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うめざわしゅん作品集成 パンティストッキングのような空の下/うめざわしゅん[感想][レビュー][ネタバレ]とゲスの極み乙女。

 熱量に身を任せたまま書きます。

 だいたい週末は意味もなく書店をウロウロして、目についた書籍をパラパラとめくる習慣がついているんだけど、漫画コーナーでこの「パンティストッキングのような空の下」を見つけた。平積みされている漫画の中で、これだけ残り1冊だった。珍しいなと思って手に取った。そのままレジへ。
 実は、この漫画、なにかの雑誌で特集されていたのを見ていて、なんとなく頭に残っていた。後書きか何かにも書かれているけれど、15年ずっと日の目を浴びずにここまで来て、どっかの編集者が注目したんだね。太田出版は、そういうところ偉いよね(どこから目線?)。帯でも作家の高橋源一郎氏が……「こうやって、本当に素晴らしい作品が、ちゃんと評価されるのであれば、まだまだ世の中捨てたもんじゃないと思った」って書かれてて…確か雑誌の特集でも似たような煽りがあった気がして、ちょいと気になってた。その時もそのまま漫画コーナー行ったんだけど、その時はなくて。縁がなかったかなー、とか思ってた。

 「うめざわしゅん作品集成 パンティストッキングのような空の下」は、漫画家うめざわしゅんによる短編集である。ほぼすべてのストーリーに「性」が絡んでいる。っぽく言えば「性による生の表現」とか語れるんだろうけど、村上春樹あんまり得意じゃないので、割愛。
 正直な所、短編を読み進めていくにつれて「帯でいうほど衝撃なのかなあ……?」って感じはしていた。なんか中学生の時に友達の家でゴロゴロしながら、積んである漫画を適当に読んでいって、たまたまこの本を手に取った夕暮れが刹那的に感じるだろうなぐらいの感想でした。
 ただねえ、最後のねえ、「唯一者たち」がねえ、すごくよかった。

パンティストッキングのような空の下

パンティストッキングのような空の下

 社会人になると、新しい友人が少なくなる人は少なくないと思う(頭痛が痛いなー)。出会いはあるけど、無邪気じゃない。思考回路の中にある経験が邪魔をして、人とのコミュニケーションが打算的になっていく。友人には違いないけど、中学生の時の適当なソレとは違うのを感じる。安っぽい青春は、もうない。
 ところが、この年末年始で旧い友人とか、しばらく会ってなかった人とかに会うと、大抵はくだらない昔話。まあ、だって会うの久しぶりだし、お互いの過去から現状までを話すのが当然といえば当然だよね。でも、いつ会ってもそう。会話のレベルが、中学生の時からたいして進化していない。みんなちょっと賢くなっただけ。気の利いた一言がいえるようになっただけ。芸を身に着けただけ。
 そんな時思うわけですよ。「あー青春がループしてんなー」って。「ズッコケ三人組」の大人版があったと思うけど、なんかそんな感じなんだよね。ドラえもんに出てくる、大人になったのび太たちでもいいや。見かけで変わってしまって、中身はさして変わってない。けど、集まって、繰り返す。あの時の青春繰り返している。
 なんかそれって、“過ぎていくこと”に対する痛みに耐えるための、ちょっとした療法なのかな?って。

 社会人になるとき思った。「あとは、死ぬだけなんだな」って。平凡な人生は手に入れるのが難しいっていうけど、そこそこ頑張ってれば、そこそこに幸せな人生は送れるのでは?って思う。
 だから、ここでいま、もう一度青春を繰り返すことは、その緩やかに死へ向かう過程を、受け入れるための、抗不安剤みたいなもんかなーと。用法容量を守って、割と少なめのね。そんなに強い効果もないけど、副作用も少ないっていう。

 で、「唯一者たち」。

 あるトラウマを抱えたフリーター男と、ある日突然あらわれた(物語として都合がよすぎな)同級生の女性が主な登場人物。なにもかもを卑屈になって考える主人公の凝り固まった思考を、同級生の女性は緩やかに解していく。
 その主人公はロリコン癖があって過去に小さい女の子を傷つけて傷害容疑で捕まったことがあった。そこに罪悪感を抱いていて、なにかにつけて思い出し、蘇り罪に苦しむ。漫画のなかでも書かれているけれど、罪悪感ってのは、ある意味では生き甲斐みたいになってしまって本質に気付けない都合のいい感情だったりする。自分がそこから抜け出られない一種の言い訳みたいなね。一方でヒロイン(現実にはヒロインでもないけど)は人生順調。「なぜ、この主人公に構う?」ってぐらいに充実した人生を送っていて、ある事件が起こった後、主人公のトラウマの症状は悪化して、「だったら、傷つけたその子に会ってみたら?」と提案する。被害者に加害者が望まれてもいないのに一方的に会いに行くなんて、とんでもない提案であるが、ストーリー自体が結構メッセージ性重視なので仕方がない。
 被害者の女性に会ったとき、主人公は“取り返しのつかない罪を犯していた”ことをあらためて認識すると同時に、“これだけ人を苦しめておいて、じぶんはじぶんの苦しみしか苦しめない”ことを実感し、悔しがる。結局、主人公が感じている苦しみは、罪悪感とか体のいい言葉で飾り立てているけれど、その被害者の苦しみでもなんでもなく、自分自身の苦しみなんだよね。
 “苦しみを分け合う”とかいう言葉があるけれど、それは信頼しあっている間柄での話。それも“分け合っている”のではなく“信頼により軽減しあっている”が正しい表現だと思うしね。
 この先、解釈が人それぞれ違う可能性があるんだけど、それで主人公は「(こんなクソみたいな自分は結局自分の苦しみしか苦しめない。それなのに)なんで俺は生まれてきたのか…」と呟く。

 まあ、なんていうか自分自身が“最低な人間だ”って思いこんでいたからこそ、主人公は、なにもかも卑屈に考えていた。前半でヒロインに会って、気力を取り戻していたのは、おそらく「こんな自分でも生きていい」という自信からだったと思う。けれど、ある事件をきっかけに「“こんな自分”はいつでも破綻する」という恐怖にかられる。「じゃあ、“こんな自分”がいまどんな立ち位置にいるか確認してみたら?それから生きるか死ぬか決めようよ」っていうのが、ヒロインの提案する被害者に会うという行為。そのあとで、「“こんな自分”とか言っているけど、それって誰でも同じじゃね?だって人間、自分のことしか自分って言えないし、感じられないし、考えられないし」って気づく。

 充実した生活を送っているヒロインがね、言うわけですよ。

 私は生きてるのがすごく楽しい。冬は寒いけど たくさん服を選んで着れるし 近くにできたケーキ屋さんは大当たりだし もうすぐハンターハンターは連載再開するし……(中略)とにかく! 私の人生超すばらしいよ!

 でも…

 生まれてこないで済んだなら それが一番良かったな

 誰だってそうじゃない? みんな自分だけが自分なんだから

 (うめざわしゅん作品集成 パンティストッキングのような空の下 / うめざわしゅん)

 彼女(ヒロイン)はすごく、俯瞰的に人生をとらえているのだな、ととれる一節。そのあと、雑踏の中をひとりで歩く主人公は、感じるわけですね、いろいろな人たち、それぞれの人生を。だけど、誰一人として、“自分ではない”人はいないと。寄生獣にも、「別の人の視点から世界を見たら、全く違う世界が見えるかもしれない」という一節がありましたが、あれは想像力の話だったように個人的に思っていて。この「唯一者たち」はもっと内向きで“それぞれが孤独として孤立して在る”っていう。うめざわしゅん氏の作風全体も、たしかに「つながり」みたいな意識は非常に薄くて、“個(孤独)”の話が強かったように思う。
 「生まれてこないで済んだなら――」ってのはなかなか極論だとも思うけど、ようはいつまで経っても自分は自分でしかなくて、いまある以上のなにかは起こらない。想像の域をこえない、ということなんだよな。だから、彼女(ヒロイン)は、「私の人生超素晴らしいよ!」って言うのだと思う。

 たまに「幸せになるために生きている」という人がいるけれど、それなら「いま幸せな時に死んだらいいんじゃない?」って思う。だって、そこで目標達成されているわけだから。でも、「幸せをもっと味わっていたいから」という。裏を返せば、「死ぬ」という行為は自然に起こってこそ美しいのであって、自ら選択すべきじゃないのよね。自分で言っておいてなんだけど。だから、彼女(ヒロイン)は俯瞰的に人生を捉えられていて、幸せはそれぞれの考え方次第で得ることができる、形のない概念であり、気持ちの問題でもあり、かといってそれ以上はない、永遠の孤独を全うするだけであることを感じているんじゃないかなと思う。

 ゲスの極み乙女。に「私以外私じゃないの」という歌があるわけですけど。思いの外、この漫画とシンクロしていて、おもしろい。

 私以外私じゃないの/当たり前だけどね/だから報われない気持ちも整理して生きていたいの/普通でしょう?(私以外私じゃないの/ゲスの極み乙女。

 この歌、最後は自分以外自分でないのは、どうやら誰もが同じである、ということに気づき、それならもう怖くないと答えを出す。おそらく、「唯一者たち」の主人公もクライマックスで、そのことに気づいたんだと思う。
 前半では「自分を認めてもよい」という考え方から自信を持てたけど、後半では「(認めるも何も)自分は自分以外にない」という考え方。
 
 うめざわしゅん氏の作品に「わかったふりをしている漫画」という批判があったんだけど、わからなくもない。このあたりの、「自分は自分でしかない。それ以外の何者でもない」っていう感覚は思春期と同時ぐらいに芽生えるものだと思うから。でも、人生進んでいくと、やっぱりそういう瞬間が何度かあって、個人的な気持ちだと、ここ最近は「せめて誰かのために生きることが、生まれてきたことへの償いなのかな」と思ったりする。償いって言葉はちょっと違うかな?!

 それでまた、ゲスの極み乙女。の話に戻るんだけど、タイムリーにも話題になっている。ベッキーが涙の謝罪会見をしている。
 この漫画で悩ましい人生を送っている彼らは、たぶん僕が前置きしたように「ゆるやかに死に向かう」感覚で生きている。ちょろっと書いたけど、場合によっては、副作用も少ないけど、効果も大きくない、容量少なめの抗不安剤を摂取しながら。
 僕が、ゲスの極み乙女。に限らず、ああいう人たちをうらやましいなと偶に思うのは、その加速度だ。シェイクスピアはかつて「時というものは、それぞれの人によって、それぞれの速さで流れる」と云った(気がする)。
 本来なら平等であるはずの時間。けど、おそらく彼らと僕とでは、時の流れの加速度は全く違うものだろうな、と思っている。たぶん、それは大きく言えば努力の違いで、羨むだけでなくお前が頑張れよって話なんだけど、メディアがいくら、大衆がいくら「不倫」と騒ぎ立てたところで、大衆の持っている「時の流れ」の速さと、彼らの持っている「時の流れ」の速さは全く違う。
 その速度が違うということは、もう僕らが騒ぎ立てている間に、おそらく彼らはあっという間に先に行ってしまう可能性のが高いんだよね。(止まってしまう人たちもいるだろうけど)。だってそれだけの努力をしていきて、才能を持っているのだから。たかだか人生のワンシーンでしかないわけ、いまのその瞬間なんて。ものすごい速さで彼らは人生を進んでいる。最終的な距離を見据えたら、いったいどれだけの長さなの?このスキャンダルって?って話なんだ。
 僕らは、たいした距離も進めないかもしれない。すなわちこの瞬間、瞬間が、ある意味ではもっともっと大事になってくる。
 だから、って言い方は義務的で好きじゃないけど、でもだからこそ、「唯一者たち」のヒロインのように「人生素晴らしい」って思えるような瞬間を積み重ねていかなきゃって思う。思ってほしい。

 青春ループさせるのが、はたして、いいのかわるいのか、ちょっとまだ分りかねるけど、でもきっと、このスピードに対する痛みを和らげているだけなのだろうな。甘んじちゃいけない。甘んじずに、もっと精進していかないと、と思う。

 んー。話脱線しすぎたかな。ここ最近思っていることを書きすぎてしまった。
 なんか、最後独白みたいになってるし。
 ブログだからいいけど。けど、オードリーの若林がブログに独白を書くべきでない、と過去の中二病ブログを閉鎖した理由で言っていた。

 とにかく、「パンティストッキングのような空の下」、とても素敵な作品でした。
 いつの世も、素敵な作品には、素敵な女性がでてくるものね。

 インタビューもあるので、一読どうぞ。
『うめざわしゅん作品集成 パンティストッキングのような空の下』特設サイト - 太田出版

一匹と九十九匹と(1) (ビッグコミックス)

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