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魔法使いの弟子

 極限の恋愛とは

 先日、新海誠監督の『天気の子』が地上波で放映されていた。『君の名は。』は映画館で観たのだが、『天気の子』は観ていなかったので2021年1月3日の夜が初見だった。『天気の子』について、新海誠はインタビューで以下のように語っている。

僕は、『天気の子』は「帆高と社会の対立の話」、つまり「個人の願いと最大多数の幸福がぶつかってしまう話」だと思っているので、今作の中では「社会」は描いているんですよね。(“KAI-YOU.net”より引用)新海誠『天気の子』インタビュー後編 ”運命”への価値観「どこかに別の自分がいるような」 - KAI-YOU.net

  ここでいう“個人の願い”とは、主人公がヒロインに対する願いであり、最大多数の幸福とは、“主人公と彼女以外”が幸せに暮らす社会である。この『天気の子』は解釈によっては、主人公がヒロインを一途に思う純愛ストーリーであり、広く捉えれば「世界を天秤にかけるほどに盲目になってでも得る価値のあるものが愛である」とも物語の登場人物たちは訴えかけているようにもとれる。

 

 前回の日記で、書いたはものの、「稚拙な考えだな」と思って書き捨てた文章があった(メモにして書き残していた気もするが探しても見つからないので文字とおり捨ててしまったようだ)。それは現世における人間は満足した状態がデフォルトになってしまっているのではないか、ということだった。

 いま書いてもだいぶ頓珍漢な仮説なのだけれど、人間は日々生きていく中で一定の水準を満たしてしまうと“それ以上”を求めなくなってしまうのではないか、と最近ふと思って、人はいつまでも不満を探してしまう生き物であるとはわかりつつも、その一方で日々人と接していると“現状維持”を求める人は少なくないなあ、とも思っていた。

 コロナ禍における感情の麻痺と関連して、コロナ前であっても現代の人は感情の麻痺を起こしていたのではないか、というもので、誤解を恐れずに云えばそれは「いかに現状を幸福と見做すか」ということに人間はフォーカスしすぎているんじゃないかな、ということでもある。

 勿論、そのこと事態が悪いことではないとも思うし、人は常に思考をアップデートしているわけだからこそ稚拙だなと省みて書き捨てたわけだけれども、やはり“どういう状態で自分が満足するか”という満足の幅を調整できてしまうと、望むことや求めること、という状態も失っていくんじゃないだろうか、と考えていた。

 

 『天気の子』における主人公は、彼の世界における幸福の割合はほぼヒロインが占め、彼を幸福にするためのヒロインに向けて彼の行動のすべてが行われていた。彼にとって彼が生きる社会は彼とは無関係であり、彼女のみが彼であったのだ。(わかりにくい気もするがあえてそのように例える)

 それはどういう状態であれば自分が満足するかなどという俗世における常識とはかけ離れた思考で、彼は彼女のみを望んだ。

魔法使いの弟子

魔法使いの弟子

 
 人間の実存とは

 20世紀フランスの思想家ジョルジュ・バタイユによって第二次世界大戦の直前に雑誌「新フランス評論」にて発表された論文『魔法使いの弟子』は、そんな二人の世界について描かれた<恋愛論>である。酒井健により拙訳された冊子の帯には、以下のような言葉が内容より引用されている。

《その顔が見えなくなると心が苦しくなる》

そんな顔がこの世界を輝かしく変容させる…

魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ

 この本の書き出しは人間の欲求について問いかけることからはじまる。ジョルジュ・バタイユが生きる1900年代のフランス社会を「人間の生全般が衰退している」と提示しており、学問、政治、芸術、そのどれもが文化として独立して存在し、交わることなく、求められることなく、人間が生活しているという。それをバタイユは《人間でありたいという欲求を恐怖のために失ってしまった人間》と喩えており、「人間の活動の大部分は、有益な物品を生産する活動に隷属しており、この事態に決定的な変化は望めないように思う。(魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ)」と述べている。

 

 アランの幸福論を読んだときにも感じたことなのだけれども、「これだけ時代が変わっても、人間の状態は変わらないのか」ということである。

 この文章(「人間の活動の大部分は〜」)を読んだ時に、私自身が書き捨てた文章を思い出し、勝手ながらにとても共感してしまった。現代においても人は、人間であることを忘れて、その生活の中で違和感を持たずに暮らしていくことに従事しているように感じる。本来の人間が“求める”ということがどういうことなのかは哲学として存在するが、それを差し引いても人間は人間であるという欲求を失いかけてしまっているのではないか、とも思った。もしも100年前と今とで違いがあるとすれば、もしかしたら人間はとても賢くなりすぎてしまっているのかもしれない、ともふと感じた。

 

 バタイユは、そんな人間の状態を肺結核に例えて以下のように記している。(例えた理由がそれかどうかは不明だが、バタイユの恋人は当時肺結核で苦しんでいた)

結核は、苦痛を引き起こさずに気管支をどんどん破壊していくが、まちがいなく、最も悪性の病いだろう。同じことは、目立たないままに、そしてまた意識できると思われることすらないままに、人を滅ぼしていくすべてのことにあてはまる。人間を襲う最大の害悪は、人間の実存を隷属的な器官の状態に貶める害悪だろう。

魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ

 では、“人間の実存”とはいったいなんなのか。バタイユの云う“人間の実存[existence]”とは、『「今、ここで生きている」という生の現実、あるがままの人間の生のあり方を指し、「実存」を損なう近代生活は「人間の運命」に背を向けていること(魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ)』だという。

 話が少々飛躍する気もしないでもないが、バタイユにとって恋愛とは、恋人たちの存在によってつくられる世界とは『隷属的に縮小される以前の人間の生の特徴(魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ)』だと云う。

 

 『天気の子』を前段で引用させてもらった通り、確かに恋愛とは突き詰めれば盲目的な行動であり、それ自体がすべてにも成りうる、その存在自体を貪欲に欲する人間の機能であることには違いない。

 バタイユはそんな恋愛を、恋人たちの真の世界こそ、最初から偶然にすべて支配された状態であり、それを愛することこそ、恋人というミクロな状態から宇宙というマクロな状態までをも愛するという行為に繋がるのだ、すなわちニーチェの唱える運命愛なのだ、と語る。

 

 訳者あとがきで、こんな一文がある。

 「夜を飲み干す窓の広さを信じよう」

 魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ/訳:酒井健

 この一節は、訳者の友人が書いた詩であるという。(朧気な記憶かららしく、正確でない可能性がある)

 恋人たちだけが存在する部屋と、その窓の向こう側にある社会。その対比を書いた一節であるそうだが、ジョルジュ・バタイユもまたその極限について書き記した。バタイユもまた著書『肉的体験』にて「極限は窓なのだ」と述べ、その意味について訳者は「彼にとって大切だったのは、この狭間を可能な限り横滑りしていくことだった(魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ/訳:酒井健)」と推察し、「二つの世界の間の曖昧な境地をスライドし、宇宙との意識的な交わりを果たしていく(魔法使いの弟子/ジョルジュ・バタイユ/訳:酒井健)」とも解釈している。バタイユは、この状態を“交流”というテクストで書いた。

 

 まあ、めちゃくちゃ総合して個人的な解釈に戻すと、「生きる理由」を問いただすとき、その曖昧さに気が狂いそうになるときはあるし、運命愛なんて言葉で包容できるほど柔軟でもないなと考える一方で、そもそも運命愛とはすなわちその状況を受け止めることなのだというミクロな状態まで視点を落としていくと、また視えてくるものがあるかもしれないと思った。

 ただそれ以上に、求めることや、盲目であることは、バタイユの云う「欲求を失った人間は生産する活動に隷属する」こととはまた違った形での“自分自身へ呪いをかけること”に他ならないのではと思ってしまうことも確かで、それは自覚して死に立ち向かうか、無意識に死に抱かれるかということの違いでもないかとも考えてしまった。

 勿論恋愛において、そういった哲学や思想を持つことが、この世の真理に近づいた気がするひとつの手助けであることには世の中に残された文学や音楽からも分かる通りではあるのだが、やはりそれはいくつかの世界の境界を曖昧にスライド<交流>しているに過ぎず、辿り着くためにはより広義な解釈と、あくまでパズルのピースのひとつである、という自覚が必要なのかな、と感じました。

 

 まあ、そうやって考えてしまうことがまた答えが見つけられない、「これこそが答えだ」と決定づけられない袋小路に入ってしまっている理由なんだけれども。。

 

天気の子

天気の子

  • 発売日: 2020/03/04
  • メディア: Prime Video
 

 


映画『天気の子』スペシャル予報

 

 本の表紙はキリンジのスウィートソウルなわけなのだが公式PVがなかった為、天気の子をはる。(Weathering With Youって英題いいよね)