今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

self reflection/as context

 ここ最近は鍋料理ばかり食べている。運動不足にならないよう、からだを動かすことに加えて、食事にも気をつけるようになってから、心做しか健康的になったような気がしている。体を動かすだけではなく、なにを食べるかも重要なのだな、とこの年齢になって今更ながらに感じる。ここまで文章を書いてみて思ったが、どうやらだいぶ今回の日記は散文になりそうで言葉も軽々しい気がしている。“ここ最近は”とか“気がしている”は文章を書く上での個人的な癖かもしれないな、と思った。近況を記すことが未来の自分が振り返ったときのそのシーンを思い出すためのフックになっているのではないかとも思う。

 

 取り立てて面白いことが起きる日々でもないが、この文章を書いていて思い出したことと言えば数ヶ月前にMac Book Proを修理にだして、無償修理扱い(修理サービスプログラムの対象だった。しかも複数の)だったので私のMBPはディスプレイとキーボードが綺麗になって戻ってきた。キーボードは“パチパチ”と軽い音を立てて小気味良く響いていたのが、“パタパタ”とバタフライキーボードという名前に相応しく静かに音を立てるように変化していた。確かバタフライキーボード、叩き心地が不評で、仕様を変えたのよな。ほぼほぼ新品で戻ってきたような気がして、小さく心躍ったのを覚えている。

 

 実に残念な事実ではあるが、ここ最近で私が心躍ったことといえばいま思い出す限りはそのようなことだ。世の中が面白くないと感じるときは、自分自身の見方を疑おう、という考え方がある。それは間違っていないし、幸せも不幸せも自分がどういったフィルターを通して事実を閲覧するかで解釈が変わってくるのだから、面白い/面白くないも永遠に主観からは離れられないのである。“世の中”が面白くないなどというのは、あまりにも主語の大きすぎる暴論であり、それは大抵“私の見ている世の中”が面白くないのだ。

 

 て、考えすぎて自分に原因を持ってきすぎちゃうと疲れちゃうな、って最近思います。疲れちゃったら、世の中のせいにしていいと思うよ。

A子さんの恋人

 さて、2015年に単行本1巻が発売された近藤聡乃著の漫画「A子さんの恋人」がついに2020年、完結した。

 「A子さんの恋人」は、元恋人のA太郎と現恋人のA君との間で揺れ動くA子の心の様と、その環境を映し出した日常系漫画だ(作者的にはこういった形容は不本意かもしれないが)。どういったきっかけで私がこの漫画を手にとったか、記憶が定かではないのだが、1巻を読み進めていたときはどちらかというとそれこそ“日常漫画”のように思っていた。しかし、結末を読み終えたときには全く別の印象をこの漫画に抱くように、この漫画は決して“日常漫画”ではなかった。そして、“結婚”漫画でもなければ“恋愛”漫画でもない。自己の内省(self-reflection)の漫画なのである。

A子さんの恋人 1巻 (HARTA COMIX)

A子さんの恋人 1巻 (HARTA COMIX)

 

 ネタバレをしない範囲で、抽象的に書きすすめるが、主人公のA子はA太郎と長く恋人であったが特に大きなキッカケもなく2人は半ば自然消滅(≒決定的な原因について明示することなく)に近い形で別れることになり、A子は渡米する。渡米した先でA君と出会いA子は恋に落ちるが、帰国した先で起こるアレコレの心の葛藤を映し出した全7巻である。

 「A君が恋人なのだから、A太郎がなぜ関わってくるのか?」は物語にも触れ始めてしまうので割愛するが、一面から見れば、この漫画は“A太郎を選ぶか?A君を選ぶか”の物語にも見て取れる。実際、私はそういう風に物語を読み進めていた側面が強かったが、実際には当たり前だけれど“A子の物語”であり、“A子とは何者なのか?”を内省する物語なのであった。

 そのA子自身というキャラクターの輪郭を映し出すのが、A太郎であり、A君であり、その周りの友人たち含めた登場人物なのだ。当初から確実にそのコンセプトが作者自身にあったからこそ、読み終えた時に1巻から読み返したくなるし、見方を変えて読むと別のストーリーが見えてきたりもする。 

  A子は漫画家であり、A子が描くデビュー作にはメタファーとして度々“鏡”と“鏡にうつる少女”がでてくるのだが、それがなにを表現しているか、それを考えながら読み直すと、そこには“A子を見る読者”が浮き彫りになっていく。

A子さんの恋人 7巻 (HARTA COMIX)

A子さんの恋人 7巻 (HARTA COMIX)

 
私という自己を表現する

  以前「私とは何者なのか?」といったことについて連連と書いたことがあったけれど、「A子さんの恋人」は「私という人生は何(者)なのか?」を表現しているように感じる。それを感傷的ではなく淡々と“A子”という擬似的な人生を通して、“選択”という物語の中で体験する。

stock-flock.hatenadiary.org

 この物語の中では、正解も不正解もだされない。こうあるべきというメッセージも展開されない。そういう意味では、まさに“日常漫画”であって、“どこかにありそう”な物語である。しかし、主人公“A子”が“なにを言葉にできずに”“どうして心がわからずに”日々を悶々と過ごしているのかを、おそらく読者もはっきりしないまま読み進めていく。しかしクライマックスに進むに向けて、A子が、そしてA太郎やA君が共にその人生にかかった靄の向こうから淡い光を照らしだした瞬間、1巻からのストーリーがはっきりと一つの道筋として成立する。物語的にも、非常にドラマチックな展開だった。

 私が誰であるかは、私にしかわからない。けれど、私を私たらしめているのは、私ではなく“周り”なのだ。私という自己は、“私以外”によって存在し、私が私以上になる為には“私以外”が必要なのだ。

 月並みな表現ではあるが、A子さんの恋人はそんな“A子という私自身”を探す旅の物語だ。A子や、それ以外の登場人物たちが、それぞれの人生において、私をどのように見つめ、見つめられ、あるいは見つめも見つめられもせず、どこに向かうのか。他者という存在によって、自己を見つめ(るきっかけを与えられ)、それが表現となり、自己を探す物語である。

おわりに

  なんとなく、なんの脈絡もないけれど。なにかを貼らなければ終わらない気がして、青葉市子さんの「月の丘」より言葉を借りて締めたいと思います。(そもそも日記に締めとは?)

呼ばれた人は たやすく登れてしまう
月の丘 あの子はまだ
わたしたち 幾つも約束をしたまま (月の丘/青葉市子)


青葉市子 - 月の丘

 

 今年は“私”にまつわる日記が多いな。

 

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