今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

自己の喪失

 

 深夜。冷めた感情に身を任せたまま。駄文。

 

 いくつかの文章を振り返る中で、小川洋子さんが『物語の役割』というエッセイの中で記されていた『ほんとうに悲しいときは言葉にできないぐらい悲しいといいます。ですから、小説の中で「悲しい」と書いてしまうと、ほんとうの悲しみは描ききれない。言葉が壁になって、その先に心をはばたかせることができなくなるのです。』という文章を思い返し、ここ数日救われている。

 

 とはいえ、私自身の中になにか悲しい出来事が起きたわけではなく、日々は淡々と続いている。

 あえて、その言葉になぜ救われたのかを書くとするのならば、この言葉で表現しようのない感情の正体がまるっきり掴めそうにもないから、ただひたすらに文章にしようと思えたことだ。

 言葉を撒き散らすことで、思考が整理されているのかどうかも把握はできないが、幾分すっきりする節もある。

 

 タイトルで“自己の喪失”と書いたけれど、それは「私とは何者であるのか」を問うものではない(書き終わってから気づいたけど、結果的に問うものになっていた)。ここ数年、「私とは何者か」「何者かになろうとして悩む人が増えている」とよく聞くようになった気がする。勝手な印象であるけれど、インターネットやSNSが普及するにつれ、「(では)私は何者であるのか」と考える人が増えたように思う。

 それは推測であるけれど、それまでの時代では接することのある著名人という存在が“遠い存在”であったことに対し、現代では“まるで身近な”存在が「なにかしらの者」になっている現象が起きているからだと思う。少し広い視点でいえば、「インフルエンサー」という存在は一見なにをなしているわけでもないように見えて、その言葉だけで誰かがなにかであることを抽象的に理解できる存在だ。狭い視点でいえば「フォロワー数がいくつ」という指標ですら、その人が何者かを示す糸口になっていることもあると思う。

 Instagramがいいねの数を表示するのを廃止したように、人々は「自分」と「誰か」を比べることで、「私が何者であるのか」を証明しようとするし、「相手が何者かである」ということを感じてしまったりする。

 「少なくとも私は何者かである」ということが、自己の存在を認めることに繋がり、安心感を得られているんじゃないかと思う。

 

 話は脱線するが、こういった話を書くときに、度々思い出すのが学生のときにグループでおこなった「あなたが人生でもっとも重要だと感じるものを高いものから並べ替えなさい」という問いかけで、なんかたしか8つぐらいあったんだけど、優先度が最も高いものに「他者から認められること」をあげている人が多かったのが印象的に残っている。私がそのときなにを最も優先度の高いものにしたのかは覚えていないのだが、「他者から認められること」は8つの中では結構低めにだした記憶がある(その理由が大事なのだが、当時を思い出せない)。「ああ、みんな誰かに認められることで自己の存在を認めているんだな」とその時に“勝手に”感じた気がしている。

 

 さて、話は戻り、仮に現代人が「私は何者か」を探し求めてSNSの海の中を彷徨っているのだとしたら、私はなかなかそこについていけないな、と思う。

 「私は何者か」を気にしたことがないと言いたいわけではなく、むしろずっと問いかけているし、「何者にもならなくていい」なんて風潮は気休めでしかないと思っているのだけれど、じゃあこのインターネットの中で「私は何者であるか」を誇示するために活動ができるのかと言うと、それはInstagramがいいね数の表示を廃止したように、右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても、きっときりがないからだ。

 

 「自己の喪失」と書いたのはそういうことで、「何者であるか」を他者から認められることで自己を得ようとする行為は、結果的に“自己を喪失”しているのではないかと思った。

 私はここまで生きてきた中で明確な人生の設計ができていない。アスリートではないからオリンピックを目指していたわけでもないし、どこかのチームに所属することが目標で活動してきたわけでもない。引退後にコーチになるか、タレントとして生きていくかといった選択肢があったわけでもない。(なんか変な喩えを書き続けている気がする)

 つまりは私は明確に“ここ”という場所に向かって歩いてきたわけではないので、それなりにひたすらに“山頂”は目指して山登りを続けながら、昨日よりはいい景色を見ながらなんとか生きてこれているわけだが、ここにきて「本当に山頂はあるのか?」「これが本当に山頂なのか?」「もしかしてもう下っているのではないか?」とか考え始めているのである。

 

 そう考えると、“登っていること(正しく登っていることが証明されること)”そのものは、本当はさして重要ではないのだ。

 いや、勿論明確なゴールを見据えてそこに向かって歩いていくことも重要ではあるのだが、それ以上に大事なのは……と書いたところで思考が詰まった。勢いに身を任せながら書いていたので、幾分「ああ、いま自分はこんなことを考えているのだろうな」というのは見えてきたのだが、「では結果大事なことなのはなんなのか?」はまだ言葉にならないようだ。

 

 それ以外に私がいま考えていたことでいうと、「例えばあなたの人生を全肯定してくれる存在があるとしたら?」ということである。

 もしも、私がこうして自身を見失っているときにそれまでのすべてを肯定されたら、それはそれで足元を照らす光になることに違いはないだろう。しかし、それは本質的な解決策ではなく客観的に考えたら文字通りそれは“照らされている”にすぎないのだ。人は人を照らし合いながら生きていると思っているから(東野圭吾が小説の中で描いたように「生きているという事実だけで誰かを救っていることがある」)、勿論その“照らす行為”そのものはとても重要なことであるし、現状誰かの失敗を一斉に叩く行為の中で例えそれが失敗であっても「あなたのしたことは間違っていない」という言葉は、その人の自己を保つことのできるきっかけになり得るだろう。

 

  と、書いているところで風呂に入ってきたら自分がなにを言いたいのか多少見えてきた気がする。

 

 つまり“他者によって自己の存在を得よう”とする行為は“他者依存”が強すぎるために自己と他者の境界がなくなり自己の喪失とも言える危険性があるなと思うのだが、そうではなく他者は自己を発見するための“ツール(という言い方は無機質だが、きっかけや手がかり、とも言い換えられるかも)”であると考えたときに、そこに光明が指すのではないかと思う。

 風呂に入りながら考えていたことは、私自身は自己を他者へそもそもほとんど開示しないし(ロックされているレイヤーが多い)、自分自身に対しても開示できていない(解除できていない)深層の心理が多いな、と感じた。

 そうなったときに前述のようにそもそも「他者を通して自己を認める」ことは結構難しく(むしろ容易が故に危険なのか?)、必要なのは少なくとも「自分自身に対する自己の開示(深層心理の解除)」であるのではないかと思った。

 

 山登りの例も、自分で書いておいてしょうもない例ではあると思うが、「どこに向かって歩いているのか」が重要なのではなく、「その行動は自分自身にとってどのような影響を与えているのか」を常々フィードバックできるかどうかが大事なのではと思った。

 全肯定してくれる存在も、“全肯定”というまやかしのキーワードが本質をぼやけさせてしまっているが、そもそも自分はなにを肯定してほしいのか、という“状態”があるはずだ。その自身の心の機微を感じ取ることで、気づいてあげることで、自身という存在が明らかになっていくのではないかと思った。

 「私は何者であるのか」を問うことは非常に重要であると私は思うが、それは「他者によって何者であるかを認められること」を指すのではなく、「自身に対する自己の開示(解除)がどこまで行えるのか」ということなんじゃないかと思った。

 

 けど、それをしたところで「はて……ではこの感情の正体と行方は?」という問いかけが私自身にいま生まれたので、きっと自身の根本的な解決には至っていないなと思ったのと、これって結局ジョハリの窓と言っていること変わらんのでは?と立ち返った。(まあ、そもそもフレームワークが広いのであてはまるか)

 把握した自己という構造を、どのように肯定してあげるのかが、その上で課題になってくるのかな、とか考えた。

 

 うーん、ひさびさに自分の頭の中のことだけ書いたな……。

 

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

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  • 作者:小川 洋子
  • 発売日: 2007/02/01
  • メディア: 新書