今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

遺書みたいなもんが書きたくて〜その7/例えば、追憶の向こう側で、厭きれる程の短編が綴られたなら

 例えば、追憶の向こう側で君が手を振っている。コントラストが曖昧な、その所為で距離も不均衡な、砂漠に放り出されたかのように立ち尽くして蜃気楼を眺めている気分だ。声がする。叫び声でなく、記憶が鳴る。パズルのピースのひとつひとつは、幻想ではなく事実だ。その完成図が、心許無く神経を逆撫でる。いっそ先端に火を点け閃光となって、大事な一瞬だけを照らしてくれたらいいのに。何故にこうも悪戯に、そして不用意に、現われる映像。乱れた感情をままに、目の前にある物すべてを打ち壊した。
 永遠という言葉が確かなのであれば、その苛立ちはすべて永遠という概念に向き、それ以外についての思慮はすべて邪念に過ぎないであろう。つまりは、永遠という言葉が信頼に値するのであれば、そのほとんどが価値をなくし、思考の必要もなくなる。無論、感情の起伏も、である。
 だが実際には、この生涯とは一瞬の積み重ねである。無数のシーンが、捉えきれない速度で描写される。そのカメラでおさえられるのは、儚さだけだ。その儚さが故に、そのほとんどが価値を付けた。
 蟀谷に銃口をつきつける。走馬灯は用意されていない。およそ2分ほどで世界はインストールされるような情報量だ。悔恨の余地も残されていない。さあ、いますぐ引き金をひいて撃ち殺すまでだ。そのほとんどが、種類は違えど、こうやって死んできた。命を賭したはずの未来も、懺悔の時間でしかなかった。推測するに光年の罪が、未だ生物の業として360度纏わりついているのだろう。仮にそのすべてを把握する全知全能の神であれたら。その場合、存在すら信じ難い矛盾を強いることになる。有り得ない。
 時を通り越して、まるでそれはハードルを乗り越えるように、駆け抜ける日々に摩擦が生じる。僕らは、それらを意識せずとも、例えば風に雨が纏えば、温度を感じ、雹であれば痛みを感じる。見えないが故に、疎かにしているだけの事象は、あらゆる場面で僕らを取り巻いて、その感情に影響しながら、関わり合いながら世界を成している。形成している。その敬意をしめして、いま、僕は引き金を引いた。他でもない、僕を殺める為に。