今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

幸福論/アラン(訳:村井章子)

幸福になるこの技術に、もう一つ有益な忠告を付け加えておこう。それは悪い天気を上手に使う技術である。これを書いているいま、雨が降っている。屋根瓦に雨の音がする。無数の雨樋がにぎやかにおしゃべりしている。空気は洗われて、塵一つない。豪奢な寝具のような雲が浮かんでいる。この美しさを見逃してはいけない。(91.幸福になる技術)

ひさびさの更新だー。
誰か見ているのかな?(気にする)
長らく更新しない間、あれやこれやとありました。

あらためまして、はじめまして。
これからもどうぞよろしく。

幸福論

幸福論

ずいぶんと僕は憂鬱になりました。
生きることの歯痒さが、身体中を蝕んで、もうどうしようもなかった。
だから今、なんとか人類の知恵に頼って心のバランス頼ってる。本当は避けたかったけどね。
でも、どうしようもなかった。

だんだんと本が読める様になってきて、小説なんかをざざっと読んでたんだけど、
ふとこの村井章子さん訳の幸福論を手に取って、
「ああ、こんな本があったんだあ」って思った。

いまはドーピングしてなんとか心の平静を保っているけれど、
それでも憂鬱な雲は太陽を遮って、足元のぬかるみをいつまでたっても乾かそうとしてくれない。

でも、この幸福論を読んだら、
目の前の分厚い壁を、あまりにも容易く撃ち抜いていくもんだから。すごいな、って。
言葉が、軽快に、僕の目の前の壁を壊していってくれた。

まあ、くだらないポエムはこの辺りまでにして。

やはり100年以上前に書かれた、この言葉が、いまの現代の悩みにも通ずる、
もっと言えば、おそらくこの先、人類が生きていく上で、滅びるまで、通ずる言葉がここにあるのではないかと思う。
本自体も、93章から成る600頁って言うと多く聞えるけど、間に絵が入ってたりするんで、言葉も綺麗で、あっという間に読めちゃいます。夢中になると止まらない。

そういえば読点をたくさん使うやつは馬鹿だってどっかで見たな、まあいいか。

ひとつひとつ引用していくのは避けるけれど、
村井章子さんの補足的な訳し方もとても素晴らしくて、
アランの伝えたかったことが、言葉のひとつひとつが曇り空を
心の中のモヤモヤを軽快に打ち破っていく。

おそらく誰もが一度は通過する悩みのひとつひとつを
アランは、丁寧に諭す。
「ああ、そりゃそうだよな」って、僕らがわかっていることを、もう一度知らしめる。

僕が素晴らしいと思うカウンセラーって、
自分の意見を言うカウンセラーじゃないんだよね。
相手の心の中にある言葉を引き上げることのできるカウンセラーなんだよね。

みんな答えは持っているんだよ。
散々悩んでいるんだから、答えは持っている。
ただ、それを引き上げられないだけ。

アランは、それを引き上げる。
僕らは気付く。
「そうだそうだ、そういう風に考えたかったのに、どうしても自分の力では納得できなかった」

アランは、悲しみの強さを知っている。
悲しみに酔ってしまえば、人はあっという間に盲目になる。
どんな言葉も届かなくなってしまう。

だからこそ、出来る限り喜びを讃えなさいとアランは言う。
当たり前のことなんだ。

でも、何度だってアランは言うのだ。
悲しみの支配力、恐ろしさを。
そしてそこに陶酔する人間の愚かさを。
いかにして、それらと対峙するかを。
どうやって付き合っていけばいいかを。

手遅れになる前に、喜びを、運命を受け入れる方法を提示する。

おそらくこの本は、悲しみの淵にいる人を救ったりはしない。
ただ僅かなヒントで、僕らの道を拓いてくれるだけ。
その使い方を僕らが知らない限り、僕らは僕ら自身を救えない。

アランは、“心と身体”が繋がっているものだと考える。
これも正解である。
心も、身体も、緊張する。動かなければ腐っていく。
だからリハビリも、適度な運動も必要だ。

人の悩みは、おそらくこの本を読めばだいたい解決するんじゃない?ってぐらいに、
アランの言葉はあらゆる角度で的確な姿勢で、僕らの憂鬱を撃ち抜いてくれる。
そして嫌味がない。

この本は、はっきりいって“幸福になる為の本”ではない。
“足元にある幸福に気付く本”だ。
もはや僕らの生きるということは幸福そのもので、それ以上は僕らの感情(この本で云う“情念”)が勝手に生み出しているものなのだと。

だから僕らはこの本を読んで、感情との対峙の仕方を知る。
雨の日も、晴れの日も、曇りの日も、そこに従うことを知る。
受け入れることを、認めることを、そして感情に支配されないことを知る。

大事なのはその先だ。
僕らは、時代に生きている。
お金を稼いだり、地位を築いたり、社会性を重んじたりしなくてはいけない。

自分の心をいくらコントロールしたって、時代はなにも認めてくれたりはしない。

僕は、僕らは、この本を読んでやっとスタートラインに立てたのだ。
生きていく上で最も大切な“生きるということ”に対する思いを、うまくバランスを立てて、
その上で、僕らは哲学だけでは生きていけない。

“生きるとはなにか?”ということは、これから哲学者たちと考えるとして、
さあ、ここからどうやって生きていこう、かと。

幸せを論じえない、諸行無常の時代の中で、なにをしていくことが正解なのかと。

そういう問いの淵に僕は今、立たされています。(なにこれどんなオチ)

おそらく、“幸せとはなにか?”を考えることで、僕らは幸せになれるのだから、
そういう問いの中“だけ”で生きていくことも、ひとつの答えだし、幸福なのだと思うけど、
僕は、幸せじゃない、そういう概念では戦うことのできない、もっと違う次元の、
時代と、また、その時代という枠に捉われることのできない概念の中でも、通ずる
もうひとつの新たな“生き方みたいなもの”を探していきたいな、と思うのです。

まあ、それが永遠に彷徨う大海原のようなものの気もするのだけれど。
そこへ出る船とオールは用意されたのよね。

ひさびさの更新がこんな雑多な文になっちゃったけど、
ちょっとした下手糞なエッセイだと思っておおらかな心で許してにゃん。(ももち!)