今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

さよなら2022年

 いつものように駆け込みふるさと納税を済ませ、だらだらとNHK紅白歌合戦をみて、ザッピングしながらテレビ東京ドヴォルザークの「新世界より」第4楽章をカウントダウンにあわせて終えるという謎の番組でその手を止めた。

 社会人になったあたりから大晦日や元旦が特別なものではなくなりはじめたが、ここ数年でその感覚に拍車がかかっているような気がする。年越し蕎麦は食べたが、紅白はみたが、師走の町中を歩いたが、そこから感じ取れる何かが減ってきている。感受性の問題ではあるが、ひとまず区切りを恣意的につけたいという気持ちで、いまこの文章を書いている。

 2022年はインプットもアウトプットも少ない年だった。(少ない年を略すと少年になるんだね。)具体的に言えば、“余計な(雑味のある)”インプットやアウトプットが少なかった。仕事やプライベートでやらなくてはいけないことは勿論あり、そつなく、できる限り論理的にこなす日々であったが、一方で感情的になにかを求めたり、得たりすることが少なかったなという反省がある。

 これはいま文章を書いていて気づいたが、もしかするとこの「できるかぎり冷静に」「論理的に」という意識が年々増しているせいかもしれない。もともとは仕事柄、感情的介入の必要のない(パフォーマンスとしてはエモーショナルな部分は求められる)仕事が故に、できるかぎり「状態を可視化する」「言語化する」ことを心がけていくうちに、自分の感情は箱にしまうようになってしまっていた。これは決して悪いことではなく、経営者でもない限り自分の感情が仕事にポジティブに働くことはなかなか無く、もしポジティブに働くとしたらそれは意図的な介入であり、意図的な介入を試みている時点でそれは論理の中にある感情なのだ。

 そのように過ごしているうちに、仕事以外でも、そういった意識が潜在的に芽生えてしまっていたのかもしれないと思った。いわゆる私の考える“雑味”とは、感情的な動きに付随してあらわれるものであると思っているから、論理的に組み立てる中には雑味は存在しないのだ。

 生きている限りすべてがすべて論理的になんていかないし、感情で動いているし、昨日も今日も明日も私は「あー人生しんどいな」「めんど」と思いながら生きているわけだが、そこで取れる雑味は何度も噛みすぎて味がなくなってしまったのだろう。

 2023年は継続的な刺激を、そして感情的な動きを大事にする年にしたい。継続的な、とつけたのは地味にインパクトのある出来事は2022年にあったが、それは振り返るとあまり自身の成長には繋がっていないなとも思うからだ。やはり継続的にどう不規則な刺激を自分に与えていくかが重要であり、それを計画的に立ててこそ、より変化のある日々を過ごすことができるのではないだろうかとも思う。

 さて、ドヴォルザークの「新世界より」も終わったところで、私のこのブログタイムアタックも終えようと思います。特にそんなつもりはありませんでしたが、つまらない文章をだらだらと書いても仕方がないので、年明け、休み中にでもまた読んだ本の振り返りとかを書きたいと思います。

 世界が昨日より平和でありますように。目の前のなにかや誰かは世界の一部であり、また世界は目の前のなにかや、誰かでもある。そういった想像力を持って、白と黒の間のグラデーションを、0と1の間にある無限の可能性を見通せるように生きていきたいと思います。