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家族と家族愛について考える〜「ゴリラの森、言葉の海/山極寿一・小川洋子」を読んで

 

 私は、両親との関係があまり良好ではない。と、風呂場の中で書き出しを思いついたところであったが、いざ書き出してみると、この一文の意味するところを自分でも見失ってしまった。しかし書くなら今だと行方もわからないまま深夜2時に書き出している。

 

 「家族」とは「仕組み」であると私は思っている。だから「家族愛」であるとか、「家族であるから信頼している」という言葉の意味するところが関係性ではなく、無条件な愛や信頼を指している場合には、それは私には受け入れがたい考え方であるとも感じる。

 「親ガチャ」や「毒親」という言葉も、ここ数年で起きたムーブメントの一部だ。あれらの言葉に関しても、それが意味するところが「家族への責任転嫁(依存)」ではなく、「関係性とはランダムであり、そのランダム性が人生を築き上げている」ということであれば、私も同意する部分がある。

 大好きな作家の小川洋子さんと、大好きな研究者の山極寿一さんの対談本「ゴリラの森、言葉の海」を読んだ。まさか、このふたりに繋がりがあったとは!と大変驚いたものであったが、冒頭の出会い部分を読むと繋がりは必然的なものであった。もともと、小川洋子さんと心理学者の河合隼雄さんが「博士の愛した数式」をきっかけに対談をしていたのだが、河合隼雄さんのお兄さん(河合雅雄さん)と山極寿一さんが先生と教え子の関係にあったそうだ。山極寿一さんはゴリラの研究者であるが、そもそもその元となる、日本でサルの研究をする「サル学」の名付け親、その創始者の一人が河合雅雄さんであるそうなのだ。

 具体的な小川洋子さんと、山極寿一さんの出会いのきっかけは河合隼雄物語賞・学芸賞の選考会ではあるが、こうやってお互いのルーツを辿ると出会うべくして出会った二人であるように勝手ながら感じた。

 

 前置きがいつもながらに長くなったが、私が山極寿一さんを好きになったきっかけは「考える人」という雑誌の「家族ってなんだ?」特集である。

 「家族ってなんだ?」特集なのに、ゴリラの研究者を連れてくるこの雑誌のユニークさもさることながら、山極さんのゴリラから家族を考えるその目線に大変心打たれたのだった。

 そして今回の小川洋子さんとの対談でも図らずも「家族とは?」という話に広がっていく。人間も、ゴリラも、オランウータンも、チンパンジーも、すべてヒト科であるからこそ、ルーツは通じているのだ。

 

 私たちはしばしば家族との関係性に悩まされる。それにはどこか頭の片隅で「家族だから」という前提が付き纏っているからではないかと思う。しかし「家族だから」とはなんだろうか?なんの根拠があって「家族だから」なのだろうか?「血の繋がり」とはそんなに深いものなのだろうか?

 無論、男女の関係性があって、その子孫が誕生し、必ず受け継がれる遺伝子がある。やれ視力は遺伝だ、運動能力は遺伝と関係ないだ、うつ傾向は遺伝している、などその実体は未だ明らかにされていないものの、育つ環境以外の起因で自分が形成される可能性があることは確かだ。

 一方で私は冒頭でも述べたように「家族とは仕組み」であると思っている。はじまりは他人である。「自分の子」ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。人間関係を誰かと構築するときに「趣味が一緒だから」という理由で、その人をすぐに信用したりはしない。信頼や愛情は、様々な調和があって構築されるものであると私は思う。

 遺伝子を受け継いでいるからといって両親を愛することができるのか。愛する必要があるのか。愛とは無条件であるが、無条件である条件に決まりはない。

 

 サルもゴリラもチンパンジーも、そして人間もそうなんですが、生物学的に子どもだとしても、自分には見分けられないんです。(ゴリラの森、言葉の海/山極寿一・小川洋子

 

 山極寿一さんは対談の中でこのように語っていた。つまり私たちは、「自分の子供」がいるから「家族」になっていくのではなく、「家族という関係性」を仕組みを作るから「家族」になっていくのである。「生物学的な血縁関係はなくても、親子関係は作ることができます。」と山極さんは続ける。記憶が朧気であるが、たしか雑誌「考える人」でもこの話はあったように感じ、私はこの文章を読んだときにどこか救われた気になった。家族は、家族になるべくしてなったのではなく、家族という仕組みがあったから、家族になったのである。裏を返せば、あくまで仕組みが家族にさせたのであって、親子関係が良いものであるかどうかは、お互いの技量にかかっている。

 大人になってしばしば思う。「大人も大人になるべくしてなったわけではない」と。大人の認定試験なんてあるわけではないから、大人にとってもすべてが初体験であるのだ。だから、両親であっても、不完全な部分は大いにある。そう考えたときに、「家族であるから」「両親であるから」というのは、あまりにも無意味な期待でしかない。あくまで、他者なのだ。その他者とどのように関係性を築き上げるか、築け上げられないか、に関しては、昨日出会った誰かとおおよそ違わない距離なのである。

 余談であるが、この「自分の子供であるかどうか」を見分けられる生き物もいるそうで、ウズラは羽の柄で、カエルは匂いで分けることができるそうだ。

 

 「家族愛」「愛は無条件である」なんて言葉を使ってしまったが、こうやって山極さんの話を聞いていると愛という言葉の身勝手さも痛感する。ゴリラの世界にもオスによる子殺し(自分の子どもではない)があると小川さんは山極さんに尋ねる。そして山極さんは「その理由はわからない」としつつも、子どもを殺されたメスが、その殺したオスと交尾してまた子どもを産む理由について「社会生物学的に解釈すれば、自分の子どもを殺したオスというのは、自分の子どもを守れなかったオスよりも強いわけです」と語る。このように考えると、我々は考える力を持ってして、なにか運命的な都合のよい解釈を得ようとするが、それはもしかしたら合理的ではないのかもしれないとさえ思う。

 いや、きっと合理的ではないのだろう。山極さんは「ちなみに人間には奇妙な現象があって」と前置きした上で、「セックスをしたら愛が芽生えると思っている。」と話す。つまりは「動物にはありえない。」ということを意味するのだ。だからこそ奇妙なのだ、と。「でも人間はなぜかそう信じています。どこかで反転しちゃったんですね」と語るように、なにかの条件が「愛の引き金」になっているのは、やはり合理性に欠ける考え方である。と、考えながらそれを論理的に解釈しようとすることで、その考えや願いが遺伝子に刻まれて、条件となっていくのであればそれもまた面白いななどと思った。(Mr.Children「進化論」の影響)

 

「強く望む」ことが世代を越えていつしか形になるなら この命も無駄じゃない(進化論/Mr.Children)

 

 だからといって、合理的な関係性の構築だけを社会的にできるのかといったら考える力を持っている以上そうではないのだろうが、もし合理的に生きることができたら、いまよりも生きやすいのかどうか、ということにもちょっと興味がある。

 

 そんな合理的な生き方の弊害になっているのが、「言葉」であるかもしれない。(あえて弊害、と書いたが、その弊害によって我々は社会を構築できていると思うので、私は言葉があってよかったと思う。)

 ゴリラは普段滅多に顔を近づけないが「赤ちゃんの寝顔をのぞきこむとき」と「愛し合っているとき」に顔を近づけるのだと言う。一方で我々は顔を見つめ合いながら、よく会話をする。それは何故か?ということを考えたときに、「サルや猿人類の目と比べると、人間の目だけ違う、それは横長で白目があること」なのだと言う。「だから、目がちょっと動いただけでもその動きをモニターできる。」そうすることで、心の動きを捉えているのだと。

 私はこの話を読んだときに目から鱗が落ちた。(目だけに。)

 

 以前のブログで「オフラインでもある必然性があるとしたらなにか」について書いたことがあると思うが、もし我々が無意識に「目の動きを見てコミュニケーションをする」ことを学んできていたのだとしたら、オンラインになることでその心の機微を感じ取ることができなくなったという可能性は大いにあるのではないかと思った。

 

 おいおい言葉の話どこ行ったよ、というとこであるが、この「白目の動きを察知する」ためには「一定の距離」を保つ必要がある。“だから逆に、言葉が生まれた”のではないかと山極さんは考察する。“この距離を保つため”だと。“意味が最初ではなくて向き合うことが重要だった”と。

 

 勿論、起源的には「相手を呼ぶため」であったり、「特定の記号を伝えるため」に「音を発した」ことがはじまりに近いとは思うが、言葉により深いコミュニケーションが生まれたきっかけはこのようであっても合点がいくと感じた。

 

 だから裏を返せば、我々は言葉というツールをまだ使いこなせていない。なぜなら、言葉を使うことそのものに最初は意味がなかったからだ。「見つめ合うため」という目的を達成するために言葉があっただけなのだ。

 

 私たちの関係性は、言葉によって保たれている影響が大きいが、その言葉とは本来は相手を繋ぎ止めるためのものであり、関係性は言葉とはまた違うコミュニケーションで成り立っていたものなのかもしれない。それはいわゆる現代でも「言葉は嘘つき」であり、しかし「関係性」もまた合理的でなければ各々に託されたフィクションでしかない。

 そんな私は言葉が好きで、言葉を頼りに生きているが、その言葉をまた関係性に依存させすぎているかもしれない、言葉の持つ暴力性を軽んじていたかもしれない、とこの本を読んで思い直した。

 

 山極 数式を説明するのは言葉じゃないですか。でも同時に、言葉は本当は違うものを同じものにしてしまう大きな力があるんじゃないでしょうか。例えば「走る」という動作は、ニワトリもイヌも人間も、本当はそれぞれ違っているのに、同じ「走る」という言葉に置き換えちゃえば、どれも想像できるわけですよね。そういう力を持っている。ただそれは、うっかりすると、ネガティブなことを生み出してしまうかもしれない。

 小川 置き換えによって切り捨てられる部分が大きくありますね。

 (ゴリラの森、言葉の海/山極寿一・小川洋子)

 

 最後に。私は、家族との関係について「無条件な愛」を「家族」という関係性だけで提供しようとすることには受け入れがたいと書いたが、山極寿一さんはまた違った視点から「(人間の)親子愛・夫婦愛」を語る。

 

山極 親子愛も、夫婦愛も、傍から見たら「あいつら、なんで自分の利益を無視して付き合ってるの」って思うでしょう。でも愛だから、その一言で片付けられる。

 (中略)

山極 そして愛は、先ほども言いましたが、自分の時間を相手に与えることによって作られる。愛している相手に時間を費やすことを厭わない。それが自分を捧げるということでもあるんです。

小川 見返りは求めず、自ら望んで、進んで、与えるんですね。

山極 それができるのは、やっぱり人間しかいないわけです。他の動物の場合は、たとえ血縁者であっても、お乳を吸わなくなったらすぐ他人になります。だから親子の間でもえこひいきがあまりない。むしろ助け合うときには、お互いの利益になるからという理由がいるんです。

 (中略)

山極 だから人間の愛というのは、動物から見たら変なものですよ。そして、宗教も科学も、愛という実体について答えを出せないでいます。

小川 その愛が幻だったということも多いですね。永久的なものではない。

 (ゴリラの森、言葉の海/山極寿一・小川洋子)

  合理性を排除した「運命」というロマンスの先で、我々が手にする未来とは一体どのようなものなのだろうか。プロフェッショナルなお二人の対話で締め括ることが美しいとは知りつつも「もうちょっとで5,000字じゃ〜ん」と思ってしまったが故に余計なアウトロを書き足す。これもまた人間の合理性に欠けた判断なのだろうか。(5039文字)