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僕らは奇跡の連続で生きている@超雑記シリーズ2021/12/25

 いかにもなタイトルで大変恐縮でございます。数日前から、この言葉がパッと浮かんでどうしても頭から離れずに消化の為にこのブログを書いております。この書き出しも含めてなんとなく“スピリチュアルさ”を感じ離れようとする方がいれば、それは不本意ですのでお待ち下さい。(いや、書いておきながらそれはどうなんだという話ではあるのだが)

 

 前置きとして、最近同じ話を何度も繰り返しているような気もしているので、人生アップデートしていかなくちゃいけないなとは思うのですが、同じ話をしていたらすみません。(どうにも謙りすぎだな?)

 

 さて。なぜこのタイトルを思ったかというと。

 高校生のとき、本屋で本を見ていた。本棚に整然と並べられた本を見て、突然気持ち悪さを感じたことがある。作者の「あ〜ん」までの五十音に沿って本が綺麗に並べられている。小川洋子を探そうとすれば「お」を、角田光代を探そうとすれば「か」の行を探す。その“現象”が自分にとってはあまりにも奇妙だった。だっておかしいじゃないか。なぜ、ここに本が綺麗に作者の五十音順で並べられているのか。理解ができなかった。

 

 その感覚をより噛み砕いていくと、「なぜここに本が綺麗に作者の五十音順で並べられているのか」はもちろん理解できる。「誰かが本を並べた」からだ。では、なぜ本を誰かが並べたのか?それは「誰かが誰かに本を並べるように頼まれた」からだ。では、なぜ本を並べるように頼む必要があったのか?それは「本屋」だからだ。では、なぜ「本屋」なのか?などなど……。

 その“現象の連続”が高校生の自分にとってはとても奇妙に感じた。誰ひとりとして、その現象のピースを崩さずに、つなぎ合わせてきたからこそ、ここに本が並んでいる。誤解を恐れずに言えば、その“本が並んでいる”という状況が「奇跡だ」と思えたのだ。

 

 当時カウンセラーと話す機会があり、そんな話をすると、即座に「それは存在論だね」と返答をもらえた。存在論とは平易に言えば、物事が存在する理由を問うものである。「なぜ、そこに在るのか?」それは人が生きる意味でもあるが、物事がそこに在ることでもそう考えることができる。

 話は一瞬逸れるが、自分が言葉にできなかったこの現象が、ひとつの考え方として認められたときに、自分の存在が認められた気がした。人間が意味を求めることは、人間のエゴでもあるだろう。そして哲学はもしかしたらその頂点かもしれない。しかし、得体のしれない状態を放置できるほど、我々は考えない葦ではないのだ。

 

 やがて時は経ち2021年年末。(いま気づいたけどこの話面白くなかったです)

 世間はコロナ禍でリモートで働いている人々も少なくないだろう。私もその一人であり、zoomやGoogle meet、或いはteamsといったツールを使いながら壁紙を設定している時にふと不思議に思ったのだ。「これはまた奇跡の連続だったな」と。

 

 オンラインミーティングの技術がなかったらリモートワークは実現できていなかったかもしれない。壁紙が設定できなかったらプライベートが暴かれていたかもしれない。しかし一方でオンラインミーティングが主流になってしまったからこそ、物理的な距離感が良くも悪くも発生し、その弊害によって“失われたなにか”もあったかもしれない。

 

 しかし私たちはその“失われたなにか”については「奇跡」を論じ得ない。なぜなら不確定要素であるからだ。だから私たちは、“いま、ここに在る”という事象においてのみ“奇跡”を讃えるのだ。

 

 なんて、オチをつけてみたはものの。もうちょっと楽しい話をするべきだったか。

 「無い」というのは「在る」があってはじめて認知される。そういえば、そんな話も当時高校生の時に読んだ。それも小説で。保坂和志さんによる『カンバセイション・ピース』というやつです。ちょっと厚めの本ですが、日常の会話が延々と続く本です。Amazonのレビューで「自分の感覚がずっと遠くまで伸びていくような気がする。」というのがあったけど、言い得て妙だな。ていうかいい表現だな、これ。

 まあ、最近書いているブログよりは多少暗い要素は減ったかな。年末までにもう少し明るい話題を書きたいな、なんて思います。ではまた。(久々に勢いで書きました!!)