今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

ふがいない僕は空を見た/窪美澄[ほんのちょっとネタバレ]

本作は、5人の視点から語られる、それぞれの人生についての連作短編集であり、群像劇だ。
助産院の息子である男子高校生(ミクマリ)、不妊に悩む女性(世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸)、家族や友人、彼氏との人間関係に葛藤する女子高生(2035年のオーガズム)、環境によって自分自身の人生は決められてしまうのか?という問いのある男子高校生(セイタカアワダチソウの空)、そして助産院の助産師、一話の男子高校生の母親の話(花粉・受粉)

「女による女のためのR−18文学賞」受賞作品であり、編集の人が地道に営業を続けて火が付いた作品だそうな。
「良質な物語」もブランドを下げて、世に放り投げるだけでは、人気を得ることは難しいのだな、と感じた。

ふがいない僕は空を見た (新潮文庫)

ふがいない僕は空を見た (新潮文庫)

▼ふがいない僕らも、強く生きていく
舞台は、助産院から始まる。そして、それを取り巻く「人間の性」の問題へと切り替わっていく。
最後まで、どことなく鏤められているのは、やはり「女性の出産」という意識だろうか。「性」に対する捉え方とはいかに?というのも、大きくはないが描かれている。
そして文章のひとつひとつが瑞々しくて、脳裏に浮かぶ風景は、いつでも青掛かっている。

登場人物たちのほとんどは「現在の自分」から離脱しようともがく。

主婦と恋愛したり、万引き常習犯だったり、勉強もろくにできなかったり、兄が東大生で変な宗教に迷い込んだり、いわゆる「普通」という状態からは逸脱した高校生や、大人たちの話なんだけど、でも、その「逸脱した人間性」というのは誰もが抱えているもので、そういう意味ではきっと「普遍的な人間」の物語だ。
いまの自分に「ふがいなさ」を嫌々するほど感じていて、必死に解決策を模索するのだけど、あまりにもうまくいかなくて泥まみれになる。
それでも、ほんの少しの情熱を抱えて、また「現実」を塗り替えようと努力する。

変わりたいと思うなら、きっかけが危険な恋でも、過ちでも、最悪の人間関係でも、とにかく動機なんて不純でいい。
欲望に塗れた理由でも、憎悪に触発された理由だっていい、ただ、自分を変えたい。物語を変えたい。進路を変えたい。
そう祈る登場人物たちの、紆余曲折が描かれる。

短編集の、どれもこれもが、繋がっていて、でも上手な整合性はない。
それぞれの話に強いつながりがあるわけじゃないから、常に不安定だ。
終わり方も、救いがあるようで、決定的な救いではなくて、苦しみは常に存在し続ける。

だから、この物語が幸福な物語であるかどうかは、僕には判断しかねる。

この作品が多くの評価を得ているのは、刹那的な思い、不安定な物語、結びつきの脆さ、決断の弱さ、その暗闇に見える一握りの希望にも見える錯覚が、共感を生んでいるからだと思う。

▼物語が示す課題と、それを取り巻くのは明るいだけではない、陰のある愛。
物語には様々なトラブルが起きていくのだけれど(そりゃあ、主婦との恋愛が出てくるわけだし)、物語は、それを中心に進んでいくわけじゃない。
あたかもそれが日常生活の一部であるかのように、俯瞰的な視点から日々を映し出し、悩む姿を切り取る。
過去なんて、通り過ぎてしまったら、大したことないんだよ、と言わんばかりに。

それは助産院で妊婦さんが子供を産むシーン(描写)が何度か出てくるのだけれど、その時も同様だ。
そこに大それたメッセージが描かれることなく、風景描写が忠実に綴られ、空気を揺らす。

この瑞々しさと、生々しさ、溶けるような感覚は、女性にしか書けないなー、と感心した。

そして、登場人物の一人称(おれ、私、あたし、ぼく、私)で物語は進むのだけれど、あまり登場人物の内面(深層心理)までこの物語はクローズアップしない。
しかし、それらがうまく、なんとなく想像出来て、グッときたのが「ミクマリ」で起こった事件を「セイタカアワダチソウの空」で収束させる“田岡さん”の言葉、そしてその後の福田の以下の文章。

親でもないのに自分の将来のことを真剣に考えてくれる田岡さんという人間が、単なる金持ちの息子だとしたら、ぼくは田岡さんのことをそれほど信用しなかったと思う。田岡さんという人間が抱えているほの暗さに、団地育ちのぼくはなぜか親しみを覚えたのだ。(ふがいない僕は空を見た/窪美澄)

闇を持っていた方が信頼できる、なんて思っちゃいないんだけれど、これは前後の文章、そして「なにをしたらいいか分からなくて、もがいている高校生(人間)へのメッセージ」と捉えるとグッとくる。

▼ほんの数グラムの希望に生きていく登場人物
本来なら、どこか印象的なフレーズを引用して、この物語の素晴らしさを書き残したいと思うのだけれど、さっきから本をパラパラめくって「ここだ!」と思う個所はどれも、“物語のなかにあって活きる言葉”ばかりだ。
前後の脈絡があって、空気があって、魅力を放つ。
そういう文章がたくさんある。

そして、もうどうしようもない、絶望みたいなほんの数グラムの希望だけを手渡された登場人物たちのそれぞれの物語が胸を打つ。
読み終えた後に、自分自身のふがいなさを感じて空を見上げるような、まさにタイトル通りになってしまう作品。

ちなみにあまり説明できていないけれど、この物語のキーはなんといっても“助産師”であって“妊娠”や“出産”、そしてその助産師の視点から語られる言葉たち、でもある。
時間の感覚とか、助産院の想像する風景とか、そういうものが僕らの生きる日常にとても酷似していて、妙に愛おしくなるが、ざらざらしていて愛せずに放り投げてしまう様な描写ばかり。

女性にしか書けない文章、というのが存在すると僕は思っていて。
もちろん、それは感性という意味であるので、男性にも書けないということはないと思うのだけれど、女性がどのような過程で僕の思う“女性にしか書けない文章”というのを体得するのかは分からない。
でも、まるで“溶けるような文章”を彼女たちは書いていて(例えば島本理生さん)、窪美澄さんも僕の中ではその一人だった。

                                                                                                                                              • -

映画を鑑賞後、再度書いた感想は以下
ふがいない僕は空を見た[映画/ネタバレ]/原作・窪美澄、監督・タナダユキ - 今日もご無事で。