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生物と無生物のあいだ、の話ではない話×超雑記シリーズその6@20130314

以下に書き記すことは、このブログ史上もっとも幼く、不明瞭なチラ裏になるであろう。

福岡ハカセ(福岡伸一)さんの本を読んで、パッと思ったこと、受け入れられた思想、考え方をざざっと、思うがままに書き散らす。
知識を飲み込んだわけではないので、正しいことが書いてあるわけではありません。
僕のまったく私的な頭の中です。

地球上にある質量は、ずっと一定である。不変である。
そういう事実がある。
(語弊はあるが)僕が死んで灰になって、それがバナナになって、サルが食って、糞をして、ミジンコになって。と。
つまり、質量は一定なので、僕が死んだからって、僕という存在そのものが、認識されなくなるのであって、分子としては存在しているということだ。

例えば、地球上にあるゴミをすべてブラックホールに放り込んだらどうなるか、と。
そうすると地球の質量は減る。減る?
まあ、仮になんらかの方法で、地球の質量を減らすと、地球は故障するらしい。

人間の話をすると、人間は細胞が死んでは取り込むという繰り返しを常にしている。
常に新しい自分を産みだしているのだ。
昨日の僕と今日の僕は違う。

その細胞のもっと下のレベル、ミクロのレベルで、分子も入れ代わっているらしい。
超高速で僕らの分子は入れ代わっている。
分子は、生物、無生物は関係ない。当たり前だけど。
このパソコンも、マグカップも、グラスも、ギターも、部屋の壁も、分子はすべて一緒だ。

それは地球も一緒である。

その分子が常に入れ代わり、モデルチェンジすることで、その形を保っている。

地球に存在する質量が減ってしまったら、僕らを構成する質量も、ソース(材料)も減ってしまう、ということだ。
つまり、地球を動かしている、人類を動かしている、もっと巨大ななにか、とにかく、この地球上のシステムすべてを動かしている歯車のひとつが、欠けてしまう、そういうことなのだ。そうなのかな?

そう考えると、僕も、マグカップも、加湿器も、本棚も、折り畳み自転車も、ドラムスティックも、同じなのだな、と腑に落ちた。

生きる意味であるとか、なんであるとか考えるけれど、それは僕らが人間として、たまたま考える力を持って生まれてきただけであって。

単純に僕らは地球という巨大なシステムに、人間というラベルを貼って組み込まれた歯車であって、常に高速回転を続けている。
その高速回転の中で、自分自身の役割に意味を見出そうとしているだけなのだ。
存在価値としては、まあ、価値なんてものを決めるのも人間だけなんだけど、生きる意味というのは、地球というシステムにはきっと組み込まれていない。

人類という計画もない。
マスタープランなんて存在しない。
人類の壮大な計画も、地球という船における壮大な計画も、存在しない。

神様とかそういうものを一切抜きにして、目に見える、理論だけを根拠に考えるのであれば、そういうことなんだなーと本を読んで思った。

ちなみに。
鈴木ちなみが好き、という話ではなく。
記憶についての余談。

それだけ高速で分子が入れ替わっているのであれば、僕らの記憶ってどこに貯蓄されているの?と。
分かり易く説明すれば、分子そのものにデータが書き込まれているのなら、高速で入れ代わっているので意味がない。
しかし、絵画のように、パズルのように、ひとつの記憶があって、そのピースひとつひとつが、同じ場所に高速で入れ代わっているのであれば、絵柄そのもの、配置そのものさえ間違わなければ、その絵画、記憶は保たれる。
記憶っていうのはこういうこと?

そこで思ったのが、記憶を忘れたりする行為、というのは、その際に、パズルピースを配置する場所を間違えたのだな、と。
配置場所が間違ってしまったことによって、絵画が完成しない、欠けてしまう、だから、記憶が呼び戻せない。

―そう考えると、間違ったピースはどこにいってしまったのだろう?

という疑問と。

―もしかして、思い出せない記憶は、いくつかのピースがかけてしまっているだけで、そこを補修することのできる技術、ハックがあれば、記憶を呼び戻せるのでは?ふとした時に思い出すのはそういう作用?

とか考えたりもした。

以上、ざっと本を読み終えて書いた拙く幼い散文。
*1

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

*1:ここに書いてあることは正しくないことがあります