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今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

生きてることが辛いならいっそ小さく死ねばいいと森山直太朗は歌うけど、小さく死ぬ方法がわからない〜死生観について〜×超雑記シリーズその7@20140323

自分の中の死生観を書き留めておきたかったから。
というより書くことがなかったから。
ひさびさにチラ裏的記事を書き残そうと思う(そもそもここ僕のブログなんだけど)。

まあ、死生観に伴う死について思い悩んでいる人がいて、たまたまここに辿り付いたら面倒くさいけど読んでみて欲しいな、って。
なにか物理的な苦しい出来事があって、打ちひしがれているのであれば、この記事はまったく意味を成さないと思う。
あくまで自己の精神面における悩み。

死生観を持つことはとても大事なことだと思う。
それは生きていくということにおいて、生きていく指針を確かめるものになると思う。
だから、目を背けたくなるような、ほぼ必然的な死の事実を僕らは見つめるべきだと思う。

まず、死というものを前にした時、人はたいてい「人生の意味」を考えると思う。
それは例えば「幸せに生きる事」であったり「なにかを成し遂げる事」「小さな平和を作ること」とかいろいろあると思う。
例えそれを後世に残し続けることが出来たとして、それは意味があることだろうか?

意味そのものを考えるのも、価値をつけるのも、その概念そのものは人間が産んだことだ。
たまに考えるタイムマシンができたら、って。
未来に行けるようになった人間は、ありとあらゆる技術を過去へ持ってきて、すべての過去が、最新の未来へと移り変わる。
つまり、人類の進化の終焉だ。
そのイメージを持ったまま考えると、人間、人類としての最終目的ってなに?ってことになる。

生き残り続ける事、それはすなわち永遠を指すのかもしれないが、永遠とはなんだろう?

僕は、そう考えた時、この世界のすべてが「偶然の産物」であると思うようになった。
簡単に言うと「必然」というのは“意味”をもってしてある概念であるからして、この世の中のすべてを「偶然」と思う外ないのよね。
だってそうしないと、それは意味のあることになってしまうから。

けど、意味というイメージは人間が生み出したもの。
あれもこれもどれも偶然の産物。偶然にしちゃ出来すぎって思うかもしれないけれど、「たまたま」の積み重ね、いわばみんなの大好きな奇跡の結果がいまの世の中なんです。
必ずそこにあるべきして起きたことなんてないし、言い換えれば確率的に非常に高いものとして生まれただけ。

裏を返せば「この事象は、偶然ではない」という物事が存在した時、はじめて「意味のあるもの」が誕生して、もしかしたらこの世界はなにか意味があって動いているのかも?ってなる。

けど、それはそれで面倒くさくて、意味のあるものやことがあるとすると、「特別な存在」というのが認められることになって、その特別っていったいなんなのよ〜ってなるわけ。
銀河の彼方に神様でもいて、「あいつは特別だから、あいつだけに意味を与えよう」なんて決めてでもない限り、そういった概念は基本的に産まれることはないはず。

神様がいると信じるならまだしも、基本的にはいなそうな雰囲気が漂っているこの世の中で、意味を求めてしまうのは、とてもつらい。
だから、「人生の意味」というのは僕らのイメージする中にはあるけれど、基本的にはほぼすべてが無価値の事象として動いていると受け止める他ないのね。

かつてニーチェの説いた「運命愛」みたいなもの。

まあ、補足しておくと上記の考え方を貫くなら「死が必然である」ということもないわけ。
たまたまみんな偶然、寿命というものがあって死んでいるだけ。
だって、「無」という概念は「有」があることで存在しているけど、「生」という概念は「死」がなくても成り立つよね?
もしかしたら「生」という概念の対偶にあるものは「永遠」であったのかもしれないのだから。

こういう事実を受け止めすぎると、人は死にたいという感情を抱いてしまうのではないかな?と思う。
特に毎日毎日同じことのローテーションだと。
そこに夢とか、愛とか、希望とか、そういうマヤカシ(悪い意味ではいってない)、幸せの麻酔みたいなものあると、人は、脳は勘違いをして生きていけるけど、誰もが誰も、その麻酔が長く効くとは限らない。

「ああ、自分のやっていることなんて、結局なんの意味のない事なのだ、死のう」と。
毎日毎日苦しい思いをして、金を稼いで、このローテーションになんの意味があるのかと。
突き詰めれば突き詰める程、自分の首を絞めることにつながっていってしまう。

かといって、幸せな毎日を送っていても、そんな毎日に疑問を感じる人もいるでしょう。
お金もある、恋人もいる、話せる友達もいる、けれどみんな楽しそうにしている、死を忘れている。
それはもちろん、死について四六時中考えていたら、まともに生活が送れないから。
けれど、ふと気付いた時に虚無を感じる。
この幸せははたして意味のあることなのか?と。

そんな思いを恋人に打ち明けようものなら、きっと恋人は「私といて幸せじゃないの?」と言うのかもしれない。
そうだなあ、死を忘れる為の快楽をもう少し続けよう、と誤魔化すしかないかもしれない。
でも、死生観を持った人は、向き合いすぎてしまった時には、やっぱり「死にたい」という思いがナチュラルに浮かび上がってきてしまうかもしれない。

その「死にたい」を解決するものがなんなのか分からない。
でも、親身になって「大丈夫?」と支えてくれる優しさが解決するものでもないことも知っている。
そんなんならとっくに解決に向かって歩き出せるからね。

ホリエモンじゃないけれど、世の中は残念ながら、かねがね「想像できる範囲内」で起きてしまっている。
想像の範囲外は認識ができないからね。起きているかもしれないけれど、僕らは認識できていない。
認識できるということは、想像できる範囲、理解の範囲にそれがあるということ。

目に見えるものだけを頼りに生きるしかない。

話がちょっと逸れちゃった。そもそもなにが言いたいのかもよくわからなくなってきた。

つまり無責任なこと言うと死生観に伴ってあらわれる「死にたい」という感情はごく自然なものだと思う。
それは受け止めきれない事実に、心が動揺してしまっているその証拠だと思うし。
認めてあげたらいいんだと思う。もちろん、死んでしまっては、それこそなんの報いにもならないけど。そんなこと考える余裕もないものね。

けど、「死にたい」と口にして、それが「いけないこと」であると言われても困ってしまうよね。
この世で生きる死というテーマに逃れられない概念が立ちはだかるのだから、たまには足がすくんでしまうよ。生きていくことが辛くなってしまうこともある。
だから、小さく死ねばいいって誰かが歌うけど、小さく死ぬ方法が分からない。

でも、そういう気持ち。死にたい気持ち。

なにもおかしなことじゃない。
夢や希望やまやかしが少なくなったこの世界で、考えることの唯一できる人間が見つけてしまった問いなのだから。
それがさ、鬱だとかなんだとかさ、なんでもかんでも病名をつけたりしちゃってさ、辛いよな。

本当は、死について分かち合える人がいたらよかったのに、それだけなのにね。

けど、答えのないことにも、きっと答えがあると信じて。
何度も何度も考えてきたその問いを、きっと誰にも理解されないと思うその日も、この世界中のどこかに、同じような悩みを抱えている人がいると信じて、
もうちょいだけ生きてみたらいいと思うんだ。

島にでも行って、ゆっくり暮らそうよ。

きれいにまとめちゃったけど、そのうちまた書いたり、書き足したりするね。
これが僕の思う死生観。

メメント・モリ

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