雑記。2015年5月3日
雑記。このブログ、読まれている記事がほぼ変わらないので、書き直したいなあ、とか思ってるんだけど、なかなか。特にミスチルのHOMEとか、適当に書きすぎたなあ、と。当時の気持ちは残したいけどね。
んで、なんでまた雑記なんかっていうと、なんか書かなくてはと思いつつも、なにを書くにもそれなりの体力が非ずで、こんな風にゴールデンウィークの最中にぐだぐだと言葉を連ねはじめた。
まあ、雑記なら匿名でどっかに書いちゃったほうが得票数高くていいのに、とか思うときもあるけど、そうじゃない、あくまでも自分の中のケジメ。
本題。
社会人になって最近思うのは、「ああ、自分の思想ばかりを追うようになったなあ……」ということ。
今日、スーパーで買い物をしていて、なんとなく「牛乳プリン」が欲しいなあと思ったんですよね。で、そういう衝動って僕、社会人になってから減ったなあと思ったんです。学生の頃は、それこそお金なんか少なかったけど、「牛乳プリン」の虜になってしまったりしていた。
それがなにを指しているかっていうと、ある意味では無邪気さであり、そこに余計な思惑なんか勿論ないわけよね。
きっとそういうものに気持ちを割く余裕があったことに寄る所が大きいと思うのだけれど。ここ最近は、分かりやすい話「損得」で物事を考える思考が非常に身に着いちゃった。
あと、社会人になって身についたのは「人のご機嫌伺い」。職種もあるんだけど、とにかく空気を読もうとしてしまう。相手を、その場をコントロールすることが大事だと誰かが言う。そこばかりにとらわれる。
だから、気付いたんだけど、ここ最近、誰とのコミュニケーションでも2,3手先をみんな読みながらやるんだなあーと思った。
Aというボールを投げた時に、A'という反応か、はたまたBか、Cなのか、みたいな。で、その返答に対するそれぞれのこちらの反応を用意しておく。んでまた、その返答に対する相手の反応ね。そうすると、だいたいが自分の想定内になるので、あまり場に惑わされたりしない。惑わされているフリはするけど、それが順次、必要だと思えば。特に、突拍子もない発言や行動って人は「わざと」と思いにくいのよね。ここでは説明するの省くけど。
その2,3先を読むのが無意識で当たり前になってしまっているし、じゃあ、相手も読んでいるか?とか考える。
そこで非常に萎える。もう、これ、相手が考えてても、考えてなくても、この何手先も読むコミュニケーションって不毛じゃん。
だって想像ですべてコミュニケーションできちゃうんだもん。
僕、たまに思うんですよね、だいたいの悩みに対する答え、インターネットに書いてあるじゃんって。相談してるやつなんなの?って。親身になって聞いてくれりゃいいってもんじゃねーよって。
話、徐々に戻ってきてます。
つまり、ただもうこれ完全に、「僕の思想」だなあ、と。独りよがり。
僕が訓練して、知識を蓄えて、ありとあらゆる想像をこよなく愛せるようになって、もうホリエモンみたいな?想像の範囲内でしか世界が動かなくなっちゃう。それがなんなのさ、と。それはあくまで僕の思想だ、と。
正直、めちゃくちゃ大事だと思いますよ。僕の人生だし、僕の人生のありとあらゆる可能性が、既に啓示されているとしたらね、、、とか書いている時に、今、テレビで東大卒のミス日本の現在が、東大卒の外務省の夫と娘二人と幸せに暮らしてるとか放送されてて、あーなに俺くだらないこと書いてんだってなった。
結局は自分に関することなんてどうとでもいえるのです。自分の世界は、想像は、無限だからね。
じゃあ、もうその思想なんかほったらかして、結局、他人の為になにができるってことなのかなあ、とか。それとも、その思想の外にある、無邪気さみたいなものを膨らましていくべきなのかなあ、と最近は考えます。
他人の為になにかをやる、ってのは僕の中では、僕が影響を及ぼすんじゃなくて、もうその他人の中に感覚として入り込む、憑依させるみたいなイメージなんだよね。(危ないこと言っているみたいだけど。。。)
だって、そうじゃなきゃただのキャッチボールだし、下手らしたら思想の押しつけだし、もはや相手の為になっているかどうかなんてエゴでしかなくなっちゃうからね。もうこちら側からの発信という考え方では、それはもうすでに相手の為ではないわけですよ。ある意味じゃね。僕も言ってて、なんか違う気もするんだけど。
なんでもいいから、行動を形にして、発言に説得力を持たせるような、見える地位を確立しなきゃね、この年じゃね。