今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

魂のゆくえ

 10年前の新宿と今の新宿。目に見える景色は大きく変わっているはずなのに、ふとした瞬間、この場所が“変わっていない”と感じたのは何故だろう。それは新宿が表現していることがそうなのかもしれない。南口では相も変わらずスピーカーからカラオケを垂れ流して誰かがパフォーマンスをしている。新宿駅にはルミネの広告がデカデカと掲示される。年末になればキリスト教の言葉が雑音より耳障りな音で流布される。信号が青に変われば群衆が移動する。内閣総理大臣は、この国を代表する。敷かれた規律や慣習は、人間らしさを与え、その安心感に無意識の中で侵された私たちは人間であることを忘れる。

 

 休日感がない、季節感がない、年末感がない。今年よく聞いた言葉のように思う。自粛によって人々は物理的なオンオフの切り替え作業を排除され、外的要因で脳を錯覚されることが困難になってしまった。物理的な行動を制御されることは、好奇心を限定することでもある。無論、物語は例えば路上に捨てられた新聞紙の社説にだって無限大に広がっているが、人間はそう器用ではない。なにもない独房の中で壁に想像で絵を描き続けられる人間もいれば、そうでない人間もいる。そうなったとき、外にでることができないという制限は、また“できるだけ同じ作業を繰り返す”という回避行動は脳の感度を衰えさせたといっても過言ではないだろう。感情を殺す作業が、人間にどのような影響を与えるのかはわからない。しかしこのなだらかに感情を殺していくムードは、大きな悲しみも与えなければ、相対する喜びへの飛距離も緩々と縮め始めているように感じる。感情が麻痺するという情景を在々と感じさせる1年であった。

 

 あまりよい例えではない気もするが、思い浮かんだことをそのまま書くと、ある人物がyoutubeの実況配信で「ここ最近特に原因もわからないまま苛々している」と訴えていた。そしてその人物自身が推察するに「あまりにも刺激がなさすぎて自分で刺激を与えようと苛々している気がする」と言っていた。その話を聞いたときには、「そういうこともあるもんだなあ」と思ってはいたものの、いま自分で文章を書いていて、それは一種の心の防衛機制なのではないかと思った。心の機微を心が感じ取り、その為に心に無理矢理に変化を与えようとしているのであれば、苛々するのも頷けるな、と思った。

 

 と、ここまで書いたのが3日前……

 本当は年内に読みたい本を買ってその感想も書こうと思っていたのに、結局書けなかったぜ……

 でも、2020年に書いたものは2020年に、ということで(そんなマインド持ち合わせてないけど)、なんとか年を越す前に投稿します。。。

 

 いま読み返すとだいぶ平和ボケした文章を書いていたなと恥ずかしくなったので、これからはしっかりと“いま自分にできること”を考えながら生きていきたいな、と思った。

 どうしても内省することが多くなってしまった1年だけれど、内省で心の豊かさを取り戻すことはできても、世界の豊かさには直結しない。でもいま求められているのは、この事態をどのように良い方向へ耕していくのか、ということだろう。

 満足/不満足といった自己基準の価値観ではなく、世界がこれまでにあった基準を取り戻すためにいま自分ができること、その規模で物事を考えていきたいと思った。

 

 2021文字にしようと思ったけどとてもじゃないが足りないので、このあたりでおわります。年が明けたら興味深く買った本の感想でも書きます。(しかしこれまた内省を促すような本なのだ)

 

 2021年は、できるだけ多くの人にとって光の見える1年でありますように。