さよなら2025年
いつものようにふるさと納税の返礼品を選ぶことに焦りながら、紅白歌合戦を流し見る(流し聞く)大晦日であった。
以前、本をだんだん読まなくなってきている気がすると書いたような気もするが、書いていなくてもなんとなく頭のどこかでそういう悩みもあって、それでも今年は本を少しずつ読めた1年だったように思う。どうにも私は家ではあまり読書が進むタイプではなく、喫茶店を探しては雑音の中で読むほうが向いているようだ。そうなってくると、喫茶店を探す必要があるのだけれど、都内って前よりもどんどん人が増えている気がしてスターバックスなんてそんな簡単には入れない。あとはコロナ禍を得てあまりにも隣が騒がしいとちょっと気になるようにもなってしまったかも。
だから本来なら引きこもり生活推奨のコロナ禍なんて本を読み進めるのにうってつけのタイミングなはずなのだけれど、外にでれないことは私にとって読書の機会を減らす理由にもなってしまったのだ。
本を読めないこともそうだけれど小説を読むモードになかなかならないことがここ数年の悩みであったが、今年は小説も少しばかり読めたように思う。
高瀬隼子さんによる「いい子のあくび」、適切な表現かどうかわからないが、読み勧めていけばいくほど破裂寸前の色とりどりの風船が目の前にあることに“気づき始める”ような小説で、だけど「風船がきれいだな」と思う人もいれば「いつ破裂するんだろう」と思うような人もいるようなそんな印象を受けた。
主人公がながら運転(自転車)をしていた中学生と接触事故を起こすところから物語ははじまる。主人公は日常のいろんなシーンに思慮を巡らせながら、「好きな自分」と「嫌いな自分」を交差させる。メタ的思考、というべきか。
人生は生きていると、いろんな理不尽な目に遭う。そして飲み込む。ほとんどの人が飲み込んだ経験があるんではなかろうか。だって飲み込んだほうが物事がスムーズに進むことを知っているから。
飲み込む、という表現を聞くとまるで「飲み込んだ側が苦しい」ような印象を受ける、すなわち「飲み込ませた“加害者”」の存在をにおわせるわけだが、「飲み込まない苦しさ」もあるわけで、その両方を天秤にかけたときに「飲み込む苦しさ」を選ぶことも少なくない。加害者がいれば加害者が悪い、と端的に言ってしまうこともできるが、飲み込むという選択肢を選んだ、選ぶ権利はこちら側にもあったことは事実である。だからその選択肢そのものを持って誰かを責めることはできないのだ。
「いい子のあくび」で主人公は、きっと様々なものを飲み込んでいる。そしてその飲み込んだ自分を客観的に視ることで「客観的な自分」に慰めてもらっているようにも感じる。得てして、非常に“現代的”だと思った。こんなに上手に現代を写す鏡のような小説があるのか、と思った。
芸人コンビのラランドがYoutubeで「冷笑引用RT選手権」なる動画をあげていた。不快に思う人もいると思うので動画は貼らないが、いわゆる「冷笑系」という言葉がここ数年浸透しはじめたように思う。
動画内では「どれだけ冷笑できるか?」をあくまでネタ(芸)として競っているわけだが、例えば『これから男4人で旅行!もう酒飲んでる!最高の予感!』といった趣旨の投稿に対し引用で『酒飲みアピールしているから20代かと思ったら30代だった草』といったような投稿をする。
メタ的な冷笑だ。小説家・高瀬隼子さんからするとこの引き合いは非常に不本意かもしれないが、「いい子のあくび」はこの現代の冷笑的なメタ的思考の“しんどさ”を丁寧に表現していて読んでいて苦しいものがある。
「30代で男同士で旅行かよ、もっと落ち着いていこうぜ」すなわち『自分としてはこちらのほうがスマートだと思いますけどね』という別の選択肢で思考を回避していくのがこのメタ的な冷笑思考なのだ。
しかしそれは「どちらが良かったか」を結論づけることはできなく、選んだ選択肢に対する解を自分で見つけていくしかないのは同じなのだ。つまり「飲み込まない自分」と「飲み込む自分」のどちらかを選んでいるに過ぎない。
だらだらと書いてしまったが、「飲み込んだ自分」が決して正解ではない、それだけで正解とは言えないのだ。
そう考えると、私たちはできるだけ飲み込まないほうがいいのかもしれない、と思ったりする。小さくても、コミュニケーションを重ねたほうがもしかしたら結果的に“スムーズな未来”が訪れたりするんじゃないだろうか。
でも、コミュニケーションすることで起きる摩擦もあるよね、とか考えちゃうよね。
こちらはさすがにネタバレになるので触れることは控えるが、その「コミュニケーションの打ち明け深度」について様々考えさせられるのがこの市川沙央による「ハンチバック」だ。
この現実を直視する読者はほとんどいないだろう、それぐらいに痛烈で苦しい痛みが描かれていてしかし人間とは本来はそういうものであるはずなのだという、その事実を受け止めることだけが私たちにとってのほんの少しの贖罪になり得るのではないだろうかとも思える。
筆者は日本の「障害者差別解消法」に対して「『合理的配慮』という訳はほとんど誤訳と言ってよく、今からでも『合理的調整』とするべきだと考えています。」と語る。
私たちは配慮しながら生きているのではなく、調整しながら生きている。飲み込んだことも、飲み込まなかったことも、私たち自身の選択であり、それが配慮ではなく調整であることからは逃げられない。
なんだかいつも以上に抽象度が高く紆余曲折の話になってしまったが、結論はない。
ただ最近思うのは「成るように成る」と「思うしかない」ことであって、選択権は自分にあるが常に選択権があるとも限らず、できるだけ恵まれた自分の状況にあわせて“調整”していくしかないのだ、ということ。
そしてそれを長期的目線でできるだけ考えて、未来がよりよりものになるように他者との協調を深めたり緩めたりしていくこと。
私たちの人生に意味はないけれど、そのつながりによって豊かさは変わってきたりする。それであればできるだけ豊かなつながりの中であらゆる人が暮らしていけることが大切なんじゃないか、と思ったりする。
んーーーーーーなんかあまりしっくり来る文章にならなかったのでそのうちまとめなおしたい。
さよなら2025年。
いつでも今日がいちばんいい日でありますように。
今日もどこかで
10代の頃、死ぬことがとても怖かった。死ぬことに恐怖を感じる人は多いと思うけど、「そういうもんだよね」ととりあえず死から距離をおける人もいる。だけど、私は死が怖かった。「死んだ後の世界」なんてなにも恐ろしくなくて、「意識がなくなること」がとても怖かった。だから、寝ることも怖い。
そんなとき、ニーチェの運命愛という考え方を知った。あれから長い年月が経ってもこの考え方以上に私が死への恐怖へと戦う為の武器がない。しかし運命愛はあまりにも諸刃の剣で、正直、なんの解決にもなっていない。そのなんの解決にもなっていないことすら受け止めろ、という達観した考えだからこそ、運命愛は厳しく、脆い。
20代になって考える時間がどんどんと減っていった。死にたくない、という感情に対する捌け口がないことを分かっていたからだと思う。10代の頃、科学から哲学からスピリチュアルなものまで、いろんなものを読み漁って掲示板の書き込みを毎日追ったりしていたのに、20代になってしばらくしたら触れる機会がめっきり減ってしまった。諦念なんだと思う。もうこの恐怖と立ち向かうことは無理だ、という「そういうもんだよね」が私の隣で項垂れるような姿勢で座っている。
コロナ禍に突入し、人々が死への恐怖と対面する機会が増えた。しかし、その「死への恐怖」は非常に現実的なものだった。だから立ち向かえるのだ。どのようにしたら「死なずにすむか」というリスク管理がある程度はっきりしている。それが逆に立ち向かっている感覚を強くし、本来10代の頃に抱えていたはずの「死への恐怖」はここでも顔を出さなかった。だって10代の頃の「死への恐怖」は、病気でも事故でもない、“総合的な死”だから。
30代。あるとき、いや、ここ最近か。死への恐怖が芽生えるようになった。10代の頃と同じ感覚だった。なぜこのタイミングでかはわからない。しかしはっきりと10代の頃の感覚が私を蝕んでいる。
過去に一度、死生観について書いたことがあったように思う。そのときに、その思想について書いたかどうかはわからないが、私の死生観として「人生に意味はない」というものがある。それがここ最近、より強固になってきてしまった。
意味を付与するのは人間であって、人間以外は意味を付与しないからだ。そうなってくると「意味がある」と(認識)できるのは人間同士だけであって、それ以外の関係性においては意味が発生しないことになる。意味が発生しないということは、意義もないということだ。というか、ありとあらゆる物事に科学的な事象でしか説明できないことになる。いや、そりゃそうなのだ。そもそも意味ということそのものが哲学のようなものだから。
だから、私がここに生きていることも、生物学的な結果と事象でしかなく、原理に基づいているだけであって、なにか意味があるわけではない。
これがまた難しいところで(難しくはない)、では、意味をもたせようとするとどうなるのか?ということなのだけれど、人間は考えるから意味をもたせることができる。そして人間同士だけが意味をもてる。「意味」とは、高度な認知能力が生み出す虚構であり、人間だけがその共有幻想を維持できる。蛇と鶏の間で、あるいは人間と他の生物種の間で、我々が定義するような「意味」が共有されることはない。ということは、現時点では脳の能力によって意味をもてるかもてないかが決定づけられているのだ。すなわち、もし人間が生きる意味を持てる可能性があるとすれば「1. 人間自身(個)が意味を持つ」「2. 生物或いは生命として人間に人間としての意味を持つ」「3. 人間以上の能力を持ったなにかが1,2あるいはそれと類似した条件を持つ」である。
1についてが現段階の最適解であり、「私が生きている意味は◯◯だ」と自分自身で意味を見出すことだ。しかしこれは「私以外は意味を持っていない」という事実によって容易に覆されてしまう。鬼滅の刃よろしく全集中自分を続けない限り、我に返ったら終わりである(逆か?)。
その「自分以外は意味を持っていないということは、自分にも意味がないのだ(なぜなら私は神ではないから/人は皆平等だから)」とするときに求められるのが2であり、人間が生きていることそのものに意味をつくることができれば、もしかしたら多少は死への恐怖が和らぐのかもしれない。これは例えば「人間は◯◯という未来に向かっている」といったような思想だ。つまり生物は輪廻転生、繰り返しているだけで、別に進んでもいないんだよ、というベクトルで考えるから「死」が当然の如く扱われてしまっているのであって「どこかへ向かっていくための生」であれば「死」に対する取り扱い方も変わる可能性があるからだ。それは不老不死などがそうである。意味のない不老不死は死と同等だ。火の鳥でもあったように、永遠の命が向かう先がなければ、それは永遠の死である。しかしもし人間が向かう先を用意するようなことがあれば、「死や生」は目的達成の為の装備になる。人は人の上に人を作らず、と考えた時にこのベクトルは相当にハードルが高いけども。1億年先の未来なんて誰も語れないもんな。
となったときにそれらすべてを知っている3が〜みたいな話になってくるわけですけど、こんなことについて語れるわけもなく。
明日もどこかで、生きていたい。
それがいまの私の気持ちだ。
感情の機微に光をあてて
すっかりブログを書いていなかった!(いつも言っている気がする)
例によってお気持ち表明のような内容になりますが、なんとなく書きたいと思ったのでつらつらと書き始めてみる。曲がりなりにも過去記事がいくつかあることからコメントを頂いたりもしていたのでちゃんと返そう。。
そして、このブログでどのような文体であったかも朧げになってきている。本来ならここで(笑)とかつけるのがビジネス的な分人なのであるが、おそらくそういう表現はしていないと思うので、あまり繕わずに書いていく。
桜も散り終え、少し肌寒い季節が終わろうとしていた頃、私は100人ほどの小さなライブハウスにいた。4人編成の人数だけでいえばオーソドックスなそのバンドの演奏を見に私は足を運び、そのバンドはいつものように軽快な音楽を掻き鳴らしていた。
演奏を続けて1時間ほど経った頃、新曲を演奏すると言ってマイクスタンドの前に立ったのはいつものボーカルではない1人の女性メンバーであった。
その新曲を演奏するために女性はギターを抱え、意図してか意図せずかアンプからの「キーン」としたフィードバックが静寂したライブハウスの中に響いた。ギターが主役の、そのバンドが演奏するには少しだけ激しいロックな曲が演奏される予感をそのノイズは仄か空間に漂わせた。
メンバーが準備を終え、フィードバックが鳴り止んだアンプからはまだジリジリと音がする。
いつ演奏が始まるのか、ちょっとした緊張感がフロアに漂い、観客は息を呑んだ。
どれぐらいの時間が経過したのか定かではない。その曲がはじまるまでの距離をおそらく体感長く感じる。
そして、その静寂を思い切り切り裂くように、ギターを抱えた女性が「スリー、ツー、ワン!!」とマイクに向かって叫んだ。その女性の華奢な身体からは想像もつかなかったそのコールに合わせて、ライブハウスには火花が飛び散るようにバンドの音が一斉に鳴り出した。ミラーボールはキラキラと周り、イントロのギターリフが激しく鳴る。
音楽はとにかくロックでポップだった。ストレートな演奏と、情景描写が豊かな歌詞でライブステージは色づいた。演奏中、ふと女性の顔を見ると、ギターを弾き、歌を歌うその女性は満面の笑みを浮かべていた。きっとその演奏にはなんの偽りもない「楽しい」が終わりに向かって光っているに違いなかった。私は、その笑顔を見て、その輝かしい演奏を聞いて、これ以上言葉では言い表し難い感動を覚えた。胸を打たれる、という表現が正確であるかどうかはわからない。この時代に、性別や、背格好や、年齢を引き合いにだすのはアンマッチであることも理解している。
けれど、「人生っていつになっても、どんな状況であっても、楽しんでいいものなのだ」ということを目の前で、最大限の表現で見せられていると感じたのだ。なんていい音楽を、なんていい表現を、なんて素晴らしい演奏が繰り広げられているのだろうという感動で涙は流れる。
話は大きく変わるが、私はOPEN AIによるChatGPTをはじめとした生成AIによって人類は大きく進歩できると考えている。スマートフォンが世に登場したときに近い静かな革命が起き始めていると考えているし、誰もがiPhoneを手に持ち生活をするように20年後には同じように生成AIが誰もの手元にある生活が待っているとも想像している。
そういう意味で私は俗的に言えば「生成AI信者」みたいな立ち位置であり、生成AIをみんなが気軽に使える世の中になってほしいから後ろ向きな意見を聞くと「どうやったらその後ろ向きな意見が消化されるか」ということを考えたりする。主語の大きな意見でいえば、「所詮AI、人間ではない。つまり人間にしかできない仕事がある」といったようなものだ。
もっと話は大きく旋回し、いま参院選の真っ只中である。本日は2025年7月20日、投票日当日だ。私はSNSを見ながら、なんとなく“世の中”の意見に耳を傾けてみていて、以前の都知事選で「ファクトチェックの重要性が非常に大事になってくる」といったことを非常に感じた。生成AIを通して、ファクトチェックができる機能をつくれないか、ということも考えたし、実際「ファクト」というのは誤りを訂正するときには機能するけれども、その発言の妥当性や真実性というのはどうしても属人的(個人的意見)を反映せざるを得ないということをも感じた。
今回の選挙に関するタイムラインの発言を見ていると、無論事実ではない情報に対してはなんらかの仕組みを機能させて排除させるべきだけども、仮にすべての事実が羅列されたときの「妥当性」「真実性」を測ることはできるのか?と問うたときに、それは生成AI、不本意であるがあえて表現すると“機械的”に仕分けたとしても不可能なのではないか?と感じた。
各メディアが「あなたの考えに近い政党をマッチング」といったゲームも用意しているが、ではそのマッチ率が高いところが本当に自分の思想と近いのか?あるいは低いところは思想と遠いのか?もっと言えば「個人の思想に近い政党」に投票するのが本当に民意なのであろうか?ということを考える。
「民意を反映するのが民主主義」である一方で「個人の思想」を集めることは民主主義なのだろうか?
なにが言いたいかというと、こういったこと考えるときにおそらくほとんどの人は本質的には「思想に近い人を探したい」のではなく「世の中にこうなってほしい」という思いが背景にあるのではないだろうか?ということだ。
「世の中にこうなってほしい」ということであれば、思想ではなく、その実現妥当性は深く考慮されるべきであって、そう考えると「こうなってほしいという世の中をもっと実現できる可能性のある方法はこういう組み合わせ」というところまで考えられないと、結局、思想の寄せ集めになり、過半数を仮にどこかの政党が取れば大きな舵取りはその政党が主に担うことになるだろう。(ちなみに、これが悪いことだとは思わない)
人間の感動や、感情に寄り添う機能が生成AIには搭載されている。誰にも言えない誰かの悩みを吐露する人々が多くいる。しかし、世の中を大局的に捉えて、その「感情の意味」を理解したり、もっといえば「表現」することはまだ難しいのだと、私は“感じて”いる。
繰り返すが、何歳の、どういう背格好の、どういう性別の人が、という情報はこの多様性において野暮である。「純粋に音楽を楽しんでほしい」とミュージシャンがいえば、それにもしかしたら反しているのかもしれない。けれど、私はその奥行き、心のずっと奥にある静寂から切り裂かれた「スリー、ツー、ワン!」のカウントがライブハウスに響いたとき、言葉にもしていない自分の感情を無理矢理に引っ張り出された気がしたのだ。そんな感動も求めていないのに、いわゆる偶発的な、セレンディピティな感情の衝突がそこで起きたのだ。
「感情的な性格の人」というと、どこか疎ましい感じもあれば実際に私も「もっと冷静に、論理的に考えていたい」と思ってしまうたちではある。
しかし一方で人間は感情の生き物で、その感情の理由を言語化できないときもあれば、思いも寄らない感情の発露、という出会いに恵まれることもある。
この感覚を生成AIで生み出すことができるのか?それは生成AIが担える役割なのか?という点においては私も「人間」側なのかもしれないし、一方で政治のような究極的な論理が求められる場面において生成AIと人間の組み合わせは“感情に寄り添わずに”合理的な判断ができるのだろうかと考えたときにそれももしかしたら不完全なのかもしれない、などと思う。
なんだか、いつものごとくオチのない話になってしまったが、人生はいつになっても楽しんでよいのだ。揺れ動く感情の機微を、今日も陽の光に当てて、たまにこうやって書き留めて、生きていこう。
さよなら2024年
全くブログを書かない1年だった!よくない!びっくり!
毎度同じことを言っている気がするが、やはり考えを文章にすることはとても大事だと思っているので、ブログをできるだけ多く書きたいという気持ちは強いものの、PCの前に立つ時間がめっきり減ってしまった。
では、インターネットの世界と向き合う時間が減ったかというとそうではなく、今年はChatGPTをはじめとした生成AIの進化の1年だったと思うし、特に今年の後半は手元のスマートフォンの中では常にChatGPTが起動しているような状態だった。
つまりインプットの時間がスマートフォンによって完結することが増えすぎた結果、“PCでしかできないこと”が減っていった。YoutubeやSNS、タスク管理、ゲームなどスマートフォンでほとんどの趣味や業務が完結し、PCでしかできないことといえばおそらくアウトプット系だ。しかしそのアウトプット系業務ですらティーンネイジャーはスマートフォン片手に動画の編集を行うというのだから……とだいぶ年寄り地味たことを話し始めてしまった。
これも毎回言っているけど、本当は久々に書くぐらいならね、ちゃんとした内容で書きたいんだけどね、雑記になってしまう。
年末年始のこの数日間であらためて「ファクトフルネス」を読み返している。
コロナ禍あたりから個人的には「個人における情報の取捨選択」というテーマに強く関心があるのだけれど、ファクトフルネスはその情報の取捨選択についてあらためて読んでも考えを改めさせられることが多い内容だ。
アメリカの大統領選挙や、兵庫県知事選挙の盛り上がりの中で声が多かったように個人的に感じたのは「実態はどうなのか?」ということだ。民主党、共和党、どっちの支持者が実際に多いのか、それを正しく報道していたのか、正しく報道していたけれど隠れ支持者が潜んでいたのか。兵庫県知事選挙も同様だ。
そしてこれらはすべて「情報を与えられている」という視点からしか語られていない。本来的に大事なのは「あなたはどのように情報を入手するのか?」ではないだろうか。
しかしここでも危険を含んでいて、[私はこのように情報を入手します]とピン留めしてしまった時点で、フィルターバブルの中に迷い込むことになるのだ。
なので個人的な意見としては結果的にいま“マス”が1周回って求められる時代になっていくのではないだろうか、というところだ。
フェイクニュースも多かった。芸能界のスキャンダルも様々多かったが、これも本来的に事実を知っている一般人なんて誰一人いない。報道する側の情報によってでしか、私たちは事実を導けない。
私たちは果たして、どれだけ正しい情報にたどり着けているのか。そして正しい情報を報道できているのか。「ファクトフルネス」では事実にたどり着くためには、分断を避けなくてはいけないと述べている。そう、すべて地続きなのだ。はじまりとおわりを、大局観をもって見通すことではじめて現在地がわかるのだ。
そういう世の中を見方をできるように心がけていきたい。
とかなんとか言いながら、人間って大変ですね。しんどいよね。考えるのも、生きるのもしんどい。って思いながら今日(12月31日)を私は過ごしておりました。Mr.ChildrenのALIVEを聴きながら歩く大晦日。
さあ、行こう 報いはなくとも 救いはなくとも
荒れ果てた険しい道を
いつかポッカリ 答えが出るかも
その日まで魂は燃え
(ALIVE/Mr.Children)
人間が嫌になったら「動物のひみつ」を読もう。小さな書店に置かれていたので気になって買いましたが(なんなら山極さんの帯コメントまである)、最近いろんな書店で見かけますね。ダイヤモンド社のプッシュがすごいのかしら。
いろんな動物、なんと虫まで網羅してオムニバス的にコンパクトにいろんな動物についてまとめられているのでちまちま読んでいくことができます。序盤でわりと虫がでてくるので苦手な虫がいる方は少しウッとなるかも?
自然の美しさについて語られるかと思いきや、動物のことを研究していく中で、「動物って、虫って想像以上に社会性があるんだぜ」っていうのが読んでいるときに感じた感想です。人間が嫌になったらなんて前置きをしてしまいましたが、おそらくこれを読んだ方々はそんな前置きをするべきではないとお思いでしょう。なぜなら、動物たちこそ、社会性を重んじて生きているから。
つながりもある、助け合いもある、コミュニケーションもある、感情もある、こころもある。想像以上に動物の世界も“コミュニティ”で、生きることに必死で、必死に生きている。そんな小さくて大きな世界の物語です。
じゃあ、人間らしさってなんだろうって考えたとき、もしかしたら“孤独”とか“未来や過去を考える”ことが人間なのかもしれない。むしろ社会性とか、助け合いとかって生物に根源的にインプットされた遺伝子レベルのマニュアルで、そのマニュアルからはみ出たイレギュラーな要素が“個人”なのかもしれない、と感じました。
孤独に生きていくことは生命の危機だから、なんとか仲間を探しだそうとするのが“本能的”な作業だと思うけれど、おそらく僕らは孤独も求めている。だって、私はいまこの文章を誰とも話さずに“孤独に”書いているわけだし。誰に届くかもわからない、届かないかもしれない、届けるものでもないかもしれないインターネットの海に投函している。
そしてその“届く”とか“届かない”とかって物事を時間軸で考えている、ということだ。つまりは未来とか過去のことを考えている。これは優劣の話ではないけれど、ほとんどの生き物たちは遺伝子にインストールされたマニュアルに従っていまを生き抜く方法をコントロールしている。おそらく、というかほぼ9割の確率でそれが最適解なのだ。そして私たちも紛れもなく、「最適解」は知っているはずである。この文章における僕と私が混在するのも、最適解を知りながらのあえての、しかし意味のない混在である。しかし最適解を知っているのに、こんなに過ちを犯すのは未来とか過去とかの時間軸で「こうではないか」という時間軸をもとにした思考を働かせるからだ。遺伝子を残すことだけを考えたら、時間軸は必要ないのである。
だから、私たちは少しでもこの孤独を愛そう。人間に生まれてきたからこそ、過去と未来を考えたときに嫌気が指すこともあるけれど、時間は待たなくても進んでいくし、動物たちはコミュニティこそあれど、評価したりはしない。紛れもなく私たちも動物なのだから。
飛び込み台の上 僕らは否応無く
背中を押され落ちていくんだ
溺れそうな魂 水しぶきをあげて
息絶え絶え水面をかく
けれど
(Image/Mr.Children)
そんなことをこのラストにMr.ChildrenのImageを聴きながら感じました。生きるってしんどいなって思うけど、しんどいって思ってても、否応なく背中を押されるわけですよね。それならこの状況を愛しながら、楽しいイメージを膨らまして生きていったっていい。
世界は多面、あらゆる可能性を考慮できる人生に生まれ落ちた。マニュアル通りじゃない生き方を、この身体はできる。その普遍的で当たり前で、だけど特別な権利を期限目一杯に行使して、歓びに満ちた世界を、探していきましょう。
Mr.ChildrenのImageを残そうと思ったが、公式でなかったので、ロックバンドAoooの「サラダボウル」を!元気に、健康で!
詰め込め自由な衝動
(サラダボウル/Aooo)
万物流転
一度オーロラを見たかったな。病室で母がいった。今度、連れていってあげるよ。最後の嘘をついた。
(ワールドクリエーション/佐藤司郎)
10年以上前、当時Twitterで見かけてそれ以来ずっと気に入っているコピー。以前ブログにも書き、“好きなコピーをあげるならなにか?”と聞かれたら心のなかでこれを答えている。“心のなかで”なのは、あまり検索してもこのコピーの情報がでてこなくてわりと簡単にこのブログに辿り着いてしまうからだ。
当時このコピーが好きだった理由は、たったこの数文字で物語を想像させてしまえるそのバックグラウンドの深さからだった。コピーって“気づき”を与えるものが多くて、すごくいやらしい言い方をすれば、人間の欲求を引き出すものが多いと思う。それは悪い意味ではなく、本来忘れかけていたその人にとっての必要なものをさりげなく気づかせるのがコピーの役割だからだ。なぜいやらしいという形容をしたのかと言えば、それはとても“広告らしい”からだ。無論、コピーは広告から派生しているのでこれだってなにも悪いことじゃない。けど世の中にあるコピーのほとんどはなにかを気づかせる為に、そしてなにかの欲求の引き出しをあけるためにある。
例外ではなく、このコピーも“旅行会社”のコピーである。しかし、私はこれが旅行の、広告のコピーにしてはバックグラウンドが深すぎて“意図を物語が超えている”と感じている。失礼な推測だがこのコピーがあまり情報として膨れないのも、物語性が強すぎるというのがあるのではないかと思っている。例えばこれが旅行の欲求を促進するかといえば、そう言ってしまうとちょっとあまりにも“下品”に思えてしまうから。人の死を広告の出汁に使っているように見えるからね。でも、私はこのコピーライターはそんなつもりはなく、この刹那を物語にしただけなんじゃないかって、いまは思っている。
さて、ここから下は身の回りで起きた死の話と、テレビで観た死の話である。もともと「先日、知人が急逝した」という書き出しから始まっていたが、もうだいぶブログ自体も寝かせたので“先日”ではなくなった。一部訂正しながら書き直していく。
過去に書いた文章〜身近に起きた死
昨年、知人が急逝した。知人、と呼ぶのは彼が私よりも幾つか年上で、敬意を持って伝えたいからである。こんなにも早くこの世を去ることになってしまったのは、きっと本人にとっても突然のことだったであろう。それと同じように、周りにいた私たちの誰もにとっても予期していたことでは全く無く、本当に突然の報せだった。
訃報を受けて翌日、告別式に向かった。数時間の道中、なにを考えていたかは覚えていない。例えば、彼との思い出を振り返るとか、そこまで心の整理はついていなくて、なんなら一つ一つ気持ちの棚卸しをしていく為に今この文章を書いていると言っても過言ではない。
どうしても稚拙な文章にしかならないのだが、何度考えても、この現実を受け止められない感情がうまく湧き上がらない。諸行無常の世に対して、「そんなことはないはずだ」と証明する、或いは反証する材料が私の手にはなにひとつないからだ。だからこそ、彼がこの世を去ってしまった事実を自然の摂理として脳が処理をはじめているし、その摂理に従って私は寂しさや苦しさを感じる。誤解を恐れずに言えば、例えばなにか試験を受けて不合格だった時に「おかしい、こんなに努力したはずなのに」という事実に対する否定的な感情よりも、圧倒的にこの死という現象は抗いようのない正しさを跳ね返してくる。
ただしこれは知人の死を受け止められている、ということとはまた異なり、事実を受け止めるには事実の理解が必要だ。「なぜそうならなくてはならなかったのか」という事実に対する理解を、私は深めたいと感じた。彼がこの世を去るきっかけになった出来事を調べては、理解し、理解できないことをまた調べた。そしていま遺された人間にできることをありきたりながらに考えている。
現在に書いた文章〜テレビで観た死
「ザ・ノンフィクション」というフジテレビの番組がある。そこで脳腫瘍を患った40代の女性が、自死を選択するためにスイスに渡航する(スイスでは自殺ほう助が認められている)という内容が1時間にわたり放送されていた。女性には家族があり、夫と子ども2人がいた。
「身近に起きた死」で書いた“「なぜそうならなくてはならなかったのか」という事実に対する理解を、私は深めたいと感じた。”という文章を読み返す。だが、「なぜそうならなくてはならなかったのか」の説明がつかないものが、この世にはたくさんあることをあらためて考えさせられた。
「なぜそうならなくてはならなかったのか」が解き明かすことが仮にできても、それ自体が救いにならないことも多々ある。この問いも、救いという言葉も驕りであることは理解している。それを理解することそのものが、その「なぜ」を凌駕する、抗えない事実と対峙しなくてはいけない現実を少しでも見つめるきっかけになっているのだと思う。無論、この思考すべてが当事者の想像の一端にもなれていないことは承知の上で。
話は飛ぶが、第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」で宮城県の牡鹿半島で猟師をしている方に取材をするという内容の作品があった。そこで猟師は「震災があったとき、自分は銃一本でやっていけると感じた」「弱肉強食の中で人間だって襲われたら良い」「そもそもスーパーに肉が並んでいる、それを買えるっていうことがすごいこと。その背景にどんなものがあるかが隠されているし、動物一頭狩るのだってどれだけ手間がかかるか」といった趣旨のことが書かれていた。※記憶からなので間違いあったらすみません。
特に印象的だったことを書き出したが、やはり「肉が当たり前に食べられるって異常なこと」だし、「人間が襲われても文句は言えない」というのもどこか納得してしまった。全体を通していっそ0からもう一度人間は始まってもいい、というようなことも書かれていた気がするが、もしかしたら猟師の方から見えていた“命”とは“自然との関わり”という一点のみだったのかもしれない、と感じた。
つまり、ここまで書いておいて非常に平坦な言い方になるが、私たちは自然に生かされ、自然に生きている。そこに解釈も何もないし、自然があるがままにそこにある、ということなのではないかと。
正直これはある意味で“ただ自然にあるという命を受け入れる”ことに過ぎず、我々は考える術を持って生まれているわけだから「じゃあ、どんなことも受け入れられますね」とはならないのだが(受け入れられない象徴がつまり冒頭の「嘘」である。自然にあるという命なのであれば嘘をつく必要はなく、受け入れられないものを受け入れるための嘘なのである)、“自然としての命”という考えは本質的なヒントのひとつではあると感じた。
運命愛
と、上記まで書いてさらに2週間ぐらい(もっとか?)寝かせました。もう書き上げて投稿します。
かつて、いや今も“死”という事象については愛でることが私にはできない。永遠と同等の深い闇、或いは空白が想像され考える余地を与えない苦しい概念だ。ニーチェの語る「運命愛」がせめてもの救いになるかと、おそらくこれがヒントなのだと思いながらもまだ私はその結論から距離を置いて生きている。
人間は社会を構築し、見たくないものに蓋をするようになったといつからか批難されるようになった。しかしではそれ以外の野性的な動物たちは見たくないものから目をそむけていないのだろうか?我々は見たくないものは本当に見ていないのだろうか?
考える時間を与えない社会だとは思う、しかし目を背けているわけでもない。いつも誰もがきっと隣り合わせに生活をしている。だからこそ話は飛躍するが、きっと仕事をやめて野性的な動物たちとゆっくり暮らせるような環境があればいろんなものを受け入れていくようになるのだとも思う。それが良いかどうかは別として。
平野啓一郎さんの「分人」が昨日の深夜テレビで取り上げられていて、このブログでも書いたような書いていないようなだが、冒頭の通り人間は嘘をつく。けれど、それは「違う一面を見るための傾斜」なんじゃないかと思う。かっこつけて言えば、鏡、みたいな。もしかしたらそれは回避行動、回避思考なのかもしれないが、違う角度で物事見るためのヒントとも言える。考えることは、どのようなことであっても、方角を示すものなのだ。
ただし、思考は思考に過ぎず、「経験は思考から生まれ、思考は行動から生まれる」のだ。解釈いろいろあるけど、ここでいう「行動」って、個人的には「まず動いてみる」よりも「接触」を指すのではないかなーとも思う。触れるという行動が、思考になり、それが経験となる。人間の脳までの神経伝達の仕組み。そして、その触れるは常に私たちの時間の経過を表す。
運命愛のように、そのすべてを肯定的に見ていくための思考と行動を繰り返して万物は流転してきた。
「誰も同じ川に二度入ることはできない」
世の中の真理なんて例えわかったとしても、それが答えであることの証明は誰もしてくれない。もうこの文章にだって意味がないんじゃないかというテーマにまで広げてしまったが、いつか答えに辿り着けるかなー。(矛盾を抱える)
少しでも日々が楽しく、長く、美しく続きますように。
街の灯を そっと吹き消して
僕がまたひとつ歳をとって思うのは
home sweet home
繰り返す毎日を最後まで歩いてゆけたなら
(home sweet home/山田稔明)
さよなら2023年
なんとなく年納め的に書いておくべきかな、だって毎年書いていたしと思った振り返ったら「さよなら2022年」はあったけれども「さよなら2021年」はなかった。
コロナ禍に突入した2021年や2022年はインプットがとても少なく、ブログに書きたいと思えることもほとんどなかった。一方で2023年はそれなりに書きたいこともあるはずなのに、パソコンの前に向かってなにかを書く、という習慣が消えてしまったことによりなかなかアウトプットができない日々が続いた。結果的にここ数年でもっともブログを書かなかった年になってしまった。
無論、自分の文章が上手だとは思っていないけれどスポーツやそういった類と同様に書いていかないと文章力は落ちると思っているし、まとめる能力も落ちてしまうと感じている。毎度同じように言っている気がするが、この文章もリハビリである。
2023年も引き続き、様々な社会問題が顕在化した1年だったように思う。もう僕らの目の前には崩れ始めた様々な現実が待ち構えていて、他人事で片付けられないひとつやふたつが誰の生活の中にも潜み始めているはず。これって年を取ったからそう感じるのかな?
「どう解く?」という本がある。今年はこの本を2冊(シリーズ)で購入した。基本的には考える子供向けの本なのだろう、と思いつつも、大人が読んでもとても面白かった。「食べていい動物と、食べちゃいけない動物の違いってなんだろう?」というルールという回答で答えてしまいそうな問いから(ただルールを回答することがこの絵本の解ではない)、「人が嫌がることをしちゃダメとお母さんは言うけれど、ボクの嫌いな勉強をなぜ押し付けるの?」といった決して世の中にあるルールや論理で回答できるものでもないものもある。
今日、Xのタイムラインで流れてきたポストの中で漫画ドラゴン桜の切り抜きがあり「考えることを止めてはいけない」「なぜ、駅の看板は多言語で表記があるのか、考えよう」みたいな描写があった。ドラゴン桜でいう「考える」は、「知識としての蓄積を貯めよう」ということだと思うのだが、つまりは知識が豊富であれば問いに対する答えをいくつも用意できるし、最適解を編み出せるよね、っていう。
ただこの「どう解く?」における「考える」は、知識を増やしていくことを目的とするのではなく、きっと解はひとつでもよくて、問題に立ち向かう、問に立ち向かう姿勢を教えてくれる絵本だなと思った。無論、ドラゴン桜のくだりのように考え、知識をたくさん身につければ武器があることで問に立ち向かう恐れも減っていくのだけれど、知識がなくちゃ立ち向かっちゃいけない、ということもないよね、と。答えのない問いを、一緒に考えていける、そういう気持ちがきっとなによりも大事なのだと思う。
考えるという行為は年をとるにつれしんどさを伴う割合が多くなってくる。なぜなら、「考え尽くした」ことが知識によって増えてしまうからだ。その間隙を縫いながら、答えを見つけ出さなくてはいけないけれど、それが答えかどうかも勿論誰かが教えてくれるわけではない。本を読もうとも、音楽を聴こうとも、そこにあるのはヒントにすぎず、「答え」と言えるかどうかは、自分自身にかかっているのだ。
子供の頃であれば、誰かが答えをまず教えてくれた。それが本当の答えかどうかはわからない、けれどヒントが数多くあった。大人になって試されるのは、ヒントを探す、というところからだ。ヒントを探すことすら諦めてしまえば、考えることもせずに生きていくことはできる。その往来のしんどさを年々、感じていくことになるのだ。
ひさしぶりに「アイアムアヒーロー」を読み返した。ちなみにここから先は最終巻ネタバレになります(酷すぎる)。
あらすじとしては、街中に突如ゾンビがあらわれてゾンビと戦う、という話なのだけれど、「ゾンビはなぜ存在するのか?」という問いがある。主人公は生き延びることに必死で基本的にはゾンビとのサバイバルが物語の主軸になっているわけだけれど、クライマックスに近づくに連れ「ゾンビってもしかして意思を持って動いている?」という仮説がでてくる。結果、ざっくり言うとゾンビは「(ゾンビになった人間の)意識の集合体」ということがわかるのだけれど、「意識の集合体だから、孤独がない」という意見もでてくる。
人間の孤独は、コミュニケーションの阻害から生まれるのだろうか? コミュニケーションを日々とっていても、孤独を感じることはある。孤独とは「思考の独立性」であるとするなら、このゾンビが孤独ではない、ということも一理ある。この漫画においては、ゾンビのこの考え方そのものはゾンビにしかわからない(ゾンビにならないとわからない)ので、主人公はひたすら闘い続けるのだけれど……。
IT技術の発展によってもし私たちの思考が共有でき、共通項で結ばれ、限りなく独立性の少ない世界になったとしたら、そこに孤独は存在しないのか。しかし、考え続ける限り、問いを立て続ける限り、それは孤独と対峙し続けることになるのではないだろうか。情報が溢れ続ける中で、傷を舐め合いながら、孤独を癒やしながら、でも孤独を大事な感情のひとつとして、手放さずに生きていけたらと思う。
さて、話があっちに行ったりこっちに行ったりしましたが。本当はアーティスト目を目的に見に行った「さいたま国際芸術祭2023」についてとか書きたかったんですけどね。年明け頑張って書きましょう。。。
それでは、私が今年好きになったアーティスト、湯木慧の『スモーク』でしめたいと思います。 みなさまにとって、来年が今年よりも良い一年になりますように。世界にたくさんのいいことがありますように。
信じるものは心に在るだなんてわかってるわかってるわかってるけど (スモーク/湯木慧)
半径数メートルの描写を歌にする、手に届く物語 / Album:miss you(Mr.Children)全曲レビュー・感想
6畳間で鳴らすMr.Children
2007年に発売された『HOME』を特集した別冊カドカワSpecial Issue Mr.Childrenの中でスガシカオはこんなコメントを寄せていた。
彼への要望ですか? やっぱり無茶なことはしないようにってことかな。うちに来て、シャンパン1本空けて、へべれけになったりしないとか、急にダッシュしないとか。ともかく体に気をつけてほしいですね。ミュージシャンとしてはアコースティック・ユニットみたいなのをやってほしいですね。期間限定でもいいんで、狭い場所で桜井くんの歌を聴いてみたい。(スガシカオ)
アコースティック・ユニットと称して良いかはありつつ、この4年後である2011年に発売された『Sugarless Ⅱ』でMr.Childrenの楽曲「ファスナー」をスガシカオは桜井和寿とともにアコースティックギター2本編成の弾き語りでカバーした。(演奏は、それ以前に『Split the Difference』で共演時に行っている)
ひょんな入り口から話を進めてしまったが、Mr.Childrenの最新作『miss you』はここでスガシカオが要望をだしていた「狭い場所で聴く桜井くんの歌」を実現したようなアルバムだ。これまで我々を魅せてきたMr.Childrenの姿とはまたひとつ違う側面を表現する、“仄暗い”楽曲たちが全編を通し収録されている。あえて“仄暗い”としたのは、決して“ダーク”や“闇深い”といったマイナスなイメージを閉じ込めたアルバムではなく、そのほの暗さから、夜の訪れを感じる人もいれば、夜明けを感じる人も、黄昏を感じる人もいるであろうからだ。
このアルバムが、夜更けなのか、夜明けなのか。黄昏であるのか。聴く者によって、聴く場所によって、聴く時間によってその仄暗さの印象と風景が変わる。そんなアルバムだと感じる。
何が悲しくって/こんなん繰り返してる?/誰に聴いて欲しくて/こんな歌 歌ってる?/それが僕らしくて/殺したいくらい嫌いです(I MISS YOU/Mr.Children)
アルバム『miss you』が示すもの
21枚目のMr.Childrenのオリジナルアルバムとなる『miss you』は2023年10月4日にリリースされた。前作から3年弱の期間を空け、Mr.Childrenの活動こそあったものの、新曲のリリースはその間で「永遠」「生きろ」の2曲。そして本作はタイアップが1曲もなければ、インタビューもない。2023年に届いた2冊目までの会報誌ではわずかに触れているものの、あくまで“手触り感”にしか触れておらず(会報誌の為引用は避ける)、具体的な言及は行われていなかった。
発売前に公式サイトで表現されていたのは“Mr.Children史上、最も「優しい驚き」に満ちている。”ということだった。
発売から2ヶ月経った今、このアルバムに対する印象はがらっと変わった。アルバムを聴く前に「I MISS YOU」「Are you sleeping well without me?」「LOST」「Party is over」「We have no time」といった楽曲のタイトル群から感じていたことは“喪失”を表現するアルバムになるのか?ということだった。その“喪失”とはもっと言えば、前作『SOUNDTRACKS』で直接的にインタビューなどで言及していた“生と死”にさらに踏み込んだものではないか?というものだった。
そしてアルバムを実際に聴くと、そこから感じ取られるのは“桜井和寿のパーソナリティ”だった。1曲目の「I MISS YOU」で歌われている“誰に聴いて欲しくて/こんな歌/歌っている?(I MISS YOU)”という表現や、2曲目の“求められるクオリティ/今日も必死で応えるだけ(Fifty's map〜大人の地図)”といった、まるで胸の内を打ち明けているような楽曲。かつてここまで、桜井和寿を身近に想像させるようなアルバムがあっただろうか、というのが聴き始めて1ヶ月ぐらいの間の感想だった。
実際にネット上でも「これは桜井和寿のソロアルバム」というコメントも散見されたし、そういう印象を与えていたこともわからなくはない。
あらゆる“喪失”を歌ったアルバム
しかし、いま感じるのはこのアルバムはやはり“Mr.Childrenのアルバムである”ということだ。Mr.Childrenを冠しているのだから当たり前じゃないかということではあるのだが、それぐらいにこのアルバムは作家の身近なことを歌っているように錯覚させるアルバムだった。Mr.Childrenは大衆性を重視するバンドであるにも関わらず、I MISS YOUであるような“誰に聴いて欲しくて/こんな歌/歌っている?(I MISS YOU/Mr.Children)”という表現は、共感性という観点ではとても限定的で大衆性を排除しているように感じるからだ。
だが、聴けば聴くほどこのアルバムが実はパーソナリティに寄り過ぎず、大衆性とのバランスを保ちながら綿密に作られた楽曲群であるかを感じる。会報誌で触れていた“手触り感に対する表現”はまさにこのことで、このアルバムは決して内省的なアルバムではなく、世に放たれるべくして制作されたスタジオ・アルバムなのだ。それは、この『miss you』に収められた楽曲たちが、画一的な喪失を歌った楽曲群ではなく、あらゆる方面からの喪失を歌った、コンセプチュアルでそれぞれに物語性のある楽曲が並んでいることに気づくことで明らかになっていく。
半径数メートルの“喪失”を歌ったパーソナリティにフォーカスした歌は、Mr.Childrenというフィルターを通して我々に届く。この“喪失”が全方位的に当てはまる人間は、おそらくソングライティングをした桜井和寿に他ならないが、私たちはどこか近いようで遠い、シンプルなのに味わい深い、そんな測りにくい距離感の楽曲を通してそのピースを丁寧に噛みしめる。
これまで大きなフレームで私たち(大衆)を共感という渦に巻き込んできたMr.Childrenは、本作では半径数メートルの情景を描写することで、誤解を恐れずに言えばメッセージ性のない、そこにあるのはただひたすらに丁寧に描写された生活のみ。私たちはその情景描写を通じて、真の意味での“素材そのもの”を味わうことになる。
『miss you』全曲レビュー
M-1:I MISS YOU
アコースティックギターのアルペジオとピアノのコード。シンプルでありながらマイナー調のイントロが、タイトルと相まってどこか暗さを感じさせる。“寝苦しい夜”というフレーズからはじまり、その暗さは一層聴き手を深い場所まで連れていき、徐々に楽曲は独白めいた方向へと進んでいく。まるで桜井和寿が自分自身のことを歌っていると錯覚させるような詞の内容には、聴き手の共感性を持たせるスペースがほとんど残されていない。考えるのではなく感じ取る、そんな装いを凝らした楽曲。
淀んだ川があったって/飛び越えた/その度ごとに/でも/その意味さえ/わからなくなるね(I MISS YOU/Mr.Children)
M-2:Fifty's map~大人の地図
アルバム発売前に解禁された楽曲の1つ。尾崎豊のオマージュであることはタイトルからも明らかだが、“バイクで闇蹴散らし/窓ガラス叩き割って/つまらぬルールを破壊しながら(Fifty's map~大人の地図/Mr.Children)”といった詞の内容からもそれは感じ取ることができる。
「I MISS YOU」とは一転、エレキギターのストロークとうねるベース、6/8で攻め込むドラムというバンドサウンドからはじまる。おそらく本作の中でも極めてバンドサウンドが立った楽曲ではないだろうか。“似てる仲間が/ここにもいるよ(Fifty's map~大人の地図/Mr.Children)”というフレーズに勇気づけられた聴き手もいるのではないだろうか。この楽曲も“I MISS YOU”同様に、個人的な、いや、広く捉えるならバンドとしての歩みを歌っているようにも聞こえ、そこに私たちは“共感”ではなく“肯定”を感じる楽曲になっている。
求められるクオリティ/今日も必死で応えるだけ/「偶然」に助けられ/なんとかやって来ただけのこと(Fifty's map~大人の地図/Mr.Children)
M-3:青いリンゴ
スローテンポなドラムと、2本編成のアコースティックギターのオブリガートからはじまるイントロ、そこからテンポが倍になり2つ目のイントロがはじまる。“2つ目のイントロ”と書いたのは、この楽曲の編成が少々特徴的だからだ。
表現するなら、イントロ1→イントロ2→Aメロ→Bメロ1→サビ→イントロ1→Aメロ→Bメロ2→間奏→Cメロ→サビ→大サビ→イントロ2、といった具合。
つまり楽曲のオープニングで使われていたイントロ1と2が、楽曲の中で分解されて、言葉を変えればイントロ1はブリッジに、イントロ2はアウトロに転用される編成になっている。これはHANABIであったようなイントロがCメロで流用される形式のような、ちょっとした遊び心を感じるアレンジだ。
ちなみに本作『miss you』で好きな楽曲上位にこの「青いリンゴ」がある。それは次のフレーズから表現のしようのない刹那を感じるからだ。このテキストだけを切り取れば挑発的な一文にも思えるが、楽曲を通して聴けばそんな意味はなく、このフレーズが自身の命と向き合う刹那的なフレーズであることを感じ取れる。
ナイフを持った奴が暴れ出したら/僕ならどんな行動をとるか/なんて考えてみるんだ(青いリンゴ/Mr.Children)
M-4:Are you sleeping well without me?
「青いリンゴ」で構成について触れたので、「Are you sleeping well without me?」では楽曲の編成についても触れたい。本作『miss you』は、前作「SOUNDTRACKS」「生きろ」でタッグを組んだ海外チームも参加している。「Are you sleeping well without me?」では「SOUNDTRACKS」の「memories」で名演したSimon Haleがピアノを演奏している。「LOST」ではパーカッション、「ケモノミチ」ではストリングスで海外組が演奏からレコーディングまで関わっている。無論、その場合の監修はSteve Fitzmauriceなのでどこまでコミュニケーションがあったかであるが実質的なプロデュースも兼ねているだろう。
詞の面においても「I MISS YOU」同様に“汚して/拭き取って”などフレーズを繰り返す点が聴いて取れる。これが過去と現在を行ったり来たりする反芻の象徴であるのか、この主人公の自問自答は答えに辿り着かないまま暗い余韻を残したままピアノの反復は終わる。
教えてほしい/Are you sleeping well?(Are you sleeping well without me?/Mr.Children)
M-5:LOST
ポジティブ、ネガティブ両面の要素が楽曲の中でぐちゃぐちゃになっていて、一言で感想を述べられないのがこの『miss you』というアルバムの魅力だと思っているが、例えば「Fifty's map~大人の地図」が“似てる仲間が/ここにもいるよ”、「青いリンゴ」が「季節は巡る」といったフレーズで終わるのに対し、「LOST」は“立ち尽くしている”、「Party is over」では“さぁ前を向いて歩こう/でも何処へ向かえばいい?”といった決してポジティブなフレーズで終わらない終わり方の楽曲もある。特に「LOST」では、やりたいことがあるという希望を求める感情に対し、“立ち尽くしている”というフレーズが4度も出てくる。
躍動感のあるパーカッションと重なるコーラスの華やかさとは裏腹に歌詞は望みと喪失について書かれている。この相反する状態が、まさに「LOST」の世界観を表現しているようにも感じる。
そして地味に気になっているのがピアノもいい感じにこの楽曲に彩りを添えているわけですが、弾いているの誰?(クレジットに明記がないので…Mr.Childrenのメンバーになるのだろうか?)
放った光さえ/歪んで闇に消えてった(LOST/Mr.Children)
M-6:アート=神の見えざる手
これはもう、この楽曲そのものについては語りようのない実験的な楽曲であるが、「LOVEはじめました」や「過去と未来と交信する男」のような実験レベルではなく完全にポエトリーラップの域に突入したMr.Childrenの姿。ただ“Mr.Childrenの姿”とするには、楽曲の編成もシンプルであり、クレジットにはこの楽曲に参加したミュージシャンの名前がない。つまり、Mr.Childrenのみの参加になるのだが、ほとんどがループされるパーカッションとエレピ、ベースの構成である。ベースもシンプルなフレーズの繰り返しなのでナカケーが弾いていない可能性すらある。このアルバムにおける実質的な桜井和寿ソロか?と言いたくなる。
中華人民共和国や、北朝鮮といった具体的な国の名前がでてきながら社会風刺として巻き込んでいる点は、これまでのMr.Childrenになかった、だけではなく邦楽においてもほとんどないのではないだろうか。国名をあげることがその国を批判することになっているわけではないものの、比喩表現として社会風刺に巻き込んでいるあたり、だいぶ攻めている。直近のインタビューMOROHAへのリスペクトを語っていたのでその影響だろうか。
中華人民共和国と北朝鮮のアンビリーバブルな行動/非常識だと報道するけれど/じゃあどこの国が常識的だと/あの金髪女は言うのでしょう?(アート=神の見えざる手/Mr.Children)
M-7:雨の日のパレード
この楽曲もクレジットにミュージシャンの明記がないため、実質Mr.Childrenメンバーのみで編成された楽曲だと推測される。“子供の飛び蹴り”など親としての日常生活が場面として描かれており、『miss you』全般に言えることであるが生活感を想起させるフレーズが随所に散りばめられている。また楽器の数が少ないことで、コーラスが非常に際立ち、「雨の日のパレード」は特にそのコーラスの際立ちを感じる。特にサビの部分は声の重なりが非常に美しく、意図的かどうか『HOME』収録の「通り雨」もサビでのコーラスが立つ楽曲だったな、と振り返る。なんなら、「雨のち晴れ」もそうだ。これはわざとか。
雨の日のパレード/ずぶ濡れで/でも心は踊る(雨の日のパレード/Mr.Children)
M-8:Party is over
野暮なことを言っていることは重々承知な上で、言わせてほしい。このアルバムの中で唯一、「バンド編成でいてほしかった!」と思ってしまったのがこの「Party is over」だ。メロディーも詞も、そして曲の構成も素晴らしく、それを際立たせたい為かギター2本という非常にシンプルな構成で仕上げられている。たったギター2本での編成にも関わらずストリングスやピアノのアレンジが聞こえてくるほどに、これまでのMr.Childrenらしさと、『miss you』のエッセンスが上手に調和している印象を受ける。
このあとに続く「We have no time」にも通づるが、“胸に手を当てれば/暖かな炎を/感じるのに”といったような、「Party is over(楽しい時間は終わり)」や「We have no time(私たちに時間はもうない)」といったような期限を感じさせるタイトルがありつつも、消化しきれない、まだ情熱を絶やすことのできない、ある種のもどかしさを抱かせる温度を感じる楽曲だ。
多分そうだ初めから/君が書いたシナリオの通り/キャリーオーバーできず/未来へ何も残せやしない/心の中まで空っぽさ(Party is over/Mr.Children)
M-9:We have no time
当たり前のことのようですっかり言及することを忘れてしまっていたが、Sax奏者の山本拓夫がこのアルバムでは度々登場している。Mr.Children + 山本拓夫といっても過言ではない(過言)。「We have no time」は桜井和寿節全開の韻をふんだんに盛り込んだ詞と、「未来」のような跳ねる音のフレーズで高揚感を抱かせるアグレッシブな楽曲となっている。
Mr.Childrenで2度目の登場ブルース・リー。2度も登場する著名人は初ではないか、という所だが、1度目の登場はアルバム『Q』の「Every thing is made from a dream」だ。夢を見ていた楽曲に対し、「We have no time」では尽きた夢に対し歌う。しかしその姿勢は諦めや停止ではなく、“まだ挑戦”という挑戦と意気込みを感じさせる楽曲となっている。
やり直すには/We have no time/守る気持ちも/沸き起こっちゃう/だけどスキルは/尚も健在/まだまだいけんじゃない?/とか思っちゃう(We have no time/Mr.Children)
M-10:ケモノミチ
先行配信された楽曲。この楽曲を聴いて本作『miss you』へ期待に胸を膨らませたリスナーも多くいると思う。3拍子で連なりながら、がむしゃらに掻き鳴らされるギター、『miss you』の中でも特別世界観を広げる何重ものストリングス。リズムに乗っているようで複雑に絡み合い、まるで自然の中で勢いで演奏されているかのようなスピード感。歌詞カードにはギターを一人抱える桜井和寿がデザインされており、その様子はアルバムのジャケットにもなっている。
なによりこの楽曲において気になるのは“誰にSOSを送ろう”というフレーズではないだろうか。オープニングの「I MISS YOU」で“誰に聴いて欲しくて/こんな歌/歌っている?”と叫んでいた主人公の問いかけが、ここにも表現されている。「I MISS YOU」では歌を歌う者にフォーカスされていたが、「ケモノミチ」もまた“君にLove Songを送ろう”というシンガーとしての背景が見えてくる。多重の弦楽合奏と歌で気迫迫る「ケモノミチ」はここ数年のMr.Childrenの中でも異色を放つ存在ではないだろうか。
風上に立つなよ/獣達にバレるだろ(ケモノミチ/Mr.Children)
M-11:黄昏と積み木
とにかく優しい。“一つずつ”、“丁寧に”といったフレーズが何度かでてくるがそのフレーズ通り、一つずつ丁寧に歌い上げられるメロディーが印象的な楽曲だ。「ケモノミチ」以降の楽曲、「黄昏と積み木」「deja-vu」「おはよう」は相手を思いやる詞の世界観になっているように感じられる。2人で乗り越えていこう、という気持ちと、だけど欲張りすぎない生活でいようという価値観も感じられ、いつか桜井和寿がHAPPY NEWSという本の帯(森本千絵氏のデザインだった気がする)に寄せた言葉を想起させるような思想だ。
ゆがんで見えている世界は実は錯覚で、僕らはHAPPYが敷き詰められたふかふかのカーペットの上を今日も歩いているのかもしれない。(櫻井和寿)
どこか『シフクノオト』にもありそうな、でもそれ以上に優しい、もうこれ以上望まずに豊かに生きていける、心持ちで世界は変えられるということを、最小の、ミニマムの生活圏の言葉で、等身大の言葉で伝える真髄のMr.Childrenがここにいる。
欲張らないでいれば/人生は意外と楽しい(黄昏と積み木/Mr.Children)
M-12:deja-vu
“あぁ僕なんかを見つけてくれてありがとう”というフレーズが象徴的な楽曲。このアルバムにおいて参加ミュージシャンの中で忘れてはならないのが、「deja-vu」「おはよう」でピアノを演奏している小谷美紗子だ。交流があるか定かではないが、くるりやHeatwaveとも対バンをし2015年の2マンライブツアーで小谷美紗子も対バンをしている。deja-vuとはフランス語で既視感の意。この『miss you』では主人公は自分自身を肯定しきれずに悩んでいる楽曲が多いように感じているが、この「deja-vu」は“見つけてくれてありがとう”というフレーズからかろうじて自分自身を肯定しているようにも思える。わずか3分ほどの楽曲にも関わらず濃厚なストーリー性を感じさせ、聴けば聴くほど味がでるような味わい深い一曲。
誰の中にもブレーキと/そしてアクセルがあるけど/僕らうまく操っていけるかな?(deja-vu/Mr.Children)
M-13:おはよう
何度かブログでも書いているかもしれないが、かつてプロモーションの為のメディア行脚でMr.Childrenがとあるラジオ局に訪ねた時、ラジオのパーソナリティが「私がMr.Childrenでいちばん好きな楽曲は“安らげる場所”です。では、お聴きください」といった感じで“安らげる場所”を流したことがある。
いまでこのMr.Childrenメンバー全員が参加しない楽曲もそこそこあるが、“安らげる場所”は桜井和寿以外のメンバーが参加していない。『Q』というアルバムは、それほどまでに特殊性があり、ある意味では“バンドに拘らずバンドをやった”傑作であるのだが、この「おはよう」もそういった“拘り”を捨てた先にある純度の高い楽曲のようにも感じてしまう。(そう感じさせられている、という穿った見方もある)
↑書き終わり気づいたが、前作『SOUNDTRACKS』のラストを飾る「memories」に対しても全く同じ印象で書いていた。
「memories」がMr.Children編成に拘らないという点における「安らげる場所」との共通項があるとして、「おはよう」は作家としての純度の高さという点での共通項があるように思える。
『HOME』というアルバムに「あんまり覚えてないや」という楽曲がある。「おはよう」を聴いて、その類似性を頭に思い浮かべた人も少なくないはずだ。この「おはよう」は、「あんまり覚えてないや」よりもさらに音楽的な作為性を外しながら、音楽的なトライもしていると思う。
矛盾しているようだが、私がこの楽曲でとにかく感動したのは“駅前には〜”のくだりだ。これがサビなのか、サビではないのか、もはやそれを定義付けようとすることが野暮ったい、ただこの歌を聴いてくれと言わんばかりの構成と歌詞になっている。この構成は、計算されたものか、そうではないものか。いずれにしても、Mr.Childrenとしての無作為な作為であることに違いない。
駅前には自転車を置ける場所が/あまりないから/歩いて駅まで向かおう/その方が長く話せる(おはよう/Mr.Children)
本作『miss you』はパーソナリティな内容を歌っているようで、様々な挑戦が仕掛けられているアルバムだ。それは音楽的な構成から、詞の内容まで気づかれないように、けれど綿密に組み込まれている。
思い返せば「青いリンゴ」では“生まれ変わったら見たい世界がある”と言い、「We have no time」では“やり直すには”というフレーズがでてくる。過去を振り返るようなフレーズも頻出する中で、やり直したい、再トライしたいという心情が楽曲には表現されているのだ。
それが桜井和寿自身の心の内を表現しているのか、表現しているのであれば本作がその挑戦(やり直したいこと)であるのかは定かではない。
「おはよう」は今日にフォーカスし、今日を終える。自分を肯定できているかはわからないが、他者は肯定している。“誰か”が見えていなかった「I MISS YOU」から「おはよう」では僅かながら“君”がいる。
Mr.Childrenには新しい楽曲をまた聴かせてほしいと心から願いながら、この「miss you」は、楽曲の主人公は、この中でしっかりと完結していて、おそらくこれ以上も望んでいない。『重力と呼吸』でMr.Childrenはバンドとしてのサウンド面の強さを押し出し、『SOUNDTRACKS』ではアナログレコーディングといった形で丁寧な音像でそのスタイルを示した。様々な表情を見せるMr.Childrenという生き物はもはやひとつの大きななにかではなく、あらゆる形に変化する生き物であったが、本作においても“巨大化したMr.Childrenという偶像”を通して鳴らされる音楽ではなく、狭い場所で、ほんの10畳程度のスタジオで、4人だけで鳴らせる最小限の音で小さなMr.Childrenを動かし始めた(再起動させた)、そんなアルバムだと感じた。そしてこの物語は、きっとどこかでひっそりと続いていくのだろう。
さぁ前を向いて歩こう/でも何処へ向かえばいい?(Party is over/Mr.Children)









