今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

アートと音楽−新たな共感覚をもとめて(展)@東京都現代美術館〜主に“data.matrix [n˚1-10] by Ryoji Ikeda”について

▼世の中に存在するものすべてを音楽として昇華できたなら
総合アドバイザーに坂本龍一を引っ提げて開かれた「アートと音楽」展。
どっかのキャッチコピーに「これは音楽ですか?芸術ですか?」というものがあって(なかった?)、はぁ、なんというか僕より浅はかな感じだな、とか思っていたのだけれど、個展そのもののテーマはよかった。
大半は、「あらゆるものごとを音楽として表現する」といったコンセプトのような作品たち。

例えばそれが分かり易く表現されていたのが「田中未知・高松次郎」による「言語楽器≪バロール・シンガー≫」。
言葉をすべて、音楽にする、といったコンセプト。
目の前にはタイプライターがあり(接触禁止だったが)、そのタイプライターの日本語の文字、五十音すべてに音が割り振られている、らしい。
つまり、この文章をそのタイプライターで打てば、音の連なりになる、といったものだ。

逆方向からのアプローチもある。
「クリスティーネ・エドルンド」による「セイヨウイラクサの緊急信号」は「音(信号)」を「絵画」「譜面(スコア)」として表現したものだ。
ふと、思い出したのが去年度あたりの武蔵野美術大学の卒業制作展(ムサビの卒展)に“エレキギターのコードを視覚化する”といった作品があったなあ。あれは何か理論に基づいて図で表現されていた気がするけれど、忘れた。

あとは、これは有名だけれど「ジョン・ケージ」の「4分33秒」もあった。ライブ映像で、全く作品像の違う「4分33秒」が二本。
4分33秒」もまた、「自然」を「音楽」として表現した作品のひとつ。上記ふたつとは異なったアプローチ。
ただ無音の世界が、偶発的に生じさせる自然音そのものが音楽であるとして表現されたもの。二つライブ映像があるのだが、片方は自然の音が多く収録されており、もう一方はまさに「4分33秒」といった感じ。
この作品に類似するものとして、「セルスト・ブルシエ=ムジュノ」の「クリメナン」という作品があった。
大きな円状の穴に水が浸され、そこに磁器製の器がいくつも浮かべられている。
器たちは自然とぶつかり合い、音を奏で、決して同じリズムや音の連なりは完成しない、と言ったもの。
展示のいちばん最初がこれだったので、なんとなくコンセプトがわかる、そしてシンプルで洗礼された作品だったように思う。

大きく分けると、上記の三つ、なんて言い方は絶対にできないけれど、こんな風に世の中に存在するあらゆるものが音楽として作品化できるのではないか?と試行続けてきたアーティストたちの結果が展示されている。

池田亮司による圧倒的なインスタレーション
これらを踏まえて、もう最後の作品になってしまうのだが、正直、この作品のせいですべて吹っ飛んだ、と言っても過言ではない。
それぐらいに圧倒的で、衝撃的だった。
人間、すごいものを目の前にすると、思わず笑ってしまうんだな、笑うという行為と泣くという行為が同時に起こる様な、喜怒哀楽をすべて想起させられる強いエネルギーを持った作品が最後に展示されていた。

それが「池田亮司(Ryoji Ikeda)」による「data.matrix [n˚1-10]2006-09年」という作品。
スクリーンを10個ほど使用し、そこに宇宙に関するデータからDNAや遺伝子の構造までを情報として処理し無機質化した映像を映し出す。ただただ、流れていく。
10個のスクリーンに投影された膨大な量と圧倒的な知覚で僕らの感性に迫るそれらの映像とノイズは、次第に加速していく。
膨大なデータ、宇宙から遺伝子までがホワイトノイズに乗っかって、、、ある瞬間、終わる。

ピーッというノイズと共に。

これ、どっかで見たことあるな、と感じた。 小惑星探査機「はやぶさ」が僕らに最後に残した映像だった。
勿論、池田亮司の作品に投影されていたのは「はやぶさ」ではない。ただ、イメージが近似していた。
池田亮司の作品は、映像は、音楽も、そのイメージに近づける、宇宙から細胞まで、マクロからミクロまで、その根底にあるノイズを無機質なイメージとして投影し、共感覚を揺さぶる凄みがあると感じた。

あの雑音の向こう側に、生命を感じさせない生命を勝手に感じた、というか。
人はイメージで勝手に感情を表現し、生きているけれど、結局、神が例えいたとしても、こんな風に感情の生起すら許さない、隙のないノイズに僕らは存在しているのかもな、とか考えた。
高速で表現されていく映像とノイズの向こう側に、あぁ、始まりも終わりも、ミクロもマクロも、宇宙も遺伝子も、感じないとは、こういうことか、感じないイメージとは、無機質とは、本来、無機質は僕らにとって意味のないもの、想像の及ばないもの、であるはずなのにこんなにも普遍的な価値として目の前に現れてしまうとは、とか考えた。

すっごい脱線するけれど、ちょっと前に大宮エリーさんの「生きているということ」展を観にいって非常に感動した。
そこで“「虚無」の空間の再現”がされていて、人にとって虚無とは闇であり、虚無という空間はこういうものではないか?というもので真っ暗な闇とちょっとした細工がある部屋が作られていた。人は最後に宇宙になるのだから、こんなものさ、塵となって死ぬのさ、無さ、みたいな諦観にも見た空気が漂っていた。
たしかに、人がイメージする虚無とは、宇宙とは、こんなものなのかもしれない、とその時は思った(し、今も思っている)。

けれど、生命とはどんなものか、と考えたら今回の「data.matrix [n˚1-10]2006-09年」が作り出した空間そのものだな、と思った。

池田亮司は個展をMOTで開いたこともあり、その時のを見逃していた自分を悔やんだ。
以下に概要がまとめられているので気になった人は見て欲しい。

+/- [ the infinite between 0 and 1 ] Ryoji Ikeda 池田亮司
音響による空間構成──池田亮司「+/−[the infinite between 0 and 1]」展:展示の現場|美術館・アート情報 artscape

今更だけれど、池田亮司の説明をすると世界的に活躍しているミュージシャン・パフォーマーであり、世の中にある物理的・数学的なデータをエレクトロ・ノイズ・テクノとして聴覚化し、無機質な映像を重ねることでインスタレーションする。

彼の事で、興味深い記事を書いていた人がいた。

2010-11-29

いまのところ僕はにわかなので、大それたことはなにも言えないが、彼がやっていることは僕が聴く限りでも「イメージとしての表現」であるとは思っている。
数学的なデータを、そのまま音楽として、そう、例えば、今回の展示されていた「言語楽器」のように表現しているのかと言えば、そうではなくて、確実に、そこにはデータと論理、そして音楽という机上で繰り広げられる整然とした漏れのないパフォーマンスなのだ。
だから、僕は心地よいし、衝撃を受けた。
これは、音楽であるし、映像であるし、無機質であるし、だからこそ「はやぶさ」を想起させるものであるし、共感覚を揺さぶる。

退屈なんだったらやっぱコンセプトで勝負しないといけないよね。これはなんかの函数アルゴリズムがどうので・・・・みたいな感じで完全にデータを音として抽出したものですみたいなさ、あとはまぁ函数がどうのでアルゴリズムがどうのっていうのが動いている様子が音になって聞けますみたいなさ、これがようはデジタルのイメージだよね。恐らく。分からんけど。(中略)別にだからそれが本当のデジタルのランダム性とかを表しているわけでもないしさ、そもそもランダムなんかにしたらそれこそただのノイズだからね。
引用元:http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20101129

ランダムに、無作為に数字を羅列して、ノイズを乗せているだけでは、もし仮にそうであったとしたら、たしかにコンセプトそのものを、多少音楽として聞くに堪えないものであっても、強固に構築すべきだとは思う。
しかし、今回の「data.matrix [n˚1-10]2006-09年」に関しては、圧倒的に、そのコンセプトとか、ノイズであるとか、そういうものを飛び越えて、表現力があった。

ただ、こういうものは確実に神格化、とか信者とか、そういう狂信するものではなくて、ただそこに在る、無機質なパフォーマーとして存在してこそ、感動が得られるのだと思っている。
これが、熱狂的なファン、とかになってしまうと、自分の中から産みだされたエゴや無意識そのものが“(別の意味での)ノイズ”として池田亮司のパフォーマンス、音楽に介入してしまう危険性を孕んでいると思っている。

それでも、帰りにミュージアムショップで買った「cyclo.」による「id」もとにかく心地よいし、これはまた、「data.matrix [n˚1-10]2006-09年」のように衝撃的なものはないけれど、“ただそこに在る”ものとして、また別のものを感じさせるな、と思った。

Id

Id