年前の新宿と今の新宿。目に見える景色は大きく変わっているはずなのに、ふとした瞬間、この場所が“変わっていない”と感じたのは何故だろう。それは新宿が表現していることがそうなのかもしれない。南口では相も変わらずスピーカーからカラオケを垂れ流して誰かがパフォーマンスをしている。新宿駅にはルミネの広告がデカデカと掲示される。年末になればキリスト教の言葉が雑音より耳障りな音で流布される。信号が青に変われば群衆が移動する。内閣総理大臣は、この国を代表する。敷かれた規律や慣習は、人間らしさを与え、その安心感に無意識の中で侵された私たちは人間であることを忘れる。

 

 休日感がない、季節感がない、年末感がない。今年よく聞いた言葉のように思う。自粛によって人々は物理的なオンオフの切り替え作業を排除され、外的要因で脳を錯覚されることが困難になってしまった。物理的な行動を制御されることは、好奇心を限定することでもある。無論、物語は例えば路上に捨てられた新聞紙の社説にだって無限大に広がっているが、人間はそう器用ではない。なにもない独房の中で壁に想像で絵を描き続けられる人間もいれば、そうでない人間もいる。そうなったとき、外にでることができないという制限は、また“できるだけ同じ作業を繰り返す”という回避行動は脳の感度を衰えさせたといっても過言ではないだろう。感情を殺す作業が、人間にどのような影響を与えるのかはわからない。しかしこのなだらかに感情を殺していくムードは、大きな悲しみも与えなければ、相対する喜びへの飛距離も緩々と縮め始めているように感じる。感情が麻痺するという情景を在々と感じさせる1年であった。

 

 あまりよい例えではない気もするが、思い浮かんだことをそのまま書くと、ある人物がyoutubeの実況配信で「ここ最近特に原因もわからないまま苛々している」と訴えていた。そしてその人物自身が推察するに「あまりにも刺激がなさすぎて自分で刺激を与えようと苛々している気がする」と言っていた。その話を聞いたときには、「そういうこともあるもんだなあ」と思ってはいたものの、いま自分で文章を書いていて、それは一種の心の防衛機制なのではないかと思った。心の機微を心が感じ取り、その為に心に無理矢理に変化を与えようとしているのであれば、苛々するのも頷けるな、と思った。

 

 と、ここまで書いたのが3日前……

 本当は年内に読みたい本を買ってその感想も書こうと思っていたのに、結局書けなかったぜ……

 でも、2020年に書いたものは2020年に、ということで(そんなマインド持ち合わせてないけど)、なんとか年を越す前に投稿します。。。

 

 いま読み返すとだいぶ平和ボケした文章を書いていたなと恥ずかしくなったので、これからはしっかりと“いま自分にできること”を考えながら生きていきたいな、と思った。

 どうしても内省することが多くなってしまった1年だけれど、内省で心の豊かさを取り戻すことはできても、世界の豊かさには直結しない。でもいま求められているのは、この事態をどのように良い方向へ耕していくのか、ということだろう。

 満足/不満足といった自己基準の価値観ではなく、世界がこれまでにあった基準を取り戻すためにいま自分ができること、その規模で物事を考えていきたいと思った。

 

 2021文字にしようと思ったけどとてもじゃないが足りないので、このあたりでおわります。年が明けたら興味深く買った本の感想でも書きます。(しかしこれまた内省を促すような本なのだ)

 

 2021年は、できるだけ多くの人にとって光の見える1年でありますように。

“Mr.Children”という生き物の状態を音楽にする / Album:SOUNDTRACKS(Mr.Children)全曲レビュー・感想

 Mr.Childrenのフロントマン桜井和寿は、絶妙な論理と感覚のバランスで「いまMr.Childrenが世間から求められている音楽はなにか」「Mr.Childrenが表現したいことはなにか」を音楽として表現し常にヒットを打ち続けてきた。前々作『Reflection』では、あらゆる世代へ余すことなくアプローチした多面的なMr.Childrenを一枚に収め、前作『重力と呼吸』ではMr.Childrenが持ちうるエネルギーをすべて詰め込んだ前線に立つバンドとして尚、挑戦的で野心的な一枚を世に打ち出した。

 では、本作『SOUNDTRACKS』はMr.Childrenにとってどのような一枚なのか。それは「turn over?」を聴いたときから感じていた“Mr.Childrenであって、Mr.Childrenでない”“ニューニュートラル”なアルバムとなっているように感じる。そのときの熱量はもう手に入らないので、「このミスチル!!なんて自然体で新しいんだ!!」という感覚は以下の記事でどうぞ。

stock-flock.hatenadiary.org

 

ニューニュートラルな時代の幕開け

 事実「Birthday」が発表された頃から、Mr.Childrenは“ニューニュートラル”な状態になっていた。驚くほどに音楽が軽やかで、ストリングスが際立っているにも関わらず、明らかなバンドの状態を表現していた。

 全編アナログレコーディングで行われたという本作『SOUNDTRACKS』は、レコーディングとミックスを担ったSteve Fitzmaurice、マスタリングをおこなったRandy Merrill、エンジニアのDarren Heelisを筆頭とした面々の手によって“温もりのある音”に仕上げられている。

 振り返ってみればMr.Childrenの音は、いつも“鋭さ”があったように思う。それこそエンジニアの今井邦彦さんが常に土台を作りながら、『IT'S A WONDERFUL WORLD』までは海外エンジニアのマスタリングもあったが、以降は国内でおこなわれ『Reflection』を経てまたサウンドメイキングの面での大きなチャレンジや模索がはじまっていったように思う。    

 『Reflection』や『重力と呼吸』は、コンセプトこそ全く違うものの、バンドサウンドが粒立ちシャープなサウンドで、それこそ重力をずっしりと感じさせるような音像でリスナーを魅了した。

 一方で『SOUNDTRACKS』は、軽やかでありながらも温かみのある、そしてなにより“側で鳴っているのに/側で鳴っていない”感覚がある音像だ。臨場感のあるサウンド、とは正直またちょっと違うのだが、『SOUNDTRACKS』は音楽が鳴らされているその場に居合わせているような、そんな感覚がある。

 

Mr.Chilrenという生き物は歳を取る

 歌詞の面で言えば、私は本作を『IT'S A WONDERFUL WORLD』的だな、と感じた。それは桜井和寿にとっての作家性が如実に表れた作品のように思えたからだ。それは誤解を恐れずに言えばとても文学的な側面を強く持つMr.Children桜井和寿の作家性がでているように感じた。 

 「Mr.Childrenがもし生き物として存在していたら、きっといまこんな心情なんだろう」。『SOUNDTRACKS』を聴き終えた時に、そんな風に感じた。“Mr.Childrenという生き物”の思いが、音楽になって響いているように感じた。この作品に綴られる生や死は、人間にとって、だけではなくMr.Childrenにとっての“時間の経過”なのだ。そしてそのMr.Childrenという生き物の自然な状態が、自然な形で、レコーディングされている。『SENSE』が「Mr.ChildrenMr.Childrenを越える」ことがコンセプトであったなら、『SOUNDTRACKS』は「Mr.ChildrenMr.Childrenを描写する」ものとなっているのではないか。

 “いまある生活からの脱却”ではなく“いまある生活との共存”そして“受け入れ”を綴る本作は、きっと時が経っても色褪せない、まるでそれぞれの人生のBGMのように生活に寄り添いながら存在していくのだろう。

 BGMと形容したが、「Mr.Childrenに依存するのではなく、あくまで生活の一部として存在するような、そんな音楽であってほしい」と桜井和寿が折に触れて語るのは決して「BGMとして消費されていく」ことを求めているのではなく、「Mr.Childrenがあることで彩られる生活」を想像して語っているのだろう。『SOUNDTRACKS』は、きっとそんな風に寄り添い続けるアルバムになるような予感がしている。

SOUNDTRACKS 初回限定盤 A (LIMITED BOX仕様/CD / DVD / 32Pブックレット)
 

 

M-1. DANCING SHOES

  ブルージーサウンドで展開されるオープニングナンバー『DANCING SHOES』。Mr.Childrenのアルバムは不穏な空気ではじまるものが少なくない。『深海』の「Dive」「シーラカンス」、『シフクノオト』の「言わせてみてえもんだ」、『HOME』の「叫び 祈り」、『SENSE』の「I」。しかし、いままでのそのどれもとまた違った性質のダークさを秘めた楽曲だ。Mr.Childrenが得意とする岡村靖幸的複雑な譜割りと韻で遊びながら、「君は思うよりカッコ良い(DANCING SHOES/Mr.Children)」と地団駄を踏む誰かに呼びかける。「掌」や「ニシエヒガシエ」のようにライブでアレンジ化けしそうな予感もある。

息を殺してその時を待っている(DANCING SHOES/Mr.Children)

 

M-2. Brand new planet

  フジテレビ系(関西テレビ)ドラマ『姉ちゃんの恋人』の主題歌として発表された本作。第一話終了タイミングでyoutubeにスタジオ版ミュージックビデオが公開された。いままでのMr.Childrenの系譜を引き継ぎながらも、いままでにはなかった新しい可能“星”を求める楽曲となっている。鍵盤にあわせて静かに歌い上げられる桜井和寿のボーカルと、1コーラス後にバンドが加速しても尚、主張が強くならないサウンドは本作だからこそできたことだと感じる。

 新しいMr.Childrenを求めて、新しい音楽を求めて、そして新しい人生を求めて、私たちはこれからも旅を続けていく。Mr.Childrenにとっての「終わりなき旅」でもあり「名もなき詩」でもあるような、可能性を求めて美しく音楽を綴る『SOUNDTRACKS』という世界観を代表する楽曲だと思えた。


Mr.Children 「Brand new planet」 from “MINE”

「遠い町で暮らしたら 違う僕に会えるかな?」/頭を掠める現実逃避(Brand new planet/Mr.Children

 

M-3. turn over?

 『turn over?』はハッピーなミドルテンポのポップチューンだ。しかし、歌い出しのフレーズからも感じる通り主人公の恋愛に対する葛藤や苦悩が日常と照らし合わせながら描かれている。“人生で最大の出会い”“人生で最愛の人”に向けて歌ったラブソングであるが、それは決して大袈裟なものではなく、日常から切り取ったワンシーンのような普遍的な愛の歌なのである。

 アレンジも決して壮大な仕上がりではなく、歌始まりという大胆なスタートを切りながらも軽快な8ビートのドラムに乗せたシンプルなアレンジになっている。特にアルバム『重力と呼吸』でよく感じられたような所謂強く押し出された“バンドサウンド”ではなく、楽器隊でいえばアコースティックギターとタンゴが主軸となってアレンジされているような感じがして、そのせいかバンドサウンドでありながらも主張しすぎないアレンジになっているような印象を受ける。

 このロックではなくポップなMr.Children像はいままでであるようでなかったMr.Children像だと感じていて、『Birthday』『turn over?』ともに最低限のアレンジで、けれど“余白を大事にしている”軽快ながらも輪郭がはっきりと見えてくる音像はニューニュートラルなMr.Childrenの時代の幕開けを感じさせる。

 

M-4. 君と重ねたモノローグ

 『SOUNDTRACKS』は、おそらく意図的に短い楽曲が多い。桜井和寿が雑誌のインタビューで「イントロが長いと疲れる」と語っていることから、最近の傾向として長くないものを意図的につくっているように感じる。Mr.Childrenの楽曲は「終わりなき旅」や「GIFT」「fanfare」など5分を越える作品も少なくなく、むしろそこが壮大な展開で魅力的な楽曲も多いのだが、『SOUNDTRACKS』において5分を越えている作品は「君と重ねたモノローグ」と「others」のたった2曲のみである。

 そして「君と重ねたモノローグ」は前半/後半で別れており、BPMも異なる。いわば前半は歌詞つきの歌、後半はインストといった形で展開され、楽曲の雰囲気も違う。「映画ドラえもん のび太の新恐竜」主題歌で、「Birthday」とあわせてプロデューサーに2曲手渡された。直接的には語られていないが、1曲目に手渡されたのが「君と重ねたモノローグ」で、違うアプローチとしてもう一つ展開されたのが「Birthday」だと思われる。

 近年「忙しい僕ら」などでも感じられるような派手さはないが、しっとりと歌い上げるバラードから、後半は映画のエンドロールのようにそれぞれの楽器が弦も含めてしっとりとテンポチェンジして音楽が展開される。

鏡に映った自分の/嫌なとこばかりが見えるよ/恵まれてる/違う誰かと/比べてはいつも/諦めることだけが上手くなって(君と重ねたモノローグ/Mr.Children)

 

M-5. losstime

 L-Rで鳴らされるアコースティックギターアルペジオと、初期のMr.Childrenに見られたユニゾンのボーカルが、不安定さや揺れを演出することで、「losstime」の世界観を美しく表現している。初期のミスチルにとってのユニゾンという手法は、桜井和寿のボーカルの細さを補ったり、ポップさ、華やかさを演出する側面が大きかったと推測するが、本作は楽曲の世界観をより豊かにするための技法のように受け取れる。メロディーラインとしては、例えるなら「車の中でキスをしよう」のような“閉じられた”世界で歌われる、内省的な楽曲。

 

M-6. Documentary film

 これもアルバム発売前にミュージックビデオが公開された楽曲である。“終わりがあるからこそ美しい”ということをストレートに歌った、というわけではなく、私がこの楽曲を聴いて感じたのは“日々淡々と時間が過ぎていく残酷さと、その物語の儚さ”である。『HOME』では日常を歌い、『SUPERMARKET FANTASY』では命を歌ったMr.Childrenが「Documentary film」ではその両方(日常と死)を歌ったように思う。これは「HERO」の2コーラス目で歌われる人生をフルコースで表現した世界観にも通ずる。花が枯れていく喩えこそあるものの、あくまで日常というドキュメンタリーフィルムを歌うことで、そこに儚さや、残酷さを表現する桜井和寿の作家性があらわれた名作。

 アルバム制作初期にレコーデイングが行われ、仕上がってきた楽曲を聴いた時に「このアルバムは絶対にいいものになる」と確信を得たと語られる本楽曲は、情緒豊かなストリングスの展開も聞き所。ミュージックビデオだけで流れるイントロもとても良いです。そして、ギター田原健一の演奏するアルペジオがとても美しい。


Mr.Children「Documentary film」MUSIC VIDEO

今日は何も無かった/特別なことは何も(Documentary film/Mr.Children)

 

M-7. Birthday

 私は“Mr.Childrenらしさ”というのがそれぞれの世代が思う像があるように多面的にあると思っていて、その集大成が『Reflection』というアルバムだと思っている。その後に続いた『重力と呼吸』というアルバムは、“バンドとしてのMr.Children”を強く押し出したもののように感じていて、ある種“宣言”のような、強いアイデンティティを感じた作品だった。特に『皮膚呼吸』という楽曲は桜井さんの心の内側を吐露するような、ヒリヒリとする無視せずにはいられないメッセージ・ソングに感じた。

 一方でこの『Birthday』はどうか。私は、いままでの“Mr.Children”らしさを振り切った“新しいMr.Children”が生まれたと思っている。あえて例えるなら『IT'S A WONDERFUL WORLD』期に持っていたMr.Childrenの若さ(青年性)は感じるのだけれど、ここに来てまた“若い芽”がでてきたような印象だ。

 ストリングスを用いながらも、誇張しすぎず主張しすぎないアレンジ。イントロで重なるアコギとストリングスに、軽すぎず重すぎもしないのにタイトめなキックの音。桜井氏のボーカルも熱量を持ちながらも、前にですぎていない。

 だから聴いていてとても心が若返っていったし、思わず笑ってしまった。楽曲を聴いてこんなに嬉しい気持ちになったのは何年ぶりだろう、と嬉しくなった。

 『皮膚呼吸』のような楽曲はやはり共感性も高く、自分と重ね合わせながら心の奥深くまで言葉が沈み込むのだけれど、『Birthday』はそういった論理を越えて“あの頃”へ連れて行ってくれる楽曲だと思った。「まだまだこんな風に若くいれるのか」と、若い人たちに合わせるのではなく、彼ららしくいながら「こんなにも風を切って前に進めるのか」と感動した楽曲でした。

 

M-8. others

 キリンビール麒麟特製ストロング」のCMソングでサビだけが延々と流れた。と思いきや、それはサビではなかったのか!?と思いきや(思いきやが多い)、そんな概念など取っ払うようなゆるくメロウでジャジーな楽曲。本作は非常に温かみのあるピアノやストリングスを感じられる楽曲が多いが、本作も漏れなくそうで、特に「others」ではドラム、ベース、エレキギターの音色もその温もりを一層に纏って展開されている。

 サウンド面は非常に1970年代アメリカ的であるのに対し、歌詞の世界観は東京ど真ん中である。個人的に大人版「デルモ」と捉えている。主人公の生活や、価値観、生活、心情などが繊細な情景描写によってイメージされ、聴き手をその世界観に引きずり込む。桜井和寿のソングライティングは、「デルモ」をはじめとした「渇いたkiss」や「UFO」、「CANDY」など、こういった“行き場のない恋愛”の情景描写がとても素晴らしい。

 

M-9. The song of praise 

 こちらも歌始まりの楽曲(本作は歌始まりが多い)。「生きているこの場所を讃えよう」という讚える系ソング。序盤の「おーおー」というコーラスが、洋楽的でありながらもMr.Childrenとしてしっかりと昇華されている。Mr.Childrenの讚える系の楽曲は、「GIFT」や「ヒカリノアトリエ」「End of the day」など近年多い中でも、「The song of praise」は、サウンドともあわせて主張が強くなく、それでいてリスナーに寄り添いながら、まさに“SOUNDTRACK”として側にいて支えてくれる強さを感じさせる。おそらくそう感じさせる(主張しすぎない)理由としては、ストリングスを取り入れずにバンドだけで仕上げている、ミニマムでまとめようとしているところからなのではないか、と思う。コーラスが入っているのも、ライブ感、手触り感があって、とても良い。これもライブでアレンジ映えしそうな楽曲だな、と感じました。

積み上げて/また叩き壊して/今僕が立っている居場所を/憎みながら/愛していく/ここにある景色を讃えて(The song of praise/Mr.Children)

 

M-10. memories

  度々語っているかもしれないが、『Q』というアルバムのラストを飾る「安らげる場所」には、桜井和寿以外のメンバーが参加していない。バンドとしての野心が強かったあのタイミングで、そういった編成の楽曲を最後に差し込んできたのは、ある意味でプロ意識やバンドとしてのストイックさをとても感じた。

 『memories』もSimon Haleのピアノにあわせて桜井和寿が歌い上げられるミドル・バラードで、Mr.Childrenメンバーの参加はない。リズムはSimon Haleのピアノだけを頼りにレコーデイングされたという。桜井和寿のハモりが、Mr.Children史上に美しい楽曲、と言ってもいいのではないか。そう感じさせるのは、Simon Haleのピアノと、それを取り巻くストリングスの演出のせいと言ってもいい。

 この楽曲で幕を閉じることで、『SOUNDTRACKS』が完成すると言っても過言ではない。現在のMr.Childrenの状態を、そして生き物としての存在を、年老いること、時間が過ぎていくことの普遍性を、否応なしに感じさせるエンドロールだ。

 

 人間は、その心にある物語と共存して生きていく。そしてその物語の終着を、いつか決めなくてはいけない。はじまりも、おわりも、おそらく自分では知ることはできないだろう。ただ、その物語を美しく綴る作業を、日常の中で様々な感情と出会いながらおこなっていく。やがて、その物語が誰かの本棚の中で色褪せていくことを想像しながら。

 心臓を揺らして/鐘の音が聴こえる/僕だけが幕を下ろせないストーリー(memories/Mr.Children)

self reflection/as context

 ここ最近は鍋料理ばかり食べている。運動不足にならないよう、からだを動かすことに加えて、食事にも気をつけるようになってから、心做しか健康的になったような気がしている。体を動かすだけではなく、なにを食べるかも重要なのだな、とこの年齢になって今更ながらに感じる。ここまで文章を書いてみて思ったが、どうやらだいぶ今回の日記は散文になりそうで言葉も軽々しい気がしている。“ここ最近は”とか“気がしている”は文章を書く上での個人的な癖かもしれないな、と思った。近況を記すことが未来の自分が振り返ったときのそのシーンを思い出すためのフックになっているのではないかとも思う。

 

 取り立てて面白いことが起きる日々でもないが、この文章を書いていて思い出したことと言えば数ヶ月前にMac Book Proを修理にだして、無償修理扱い(修理サービスプログラムの対象だった。しかも複数の)だったので私のMBPはディスプレイとキーボードが綺麗になって戻ってきた。キーボードは“パチパチ”と軽い音を立てて小気味良く響いていたのが、“パタパタ”とバタフライキーボードという名前に相応しく静かに音を立てるように変化していた。確かバタフライキーボード、叩き心地が不評で、仕様を変えたのよな。ほぼほぼ新品で戻ってきたような気がして、小さく心躍ったのを覚えている。

 

 実に残念な事実ではあるが、ここ最近で私が心躍ったことといえばいま思い出す限りはそのようなことだ。世の中が面白くないと感じるときは、自分自身の見方を疑おう、という考え方がある。それは間違っていないし、幸せも不幸せも自分がどういったフィルターを通して事実を閲覧するかで解釈が変わってくるのだから、面白い/面白くないも永遠に主観からは離れられないのである。“世の中”が面白くないなどというのは、あまりにも主語の大きすぎる暴論であり、それは大抵“私の見ている世の中”が面白くないのだ。

 

 て、考えすぎて自分に原因を持ってきすぎちゃうと疲れちゃうな、って最近思います。疲れちゃったら、世の中のせいにしていいと思うよ。

A子さんの恋人

 さて、2015年に単行本1巻が発売された近藤聡乃著の漫画「A子さんの恋人」がついに2020年、完結した。

 「A子さんの恋人」は、元恋人のA太郎と現恋人のA君との間で揺れ動くA子の心の様と、その環境を映し出した日常系漫画だ(作者的にはこういった形容は不本意かもしれないが)。どういったきっかけで私がこの漫画を手にとったか、記憶が定かではないのだが、1巻を読み進めていたときはどちらかというとそれこそ“日常漫画”のように思っていた。しかし、結末を読み終えたときには全く別の印象をこの漫画に抱くように、この漫画は決して“日常漫画”ではなかった。そして、“結婚”漫画でもなければ“恋愛”漫画でもない。自己の内省(self-reflection)の漫画なのである。

A子さんの恋人 1巻 (HARTA COMIX)

A子さんの恋人 1巻 (HARTA COMIX)

 

 ネタバレをしない範囲で、抽象的に書きすすめるが、主人公のA子はA太郎と長く恋人であったが特に大きなキッカケもなく2人は半ば自然消滅(≒決定的な原因について明示することなく)に近い形で別れることになり、A子は渡米する。渡米した先でA君と出会いA子は恋に落ちるが、帰国した先で起こるアレコレの心の葛藤を映し出した全7巻である。

 「A君が恋人なのだから、A太郎がなぜ関わってくるのか?」は物語にも触れ始めてしまうので割愛するが、一面から見れば、この漫画は“A太郎を選ぶか?A君を選ぶか”の物語にも見て取れる。実際、私はそういう風に物語を読み進めていた側面が強かったが、実際には当たり前だけれど“A子の物語”であり、“A子とは何者なのか?”を内省する物語なのであった。

 そのA子自身というキャラクターの輪郭を映し出すのが、A太郎であり、A君であり、その周りの友人たち含めた登場人物なのだ。当初から確実にそのコンセプトが作者自身にあったからこそ、読み終えた時に1巻から読み返したくなるし、見方を変えて読むと別のストーリーが見えてきたりもする。 

  A子は漫画家であり、A子が描くデビュー作にはメタファーとして度々“鏡”と“鏡にうつる少女”がでてくるのだが、それがなにを表現しているか、それを考えながら読み直すと、そこには“A子を見る読者”が浮き彫りになっていく。

A子さんの恋人 7巻 (HARTA COMIX)

A子さんの恋人 7巻 (HARTA COMIX)

 
私という自己を表現する

  以前「私とは何者なのか?」といったことについて連連と書いたことがあったけれど、「A子さんの恋人」は「私という人生は何(者)なのか?」を表現しているように感じる。それを感傷的ではなく淡々と“A子”という擬似的な人生を通して、“選択”という物語の中で体験する。

stock-flock.hatenadiary.org

 この物語の中では、正解も不正解もだされない。こうあるべきというメッセージも展開されない。そういう意味では、まさに“日常漫画”であって、“どこかにありそう”な物語である。しかし、主人公“A子”が“なにを言葉にできずに”“どうして心がわからずに”日々を悶々と過ごしているのかを、おそらく読者もはっきりしないまま読み進めていく。しかしクライマックスに進むに向けて、A子が、そしてA太郎やA君が共にその人生にかかった靄の向こうから淡い光を照らしだした瞬間、1巻からのストーリーがはっきりと一つの道筋として成立する。物語的にも、非常にドラマチックな展開だった。

 私が誰であるかは、私にしかわからない。けれど、私を私たらしめているのは、私ではなく“周り”なのだ。私という自己は、“私以外”によって存在し、私が私以上になる為には“私以外”が必要なのだ。

 月並みな表現ではあるが、A子さんの恋人はそんな“A子という私自身”を探す旅の物語だ。A子や、それ以外の登場人物たちが、それぞれの人生において、私をどのように見つめ、見つめられ、あるいは見つめも見つめられもせず、どこに向かうのか。他者という存在によって、自己を見つめ(るきっかけを与えられ)、それが表現となり、自己を探す物語である。

おわりに

  なんとなく、なんの脈絡もないけれど。なにかを貼らなければ終わらない気がして、青葉市子さんの「月の丘」より言葉を借りて締めたいと思います。(そもそも日記に締めとは?)

呼ばれた人は たやすく登れてしまう
月の丘 あの子はまだ
わたしたち 幾つも約束をしたまま (月の丘/青葉市子)


青葉市子 - 月の丘

 

 今年は“私”にまつわる日記が多いな。

 

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