今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

生活ともしもの狭間で・2021年11月14日

 下書きがあった気がするが、はて。気の所為だったか。大抵、下書きを放置して数ヶ月経ち、数ヶ月前の自分と対峙することからこのブログは始まるのだが、今回はそうではないようだ。このブログをなにかのきっかけで今お読みになっているあなたは元気に暮らしているだろうか?元気でなくても無事であれば。こうやってくだらない文章を読む余暇が少しでもあってほしいと願う。

 

 美術展へ行く機会はめっきり減ってしまったが、読んだ本も、聴いた音楽も、少なからずあったけれど、自分語りからはじめようかな。(自分で語るのであればどこまでいっても自分語りか)

 スーパーの買い物からの帰路、スピッツの『魔法のコトバ』を聴いていた。“また会えるよ/約束しなくても(魔法のコトバ)”というフレーズの破壊力たるや。

 昔、スピッツが好きな親しい友人がいた。人生で何人か、「特別きっかけがあったわけでもないが、深い心の部分でなにかが通っていたような“気がする”」友人がいる(ただし向こうはこの限りではない)。その友人のひとりだ。友人とは、距離の問題でメールのやり取りがほぼであったが、いま仮に読み返せば内容だけではなくその文章の長さに吐き気がする程の文章量のやり取りをしていた。よく向こうも付き合ってくれたものだと感心する。

 時折直接的な交流もあったものの、大人になるにつれその頻度は減っていった。特別大きなきっかけがあるわけでもない、普通の友人関係のように、この関係性も希薄となった。しかし、不思議なもので、スピッツを聴くとその友人を思い出す。その友人そのものだけではなく、その時抱いていた自分と相手との交流における情緒や、ある意味では拠り所となっていた自分の根源みたいなものに気付かされる。音楽は過去へ連れて行ってくれると言うが、その最たるものであるなと、このスーパーからの帰り道で感じた。

 友人よ、どこかで元気に暮らしているだろうか。元気でなくても無事であればいい。なんとなく、またどこか、なにかのきっかけで、なんの理由もなく出会う気がしている。

 さて。まだ読み切っていないものを紹介するのも若干の抵抗があるが、この文章の流れで思い出した本がある。『東京の生活史』は、辞書ほどに分厚く繊細な、東京に暮らす150名へのインタビュー集だ。岸政彦による編集で、ずっと東京に住んでいる人、上京してきた人、男性女性年齢問わず、150名の東京で暮らす人々に、150名異なる人間がインタビューをしている。1名、1名丁寧に、けれどある意味では断片的な、物語性があるようでない、例えるなら居酒屋やバーよりも、その人の自宅で広く浅く(けれど時にその会話は遠くへ飛び)自己紹介を聞いたときのようなそんな感覚の短編が幾重に織り込まれている。

 わりと1名分を読み切るのにも体力がいる。けれど読んでいると、前述のようにその場の、その人の、自宅、空間に居るような、「はじめまして」の感覚を持たされる。(だから体力がいるのかな)

 生活していくということは、出会いと別れを繰り返すということだ。もっと言えば、選択を繰り返すことである。答えもなければ、間違いもない。淡々と日々は動いていく。人間の営みを、この胸に、このコロナ禍で優しくも痛く刻むことのできる一冊であると思ってる。すべての人に物語はあり、それは変哲のない儚さを持つ。生きていくということは大それたことじゃなく、営みを紡ぐということに他ならない。これは只の史であると同時に唯の史である。昨日の夕暮れ時にみた鉄塔の美しさと同じ、偶然が生み出した万物の記録なのだ。

 

 ここまで来たらもうひとつ。このコロナ禍で私は直接足を運ぶことができなかったが、手にとったもう一つの「東京」に纏わる本がある。2021年8月から9月まで東京都現代美術館で行われた「もしも東京展」に展示された漫画家やエッセイストの作品をまとめたアンソロジーだ。

 あくまで作品として収録されているので、会場の雰囲気は見て取れない点は注意。

 いろんな作家さんの「東京」に纏わる物語は、どれも魅力的な内容で久々に刺激をとても受けたのだけれど、最も刺激を受けたのは芸人のパンサー向井慧氏のものだった。ほんの数ページのエッセイで向井氏が上京を夢見てから今日までの内省が描かれているのだけれど、とても胸が熱くなった。大変失礼なのは承知な上で、一言で言ってしまえば「まだまだ諦めたくない夢もあれば、とてもじゃないけど叶う気もしていない」といったような渇望に満ちた文章であった。けれど、十分な成功を収めたと言っても良い30代中盤の彼が現状に満足することなく未だ挑戦を、こんな選集の片隅でひっそりと決意を語っていることになんだか刺激を受けてしまったのだ。

 

 年を取れば年下の人間も増える。当たり前の話である。それと同時に、年上の存在はだんだんと薄らいでいく。いつもは必ずどこかにいた「教えてくれる人」が減ってくる。いつの間にか注意してくれる人は減り、正解は自分自身で編み出さなくてはいけなくなり、そしてその正解を確かめる術も大抵は自分の中にしかなくなってくる。

 その寂しさと虚しさをここ数年ずっと感じている。十分頑張っているじゃないか、その姿勢だけで、周りはもうそれ以上踏み込んでこない。なんなら瀕死の状態になったとて、誰か踏み込んでくるかどうかもわからない。なぜなら周りがもうそうなってしまったからだ。

 しかしそんな中でも新しいチャレンジをしている人を見ると、エネルギーをもらえるような気がしている。まだこの日本のどこかで、世界のどこかで、自分の中のもやもやと対峙しながら、それでも諦めずにそのもやもやの正体を突き止めようと命を削いでいる人がいる。そんな文章を書いている私自身は、やはりこなすことで精一杯になってしまっている一人なのだけれど。いつか人生の不可逆性に後悔する前に、その正体を明らかにしたいと思う。

 

 なんだかまた広く浅く文章を書いてしまった。「もしも東京」は浅野いにお目当てで買ったところもあるのだけれど、実は2020年(オリンピックの延期がなければ2020年に公開予定だった)版の浅野いにおの「もしも東京」は既に読んでいた。けれど、書き直したというから買わねば、ということであらためて買ったのであった。

 「もしも東京(2020年版)」は、古き良き浅野いにおの人生観が現れていて、「TP(2021年版もしも東京)」は最新の浅野いにお、人生観よりもエンターテイメント性(デデデデっぽさ)が強くでていたように感じました。どちらもとても面白かったです!

 

 こんなに表現力豊かな作家さんがこれだけ世の中にたくさんいるのに、それと対比するものではないけれど政治はあまりにも停滞していて、なんだか皮肉だなあ、と思う。事実は小説より奇なり、ではあるが、このコロナ禍において事実が小説よりも堕落しはじめているようにも思えてしまう。でもそんなときは、いつもリコーのキャッチコピーを思い出す。

 

退屈なのは世の中か自分か。(RICOH

 


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知りたいと思うこと/謎を解くのだ夜明けまで(くせのうた/星野源)