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寛容のパラドックス

 M-1グランプリ2022決勝を観た。できれば、ブログはなにかを読んだり聞いたりしたものの感想を書き込む場にしたいと思っていたが、雑記も多いので、ここ最近のもやもやも含めて言葉にする訓練をしたいと思った。そのきっかけがM-1グランプリ2022決勝戦だった。

 

 書いていて思ったけど、たぶんブログ史上最散らかし(さいちらかし)の散文です。

 

 M-1グランプリは好きでもともと例年観ていた。今年、M-1グランプリの決勝の数週間前になって何気なくTwitterで「M-1グランプリを感動ポルノにするのはやめてほしい」といったような趣旨のツイートを見かけた。ツイートした本人がそういった意図で書き込んでいたかどうかは定かではないが、たしかにM-1グランプリは「人生逆転」といった一面をいつからか孕むようになり、芸人の背景にスポットがあたり、「これだけ苦労してきた人物が、笑いで勝負しようとしている」といったいわば人生にスポットをあてることで、感動を生み出す物語にもなりつつあった。それは奇しくも今年優勝したウエストランドがネタで語っていた「芸人のアナザーストーリーとか流すな」「優勝したらお母さんに泣きながら電話するじゃねえ」といったような部分とも通ずるところがあった。そしてまたさらに重なるように、優勝したウエストランドの毒舌ではない方(河本)は、優勝が確定した直後に一筋の涙をカメラの前で流すのであった。

 

 話は変わり、ウエストランドが優勝する直前、そして直後に立川志らくが「君たちは優勝したらスターになる」「傷つけない漫才とか言われている時代に、君たちのような漫才(毒舌、誰かを傷つけているかもしれない漫才)が評価されれば時代が変わる」といった趣旨の発言をし、松本人志も「肩身の狭い時代ですが〜」などとコメントしていた。

 私たちは気づかない間に「誰も傷つけない表現」を評価するような時代の空気を感じていた。しかしそもそもだが「誰も傷つけない」とはどういうことだろうか?「誰も傷つけない」ということそのものが「誰かを傷つけている」のではないだろうか?

 

 私はよく「やさしい」と言われる。

 「表現に気をつけている」と言われる。

 「気を使っている」と言われる。

 

 しかしそれは裏を返せば、「無関心」であり、「相手を信頼していない」のであり、「距離を置いている」のだ。

 

 無論、私にそんな意図はないが、受け取る私自身は常にいい意味で評価されているとは思わない。ウエストランドの毒舌漫才にのっかり、あえていうが、相手にそんな理解力があるとも思っていない。それは私は私を離れた瞬間に理解されるものではなくなるし、私の表現力がどれほど優れていたとしても、だ。

 だから前提人間は「相手」と話しているときであっても、それは究極「自分との対話」であるとすら思う。

 

 なのでウエストランドの漫才は、毒舌と言われているが「自分との対話」であるのだ。それは一歩引いて冷静に見ればそうであり、それを「傷つける漫才」だとか、それ以外を「傷つけない漫才」と評されることに、なんとなく違和感を覚えた。ああ、人間ってカテゴライズすることが好きだよな、と。もはや表現が、“その箱”にしまわれてしまった時点で、窮屈なのだ。

 

 そしてここ最近の自分も完全にそうである。

 

 あるときテレビでアナウンサーが小説家相手にリアクションをとっていた。アナウンサーも好きな小説家らしく、その語る内容からも小説をちゃんと読んでおり、嘘ではないことも伝わってきた。しかし、リアクションがとにかく大げさなように見受けられた。

 おそらくそのアナウンサーは「相手に理解していることを伝えたい」がための大げさなリアクションなんだと思った。静かに感動することはできる。しかし静かな感動は相手には伝わらない。小説家相手に言葉での「感動しました」一言ではどこか平易で嘘っぽい。では、ここは自然体ながらも大げさに少し感想を伝えよう。そういう「演出」なのだと思った。「表現に気をつけている」のだ。

 私も日々コミュニケーションする中で「相手に伝える」ことを意識する。コミュニケーションを円滑に進めることを意識する。コミュニケーションが滞ることが怖いのだ。コミュニケーションが止まることが生産性がないように思えてしまうのだ。あまりにも不健康だと思うが、私はコミュニケーションを進めることを重視してしまう。

 おそらく相手もそうだろう。コミュニケーションを円滑に進めたいがために、お互いがお互いのために演じている。社会を回すために、我々はコミュニケーションに潤滑油を持ち込んでいるのだ。錆びてガラクタになってしまわないように。

 けれどいつしか、そのコミュニケーションは、社会を回すとは、一体どこに繋がっているのか、わからなくなるときがある。傷つけない漫才とは、傷つける漫才とは、いったい誰に向けているのだ。そう、傷つける漫才はクレームが来てテレビにでれなくなり仕事がなくなるから、傷つけない漫才があるのだ。しかし傷つけない漫才が評価されることで、傷つける漫才が表現として抑圧されないのだろうか。これは感動物語なのか? そうではない、M-1グランプリは表現の場なのだ。そして表現を評価する。

 その人が表現したいものが、然るべき形で、「表現として評価される」場所なのだ。それは誰の為でもない。笑いとは、第三者がいてはじめて成立するものであるながら、矛盾を持つ考えではあると思うが、このM-1グランプリ2022決勝戦を観て、そしてここ最近のモヤモヤを通じて感じたことは、表現が、自分(それぞれの自己)が、人生においてどこに向かうべきなのか、本来どこへ向かうものなのか、ということであった。

 

 どこへ行っても自分は、自分ではないなにかを演じ続けてしまう気がする。

 他者との交流が発生する以上、それは自分ではない何かを通してでしか他者との交“流”は滞りなく続かないのではないか。

 そう考えると、自分は、自己は、どこで手にすればよいのかと悩む。

 

 そんな風に考えている。