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会田誠展〜天才でごめんなさい@森美術館×ほぼ余談

以下の記事と、会田誠の「天才でごめんなさい」に対する抗議について。
個展そのものにも足を運んだけれど、その感想はほぼ書いていない。
ちなみに、物議を醸している絵画、そしてその雪月花シリーズも見てきました(ググればあります)。

http://anond.hatelabo.jp/20130128160506

芸術家である会田誠が「ポルノ被害と性暴力を考える会」から批難を受け、展示を中止?しろと抗議されている問題。
インターネットでは「いやいや、R18って書いてあったしなにが問題なの?」「俺は不快には感じなかったけどな〜」「あれが児童ポルノなら、もうなにも芸術として展示できないよ」「天才でごめんなさいって言ってるじゃん!」などのコメントが。

コメントは以下に少しまとまっている。

http://matome.naver.jp/odai/2135936207512066101

一応、「ポルノ被害と性暴力を考える会」の意見をもう一度引用しておくと。

 現在、森美術館において「会田誠展」が開催されていますが、ここには、四肢切断された全裸の少女が首輪をされて微笑んでいる「犬」という題名の連作をはじめとして、性暴力性と性差別性に満ちた作品が多数、展示されています。

(作品の一部は、森美術館の公式ブログにて紹介されていましたが、2013年01月19日19時〜22の間に、明確な謝罪もなしに森美術館の公式ブログからこっそり削除されました)

 これらの作品は、残虐な児童ポルノであるだけでなく、きわめて下劣な性差別であるとともに障がい者差別でもあります。このようなものが、同人誌にこっそり掲載されているのではなく、森美術館という公共的な美術館で堂々と展示され、しかも、各界から絶賛されているというのは、異常としか言いようがありません。すでにNHKの「日曜美術館」で肯定的に取り上げられ、最新の『美術手帖』では特集さえ組まれています。

 私たちは、森美術館に対して1月25日付で抗議文を送付するとともに、多くの団体・個人と協力してこの問題を広く世論に訴えていきたいと考えています。またこの問題を国際的にも訴えていきたいと考えていますので、みなさんのご協力を求めたいと思います。
(引用元:http://paps-jp.org/action/mori-art-museum/)

で、最初にリンクを張った彼が述べているのが、

「四肢切断された全裸の少女が首輪をされて微笑んでいる絵」すら予定調和なものとして受け入れてしまう世間。
何でも受け入れてくれる物分りがいい世間。
そんな世間に反抗するのは、皮肉なことに「ポルノ被害と性暴力を考える会」だけなのだ。
(引用元:http://anond.hatelabo.jp/20130128160506)

ということ。個人的な結論を先に言うと、抗議内容には理解を示せるが、抗議方向には理解を示せない、と言った感じ。しかし、抗議内容に理解を示せない、という意見にも違和感を感じる、というのが意見。

あれが、芸術であれ、芸術でないとしても、あれは“不快感”“痛み”“苦しみ”を作品から感じ取る人もいるのは想像できるだろう。
そんな中で、「素晴らしい!」「絶賛」みたいな声があってもいいけど、それが大衆の意思として反映されてしまっているのは確かに“異常”かもしれない。
もちろん、僕はあれが“アンダーグラウンドであるべき”とまでは思っていないけれど、芸術に対する受け取り方、感性が千差万別とはいえ、四肢切断された全裸の少女の首輪をされて微笑んでいる作品を反対意見に反対してまで絶賛するのはなぜか、説明してほしいぐらいだ(作品そのものの価値を否定しているわけではないし、作品を持ち上げることを否定しているわけでもない)。
個展そのもの、作品そのものは、たしかに素晴らしい。けど、「この作品が素晴らしいと言われてる世の中って異常だよね?」という意見に対しては、賛同せざるを得ないし、そこに同調できないというのはそれもまた不可解な気がする。

作品に対する受け取り方、人々が持つ感性に「こうであるべき」なんて論を述べてしまう僕も大概だけど。
言いたいのは、「この作品って非常にグロテスクで不快です!」という抗議が持ち上がるまでが、会田誠の作品、芸術性なんじゃないかと。
あの作品を見て、感じるのは痛みや苦みではないのか?いや、感じなくたっていいが、感じる人がいることは容易に想像できるだろう。

そこに対して、「いいや、グロテスクで何が悪いんだ!」などと、再度抗議を起こすのは、違うんじゃないかと。
いや、言ったっていいけど、それは大衆の意であるべきじゃないと思う。

会田誠の個展は、「なんちゃって芸術肌」の人間を炙り出すための個展だったように思う。
会田誠自身がそれを意図していたかと言われると意図していなかったようにも思うけれど、作品の背景そのもの、その背景の裏側には事件性が多くったり、風刺があったりする。
そこまではみんなわかっているはずなのに「おもしろ〜い」と言って作品をスルーしていく。

その感性で、絶賛する。

これは受け入れているのではなく、無関心なだけである。

分からないものは、分からない。
よくわからなかったでいいのだ。

北野武が言っていたけれど、別に芸術は大それたものである必要はない。
それを受け取る人も、もっと適当でいいのだ。

なんで裸にする必要あるわけ?
どうして四肢なの?
なんで顔はあるの?
首輪はなに?
そもそもあれはなぜ絵なの?

「分からない」ことを考えて、分からないものについては決して称賛しない。
「語りえないものについては、沈黙しなければならない」のだ。
分からない点は、分からないでいいのに。

例えば、「天才でごめんなさい」の広告塔となっているあの滝に群がる少女たちの絵「滝の絵」だって。
水着だね、可愛いね、騒いでいるね、とか、まあ、そういうのもいいんだけれど、あそこにも確実に「気持ち悪さ」「異常さ」「不快さ」みたいなものは混じっていて。
あそこに「違和感」「異常さ」を感じる人がいたら、声を上げる人がいたら、「たしかにそうですね」と賛同することが、芸術を支える人間としてのひとつのアクションではないかと思っている。

話を戻すと。

「ポルノ被害と性暴力を考える会」の訴えていく姿勢には、賛成も反対もしていないし、どうぞ勝手にしたら、会田誠だってtwitterでなんか言っているけど、構う必要もないのでは?と思うけど。
この一連の流れに、「そうだ!そうだ!あの作品のどこがいけないんだ!素晴らしい作品だったじゃないか!」というのは、まあ、せいぜい140字の世界だから、匿名の向こう側でなにを考えているかは知らないけれど、絶賛する空気っていうのは異常だと思う。

最後に、僕の思う気持ち、コメントを以下から引用。
会田誠サポーターの人たちのコメントが森美術館のHPに掲載されている。
Supporter's Messages | THE "AIDA MAKOTO: HEISEI KANJIN PROJECT" | MORI ART MUSEUM

高校の美術室前に絵が飾ってあり、その絵がとても好きでしたので、新潟日報森美術館でのことを知って参加したいと思いました。2004年新津市(当時)美術館での「東アジアの風景」出典作品もすてきでした。ただ、会田誠の作品すべてに賛同しているわけではないと思います。四肢切断や美味ちゃんなんかは生理的に嫌ですし、mixiのコミュニティにある「今、日本で芸術家って会田誠くらいしかいない」というのも、なんだかなあと思います。今回の個展のタイトルを含め、反感を覚えるところも多いです。でもきっとそういう点も含めて、(一部の)会田誠作品が好きです。
(引用元:http://www.mori.art.museum/english/contents/aidamakoto/supporter/comments.html)