今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

クリスマスソング

 クリスマスソングが街中に溢れ出す季節。この習慣は、いつまで続くのだろう。知らぬ間に根付いた文化は、そこかしこにあらわれ、このチェーン店のカフェも例外ではない。新宿の人混みを窓越しに眺めながら、コーヒーを飲む。騒がしい休日の会話と、BGMで流れるクリスマスソング。そこまで装飾の派手ではない、シンプルなアレンジの楽曲は、益々派手になってゆくクリスマスツリーとは対称に、幸せとは何かを、その輪郭をはっきりとさせた。想像を巡らせる。この歌を、演奏していたであろう、そのスタジオを。そして、この歌が、必要とされていた時代を。おそらく、この歌は、そこにある幸せの為に、歌われていたのだと考えた。世界中を幸せにするためではなく、目の前の人を幸せにするためではなく、そこにある“空気”に幸せというエッセンスを振りかけるための、いわば魔法であったのだ。種をこえるための歌でも、国境をこえるための歌でも、万が一にも貧しさからうまれた発想でもない。ただただ、当たり前にそこにあるものを、のんきに、いたずらに、そしてわがままに、気の向くままに演奏することで、小さな町の、どこか小さな演奏会の、幸せをつくり上げていたのだ。それが、自由に、各所で、ある時代までは行われていた。遠くの町で、また別のなにかが歌われている、そんな事実すら、知る由もなかった。
 僕らは、知りすぎた。仕事帰りにクリスマスケーキを君の家まで持っていくだけでは物足りなくなってしまった。その1行がものすごくつまらないものに変化してしまった。味気ない、夢と化してしまった。暗闇に灯る何本かの蝋燭を吹き消す瞬間が、心に残らない。それは、もう見飽きた風景だ。なにがよくて、なにがわるいのか。常に人は求め続ける。効率化という意味ではなく、最善の幸福を人々は求めている。人それぞれの価値観が尊重されているように見えて、僕らは統合に向かっている。よりよいもの、よりベストなもの、それらがつくりあげられる瞬間に僕らは向かっている。非の打ち所がない最新で最高の解答が、必ずあることを知ってしまった。そこに、着実に時代が流れていくことを、知らなくてはいけない。
 ひとつになる必要なんてどこにもないのに、それらを人々は気にかけない。自分に固執せず、自分の個性を尊重しているという錯覚に陥り、やがては時代が、その人を犯す。
 あるとき、世界のどこかで起きている紛争が語られる。テレビの向こう側でも、ネットの向こう側でも構わない。人類が犠牲になっている。罪のない人が、悲しみに打ちひしがれている。その計り知れない悲しみを、僕は知れない。そんな想像を巡らせながら、新幹線の車窓から見える街並みを見ている。夜が落ちた日本では、民家に明かりがつきはじめている。営みが繰り返されている。何千年と続いてきた、生命の螺旋階段を、僕らは今日ものぼっている。たぶん、誰も、遠い国で、悲しんでいる人のことなんて知れないのだ。ましてや、隣の家で起こったとしても、おそらくわからない。隣の席では母親と、幼稚園ぐらいの娘と息子が三人掛けで座っている。無邪気なその姿は、本当になんでもない姿だ。本当になんでもない。
 また明日がはじまる。その繰り返しに、善も悪もない。いや、善も悪もあるのだけれど、それを問う力が僕らにはない。僕らはただ、僕らを守ることに徹するべきなのだ。統合から、できるだけ免れて、僕らだけの、その場の幸せについて、そう、それは、いつかの時代のクリスマスソングのような、そんな幸せをつくりあげる技術をつくりあげるべきなのだ。サンタクロースを信じる必要もない、クリスマスソングを、僕らはいつか奏でたい。