今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

ふがいない僕は空を見た[映画/ネタバレ]/原作・窪美澄、監督・タナダユキ

作品そのものについての主な感想はこちら
ふがいない僕は空を見た/窪美澄[ほんのちょっとネタバレ] - 今日もご無事で。

                                                                                                                                                                                  • -

▼原作が映像化されたことについて
映像化する喜びはあったけれど、原作を読んでいないと把握できない部分が多々あったかな、と思った。
そして個々人の深み、みたいなものがやはり2時間半では再現し切れなかった、というか。
ただ、それぞれの心情を映像のみで、観客に想像させる、決して辛いとか悲しいとか、言葉で説明しないようにしている点はとても好きだった。

物語のオチへの持っていきかたも原作とは違って、僕は映画も原作もどちらも好きだ。
ただ中盤の流れ、それぞれの登場人物たちの心情、背景みたいなものが原作と比べ伝わり切らなかったな、と。
やっぱり原作を読んだ人間からすれば「こことここの話は映像化しておいて、ここの部分を映像化しなかったら前者の部分の意味も大きく変わっちゃうよ!」というのがあった。

小説を読んでいた頃は田岡さんの話が好きだったけれど、映画を観ると、やはり斉藤くんの話もいいもんだな、って思った。

▼本題〜「ふがいない僕は空を見た」の僕なりのもうひとつの見方
わざわざ、もう一度「ふがいない僕は空を見た」について書くなんて、どんだけ執着してんだよ、他に読んだり見たり聴いたりしていないのかよ、という話んだんだけど、この作品については思うところがあった。

というのも、この物語の主人公(男子高校生)は主婦と不倫という関係に陥るが、主人公は主婦からお金を受け取っている。
そして発覚の仕方がビデオを撮られていて、だったり。
読んでいる時は、すんなり流れていったいくつかの描写だが、これ、性別が逆だったらどうだろう?と思った。

男子高校生と主婦でも、もちろんピンと来ないわけではないが、これの性別が逆であったら一気にリアリティが増してしまった。
そして、作者が考えていたのかどうかは定かではないけれど、そう考えるとこの物語が抱える闇や深み、背景の色がグッとましてゾッとした。
僕ら読み手が出来る限り痛みを伴って読まない様に設定されたストーリーであったとしたら。

いま、世の中には冗談抜きでネットリテラシーみたいなものが問われている。
恋人との流出データがビットの海に膨大な量で漂流しているし、膨大な量だからこそ大事にはならないけれど、なにかのきっかけで大事にもなる。
それを面白がって祭る人たちもたくさんいる。

そういう社会の仕組みが、原作でも映画でも表現されていた。

でも過去のしがらみに捕われることなく生き抜いていかなくてはいけない。
そういうメッセージが込められているような気がした(言葉で言うのは簡単だけど、もし自分が同じ立場に陥ったら難しいだろうな)。

過去との対峙、を比喩するシーンが思い返せばいくつもあったな。
そしてそういう瞬間を現実逃避をする為のひとつの行為。

▼最後まで貫き通された“あんず”という偽名と、からっぽの部屋、残されていた合鍵
この映画が終わってエンドロールが流れたとき、ハッとした瞬間があった。
「岡本里美 田畑智子
という部分。

ああ、そうか、最後まであんずは本名を斉藤卓巳に伝えなかったんだな、と。
そう思うとなんだかすごく切なくなって、世界がグッと滲んで向こう側が見えなくなったしまった気がした。
そして、その字幕に、あんずの抱いていた哀しみとか苦しさ、愛おしさみたいなものがちょっとだけ理解できた気もした。

僕が映画化されてもっとも気に入ったシーン、グッときたシーンは、主人公の斉藤卓巳が最後の最後にあんずと出会っていた部屋に戻るシーン。
そこにはなにも残されていなくて、斉藤卓巳とあんずが残した形跡なんてなにひとつ残っていない。残っているとすれば合鍵だけ。
でも、ふたりはどこへ行くでもなく、この部屋でいつも会っていたのだから、もうなにもない。

▼墓場まで持っていくしかない秘密
斉藤卓巳は、一生このままなにも語れずに、語らずに生きていくしかない。
墓場まで持っていくしかない。
クラス中、街中にばら撒かれたって、真実はふたりの中にしかない。

そういう刹那が、「性」と「生」の中でしか二人では表現できなかった。
閉じた世界だから。
でも、そういう閉塞的な愛が、僕がこの作品で最も好きな個所でもあった。

助産
それで、どうして助産院なんだろうな、っていうことをずっと考えている。
単純に、生きている子も、死んでしまった子も、これから生まれる子も、すべてに意味がありますように、というメッセージなのか。
それならなぜ、助産師の息子は主婦と不倫関係に陥ったのか。

そうやって意味を持って、願って産まれてきたはずなのに、なにやってんだろうなーふがいないなー。
そういうモヤモヤした、はっきりとしない感情と、どうしようもない哀しみになにもできないまま通り過ぎてしまった登場人物たちと。
やっぱり、そこに託された希望みたいなものを示すための助産院なのかもしれない。

とにかく“生きてゆく歯痒さ”みたいなものを目一杯感じた作品だったな。
その向こう側に、希望が満ちているどうかなんて定かじゃなくて、ふがいない僕らにはどうしようもない未来しか待っていないかもしれないけれど。
でも誰かが幸せであるように、そう願っているんだな、と。

そうやって希望も、命も、産まれてくるくるんだな、と。

そしてたまたま今見つけたこのブログが、そういうことにちょっと繋がっている気がしたのでリンク掲載。

そしてそれは、色んなところで失敗したり/傷ついたり、ひきこもったり、後悔したりして/基本的にこの世界で生きるということは/そんなにうまくはいかないもんだと/そうわかった時から、やっと感じられるようになるものだと思う。
(引用元:まだ小さい君に、話しておきたいこと。 - フルタ製菓株式会社 ボツ案)