今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

消えかけの可能星を見つけに行こう@超雑記シリーズ2022/05/29

 

 20代は未来に可能性を抱いていた。“何か”になれると信じて、自分の中だけにある想像と距離を計算しながら、その可能性が絶える可能性に時にヒリヒリとしながら。それだけで日常が大切なものに思えたし、あらゆる場所に感情が波立っていた。

 しかし30代になって、“何か”など存在しないことに気付いた。すべては“どこ”から物事を視るかだけであり、捉え方だけが世界を創っていることに気付かされた。生と死も、都心の雑踏も、自分の内側も、“何か”ではなく“どこ”から視るかだけなのだ。この世にすべて付いている名前は記号でしかなく、そのものは存在しない。存在しているのは、観測対象と観測地と観測方法のみだ。それらに記号をつけて区別しているだけである。

 ともすると、可能性などというものも時間軸(未来的可能性)と併せて考えるのも難しいのかもしれないと思う。日々は日々への期待、言葉を変えれば手の届く範囲のみに対する期待のみで満ち溢れ、手の届かない場所はなく、それもどこから物事を視るかに過ぎないのだと感じる。大富豪も、見えない障碍を持つ者も。

SENSE

SENSE

  • アーティスト:Mr.Children
  • Toysfactoryレコード
Amazon

 唐突だけれど、Mr.Childrenの中で『擬態』という楽曲があり、とても好きな彼らの楽曲のひとつである。その歌にこのような一節がある。

  富を得た者はそうでない者より
  満たされてるって思ってるの!?
  障害を持つ者はそうでない者より
  不自由だって誰が決めんの!?
  目じゃないとこ
  耳じゃないどこかを使って見聞きをしなければ
  見落としてしまう
  何かに擬態したものばかり(擬態/Mr.Children)

 実に半年ぶりのブログの更新で、今日自転車に乗りながら、冒頭のことを考えていた。そして、どうしても書き残さなくてはと思いながらPCに向かってキーボードを打っていると、スッとこの一節が思い浮かんだ。もともと引用するつもりもなければ、Mr.Children 30周年にかこつけるわけでも(おめでとうございます)なかったが、自分の思考を書きながら「きっと、この文章なにが言いたいかも伝わらないだろうな。なにが言いたいんだろうな」と考えを巡らせていた時に、思いつくでもなく自然とこの『擬態』のフレーズが思い浮かんだ。そして、「ああ、自分が冒頭で言いたかったことってこういうことだな」と腑に落ちた。

 

 そう考えるとなにも不思議なことでもなく、今更なことでもなく、Mr.Childrenの『擬態』が大変好きな楽曲であることはどこかで書きたいとずっと思っていた(書いたっけ)。おそらく10年ぐらい前から。なので、「20代〜」とか「30代になって〜」とか書いたけれど、それは自分自身の勘違いで、それこそ“どこから物事を視るか”ということなだけで、きっと自分の中にずっとあった考え方なのだと思う。

 (文章だけだと堅苦しいので、画像を挟み込んで中和したいがストックがないのでAmazon

を差し込む)

 最近めっきり本を読まなくなってしまって、買っては読めずにいる本がたまるばかりだ。コロナ禍になって時間はできたはずなのに(忙しさという意味では同等かもしれないが)、どうにも本に手が伸びない。音楽は辛うじてサブスクに入っているから仕事中に聴いたりするけれど、前のように感受性豊かに心の中に落とし込むことができていないような気がする。

 だからアウトプットできる感情や思考も多くなくブログを書こうにも続かないという状態が続いていたのだが、何故か久々にこうやって文章を綴っている。

 

 有り難いことに仕事はオンラインでさせてもらえることがほとんどなのだけれど、オフラインとオンラインの差、弊害みたいなことは今まで考えずにいた。「オフラインでできることをオンラインでやろうとせずに、感覚的にオフラインを勧めるってどうなの」って正直思ってしまっていたし、事実ほとんどがオンラインで完結する。

 しかし、事実であるのは“オンラインで完結する”ということだけで、その質的なものはオンラインとオフラインでおそらく差がある。それこそ、引用した『擬態』の詞のように“目に見えるもの”ではなく“目に見えないもの”の差である。

 僕らに次に求められている、この次にあるフェーズはきっとこの“目に見えないもの”の差をどのように言語化していくかということなのだと思う。このままなんとなくオンラインからオフラインに戻ってしまったら、また同じことだと思うし、僕らはオンラインでなにを感じ取ることができ、オフラインでなにを感じ取ることができていたのか。

 (言及せずにどんどん商品紹介を差し込みますが、一応文章の前後と関係あるものを選んでいます) 

 仕事の話から入ってしまったけれど、コロナ禍において音楽や本を読まなくなってしまったのも個人的にはそこと関係があると思っている。よくスターバックスMacBookを開いている人間がネット上で揶揄されることがあるけれど、あれってすごく大事な時間だったなと個人的には思う。私はいまでこそセキュリティ的な面もあって喫茶店で仕事をすることはほとんどないが、本を読んだり、音楽を聴いたりすることはコロナ禍でなければあったと思う。

 なぜそういった雑音の多い空間で、集中的に本が読めて、自宅では読めないのか。何度か自宅を居心地良い空間に変えようと試みたけれど、どうしても上手くいかない。本が読めない。音楽が聴けない。そうするとどんどんと心が鈍っていく為に、なおのこと手が伸びなくなっていく。

 結論、わかりやすいところから言えば自宅にはそれを行うこと以外の誘惑がたくさんあるが、喫茶店であれば誘惑は少なく、また例えば買い物や食事、そういった“なにかとなにか”の行動の間にそれを挟むことがあるがそれらがすべて“別の場所”に存在していることもあると思う。

 

 「マルチデバイス」という言葉がほとんど使われなくなった、というニュースを見たが、私達は現代においてスマートフォン一台の中にすべてを集約しようとしている。本、音楽、SNS、新聞、写真、映像、出会いまでも。“一つの中にすべてがある”というのはとても便利であると思う。私もそうなってほしい。しかし集約されるということは、前述するような“一つに集中する”ということが難しくなる状態なのではないかと思う。言い換えれば、より集中力が求められる環境になっていくだろう。

 

 人間が、それに対応する集中力を手にするか、それとも分散したマルチな脳を手にするのが先か。

 

 あーそんなくだらないことを考えている。こんなこと考えてもなんにもならないのに。くだらないことを考えながら、惰性で仕事をやっている。惰性でやっているのは“仕事をやっている自分”であって、仕事そのものはしっかりやっています。けれど、こんなふうに考えていることとは一切無関係の、ひたすらに、猛スピードで過ぎてゆく時代に消費されてく無形の仕事である。

 日々も同様である。この一瞬を、どれだけ大切に思おうとも、それを思えているのは自分だけだ。なぜなら、自己は他者を覗けず、他者は自己を覗けないから。

 人生はハードモードだ。自分のことは自分でしか思考できないし、すべては自分が司っている。誰にも支配されない、あるがままの自分を生き続けなければならない。そしていかに愛するか、その答えを自分自身で見つけていくしかないのだ。

 

 と書いていて気付いたけど、このブログのサブタイトル「今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。」だったわ。くだらなくてOK。

 

 もう少しワクワクするようなブログを書きたいので、本とか音楽とか、取り込めるモチベーションが戻るといいな!(モチベーションは自然と湧き上がるものではなく、自発的に動き出すことでモチベーションがつくられる派……であれば逆では!?)