今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

死に至る病を抱えて、北へ向かう。

(まえがきのまえがき)

 「次にブログを書くときには間を空けないようにしたいな〜」

 「せめて月イチぐらいがペースとしては保っておきたいところ」

 「やはり心の変容を書き留めておかねばね!」

 なんて思っていたのも束の間、時はあっという間に経ち前回から3ヶ月。しかも前回は衝動的に書いたブログだったので実質半年ぶり今年2回目のブログか!?

 しかしまあ我らがMr.Childrenも新曲をリリースしていないところですので、それは実質「時は経っていない」と考えて良いでしょう。(サンドウィッチマンの0カロリー的な考え方)

 

 と、言いながら実は下書きがだいぶ進んでいたものがあって、読み返すとこれはさては5月だな……?

 タイトルもつけてあって、これはキェルケゴールキルケゴール)の「死に至る病」の感想を書き留めていたところだった。

 しかし当時の熱量がいまほぼなく、、、読み進めていただく方には申し訳ありませんがおそらく相当パッチワークな文章が展開されます。(もう既にそう)

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(本題) 

 

 少し前に東京は春を迎え、寒暖差の激しい毎日を繰り返していた。気が付けば夏を思い出させるような暑さ、それでもまだ風に湿り気がないのを感じる季節は5月。新緑が気持ちよく彩る町並みは、散歩をしても、自転車を漕いでも、或いはそれ以外でもきっと心を穏やかにしてくれる。ありのままの姿を映し出した自然に、もういっそこのままで、と思うことが何度かある。しかしそれは考えることを放棄することに他ならず、考える脳があるのであれば、できる限り問を繰り返したいと思い直す。ああ、いつの間にか2020年を通り越した僕らは次に来る新しい時代をどのような面持ちで迎えることになるのだろうか。

 

 『死に至る病』はキェルケゴールキルケゴール)が記した哲学書のひとつ。数ヶ月前に立ち寄った本屋でなんの気無しに手にとったままバタバタと読まずにいた(読まずにいた本なんてたくさんあるんだけど)。いまは東野圭吾の『麒麟の翼』を読んでいるのだけれど、なんとなく思い立って『死に至る病』について書く。(なんとなく、とか、思い立って、が多い記事だな。)

 

死に至る病 (岩波文庫)

死に至る病 (岩波文庫)

 

 

 私が読む『死に至る病』は斎藤信治氏訳で、第一編のタイトルは「死に至る病とは絶望のことである。」とある。その一編はこのように始まる。

 

 人間とは精神である。精神とは何であるか? 精神とは自己である。自己とは何であるか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、ーーそれで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するということである。

(引用元:死に至る病/キェルケゴール

 

 自己とはなにか?を問う中で、それは「他者によって措定されるもの」と「自分によって措定されるもの」と二分して考える。そして自分によって措定されるもの、すなわち“人間の自己が自分で自己を措定したもの”は“絶望して自己自身であろうと欲せず自己自身から脱れ出ようと欲するという形態についてのみ語りうるであろう”とキェルケゴールは語る。

 キェルケゴールの考える絶望にはいくつか形態があって、第一形態が前述の“自己自身から脱れ出ようと欲する形態”であり、第二形態は“絶望して自己自身であろうと欲する形態”である。

 そしてこの何れにおいても、キェルケゴールは「自分ひとりの全力を尽して自分の力だけで絶望を取り去ろうとしているようなことがあれば、彼はなお絶望のうちにいるのであり、」と語る。絶望とは自己との対話であり、自己との関係性であるが、それは突き詰めれば突き詰めるほど自己を絶望に追いやり、そうではないなにか(他者)を介在させることによってまた違う形態を見せる、しかし自己は自己を措定することで、自覚的に自己自身を基礎づけるのだ。

 

 そもそもキェルケゴールの語りかける絶望とはなにか?という点において、彼は「抽象的に絶望を考えようとすれば、我々は絶望は非常な優越であるといわなければならないであろう。この病に罹りうるということが人間が動物よりも優れているという点である。」と言う。これはつまり「人間は考える葦である(パスカル)」ってことでいいですかね?(違う)

 

 と、ここまでが私が熱量を持って書いた5月ごろの文章でして、本日は2021年8月7日なわけです(汗)

  

  ここ数年、自分の中でもテーマとなっていて、ブログの中でも似たようなことに言及することがあると思うけど、「ジョハリの窓」と「死に至る病」の内容は共通して考えられることもあるのかなあ、と思っていた。

 人間は、「自覚性のあるもの/ないもの」があって、「自覚性のあるもの」の中でもさらに「客観視できているもの/できていないもの」が存在する。それが所謂、「絶望」という状態における「絶望を自覚できている状態/できていない状態」「絶望を客観視できている状態/できていない状態」更にいうと「絶望(という心理状態)をコントロールできている状態/できていない状態」といった分解ができるのかな、と。

 ある種、この話は突き詰めると「自己との対峙」を物語っていて、それは例えるなら「ジョハリの窓」をどこまで意識的に組み立てることができるのか、というところにも通づるのかとも考えた。

 

 「死に至る病」は中盤「神との関係性」にも話が発展していくのだけれど、まあそれも現代においては一種のメタファーとして解釈しても差し支えないのかな、と。勿論著者においては全くその意図はないけれど、あくまで“現代風”にアレンジするなら。(怒られそう)

 

 暴論を吐くと、このコロナ禍において自己と対峙した人々とそうでなかった人々がいると思う。そうでなかった人々は、心理学でいう合理化が働いた場合もあると思うし、シンプルに慣れることができた、というのもあると思う。

 一方で僕は未だにこの状況にめちゃくちゃ違和感を抱いていて、コロナ禍という状況に対して向き合い方を考えてしまう。それはもはや政治が示す状況そのままに身を任せることができなくなっていて、自分自身で行動して責任を持って現状を決めていくしかないな、と。

 でも残念ながらその決定や試行錯誤が、人生になにか良い結果をもたらしているのか、ということが全くわからない、というのもそうなんだよね。別に僕らは無人島でサバイバルしているわけではなく、制度や規則、規律のある中で生活をしている。そうなってくると、そもそも慣れる、順応するということをしていけることのほうがスマートで、変な話、生存率みたいな面でもきっと高いような気がしている。

 

 だいぶ話脱線したな〜〜〜、でもいま冒頭読み直したら「できる限り問いを繰り返したい」なんてことをぼやいているので、もう少しこの性格を続けていきましょうかね。

 

 では、このあたりで。

 

 あ、最近のイチオシは「寺尾紗穂」さんですかね。アルバムでいうと2ndの「御身」が好きかな。こちらのYoutubeは比較的新しい楽曲『北へ向かう』でございます。


 

僕らは出会いそしてまた別れる/叶わぬことに立ち止まり祈る

日々生まれゆく/新しい愛の歌が/あなたにも聞こえますように

 

 (北へ向かう/寺尾紗穂)

 

 僕らは旅人同士、きっとまたどこかで出会えるね。そんな風に思って、最近は生きています。この広い世界で、ほんのちょっとすれ違っただけ。