何の変哲もない日に思うこと×超雑記シリーズその9@20160222
自分の子供が、なんの儀式もなしに、ある日突然、親元を離れたと実感することは、寂しいことか。
いったい、なんのために子供を産むのか。
それは自分の一部が、感覚を持たない場所で蠢くことを指すのか。
だって、引き継ぐと云っても、僕らはどこに向かっているのか?
そういうことを考えだしたら、無責任な希望を子供に託し続けた無意味なバトンタッチを続けているような気さえする。
ウィキペディアで歴史上の誰かを視る。
この歴史は、なんの意味も持たない。ただの足跡である。
フィクションのそれと違わない。むしろフィクションよりもたちが悪い。
なぜか?
僕がいま認識している世界が、僕だけのものではない限りは、「そこに歴史が在った(であろう)こと」が証明されているわけで、証明されているということは、もはや、このような形でしか人は残らないという、この長い長い歴史の中で、果てのない時間の中での何億分の、いやもっと、無料大数分の一みたいな、そんなレベルのピースでしかないことを証明される。
「じゃあ、それ以上の価値って例えばなにがあるの?」
もう想像の域をこえていて、無理。だって、人間が価値を持たせている限りは、それは、ほとんどが我儘でつまらなくくだらない価値も意味もない、人間だけしか持つことのできない感覚だから。
それを超えたものがなにかあったとき、人間のままではおそらく認識ができない。だから、想像もできない。
もう何度目の春か。
あれも、これも、それも、すべてが繰り返している。
人間が想像し得ることがすべて起こり得ることであるということは、人間は人間である限り人間を超えられないということである。
僕らは想像の範囲でしか暮らすことができない。
受け入れがたいものは、ただの心の防御なだけである。
友人から、ずっと自問自答している死への問いかけは、まるで禅問答のようなものだ、よくそんなこと続けられるな、と言われた。
でも、ここから逃れたらそれこそ死んでしまう。
誰かの考えをひとつでも多く飲み込んで、消化して、すべての人間が想像し得るすべてを手に入れないと、って思ったけど、そうそう居ないよそんな人って、そんなもんなのか。
何の変哲もない日曜日の夜に、こんな何の変哲もないことを考えている。
数年前の自分の思想と、ちょっとだけ違うんだな。