今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

猫がいた暮らし

 未明、一緒に暮らしていた猫が息を引き取った。人間にしてまだ50歳ぐらいの、まだまだこれから先があるはずの猫だった。持病を患い治療を行っていたが経過良好で、しっかり診てくださる獣医さんのもとで安定した日々が過ぎていたはずだった。一昨日、ご飯を食べない様子が発見されてからあっという間だった。昼頃に入院、翌日夜に救急搬送、そのまま治療を続けたが搬送先の獣医によれば詳細な原因不明のまま息を引き取ってしまった。

 

 動物のことを考えるとき、いつも思うことがある。動物と言語でコミュニケーションがとれたらな、と。

 このブログを書き始めたときに、とても拙い文章で書き連ねた記事のひとつに「動物のきもち」がある。

stock-flock.hatenadiary.org

 とても拙い文章ながらに、考え方が10年経っても変わっていなくて、たまに読み返したりする。

 

 猫ははたして一緒に時間を過ごせて幸せだっただろうか。

 猫にとってこの世界はどんな風に見えていただろうか。楽しかっただろうか。

 猫がいちばん嬉しいと思うことを、都度差し出してあげられていただろうか。

 

 そのどれもに、答えはない。

 

 仮にこれが人間であったとしても、もちろん真意を確かめようはない。しかし、ノンバーバルでない言語という、より記号的なコミュニケーションがとれていたら、それは私のエゴかもしれないが、どれだけ救われることがあるだろうと思う。ありがとうを伝えてばかりの状態を、私の脳の中だけですべて起こり完結してしまう寸劇を、君が悪戯にかき乱してくれたらきっともっと楽しいはずだ。そんな風に思っている。

 

 どんなに悲しいことがあっても、苦しいことがあっても、日々は続いていく。隣人の拙いピアノは軽快に響き渡り、下校途中の学生の話し声は窓を通して部屋に反響する。Aが存在する世界から、Aが存在しない世界へ、移り変わっただけなのだ。だけどせめてもの、ひとつひとつが、ひとりひとりが、一匹一匹が、今日も無事であるようにと、どうか無事であるようにと、祈りを重ねて生きている。目の前の猫は無情にも、その祈り届かず旅立ってしまったが、この世界よりももっともっと素晴らしい景色を天国で見れているといいな、と神様に願います。

 

 世の中にはわからないこと、解明されていないこと、確かめようがないことがたくさんある。その未知を楽しめるときもあれば、その未知が故に苦しむこともある。今回はその「わからない」にとても悩まされながら過ごした日々だったな、本人(猫)がいちばん辛かったよね、元気にまた走り回りたかったよね。大丈夫大丈夫と何度も呼びかけて、それでもダメなことがあるんだね。

生きている事。 ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。(斜陽/太宰治)

 またね。