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マチネの終わりに/平野啓一郎:離別する個は私で在るのか

 

 『マチネの終わりに』を読んでいて途中で気付いた。自身の脳内で再生されている主人公の声や表情だけではなくその姿が福山雅治に、そして一方の女性は石田ゆり子に置き換えられていることに。映画は観ていないが、繰り返しテレビで流されるその予告編が無意識のうちに刷り込まれていたようだった。ふとした瞬間の小説の中で主人公・蒔野が行う所作が「確かに福山雅治なら、こんな反応しそうだよな」と、なぜか福山雅治由来で納得してしまうのだった。そしてそれは最後まで違和感なく、物語の結末に結び付き、小説を彩る装飾というよりも、福山雅治石田ゆり子そのものの物語のように完璧なまでの演技で我々を魅了した。(映画は観ていないが)

マチネの終わりに (文春文庫)

マチネの終わりに (文春文庫)

 

 ときに人は、その姿かたちを場所に応じて変えては環境に適応するように試みる。友人、恋人、家族、職場、社会。それを多面性と呼ぶべきか、『マチネの終わりに』の著者・平野啓一郎は「私とはなにか」と題し“分人主義”を紐解いた。分人主義とは、“分人”という言葉に表されている通り、人間は“ひとつ”の“個”でありながら“個”ではなく“分けられた人”の集合体である、ということであり、その構成比率によって姿かたちが環境によって変わるのである。組織モデルのひとつである“ティール型”にも同様の考え方があり、組織における“個”とはある特定の側面しか基本的には引き出せておらず、本来のその人の能力を組織が引き出せていない可能性のが高い、その可能性を引き出させるために組織構造はあるべきで、どの側面も“個”が自由に表現できるよう安全性を最大限にするべきだよね、という考え方である。(例えば、狼が常にそばにいるような場所では短期的な思考でしか物事が進められず本来のパフォーマンスが発揮できない、など)

 分人主義は、“多数いる個”のうちの「どの側面をだすか?」ということを能動的に選択することであり、ティール型は“集合体としての個”の「どの側面を“ひき”だすか?」ということを組織側が環境をつくることではないだろうかと思っている。

 

 福山雅治は私の脳内でばっちり『マチネの終わりに』の世界観と合致したわけだが、それはあくまで福山雅治の“一側面”でしかなく、『マチネの終わりに』は物語(≒組織)として福山雅治の“多数いる個”のうちから最大限の可能性をひきだしたわけである。*あくまで個人的所感。

 

 『マチネの終わりに』は、冒頭で著者・平野啓一郎から明かされるが著者の友人がモデルになって描かれているそうだ。そう考えると、きっとこの物語はネタバレにならない範囲でいうと“すれ違う物語”ではあるのだが、もしかしたら“すれ違わなかった物語”がどこかで存在しているのかもしれない、と思った。あらゆる人生が、誰にでもきっとどこかで“すれ違う”ことの連続であり、存在していたかもしれない私という分人はそこで離別しているのだろうと感じた。あらゆる未来に存在していたかもしれない私と、現在にいるたった一人の私。しかし、たった一人の私はあらゆる個を集合体としてまとめきっている私でもある。その“私たち”を、できるだけその多くを、愛していくことが、私自身を肯定していくことにつながるのだろう。離別した私は、もはや私ではなく、想像を巡らせても、あのとき“すれ違った”だけの存在であり、私はここに在るだけに限るのだ。

 

 それにしても映画を観たいと思わないぐらい(映画は観たい)、映像が鮮やかに脳裏に浮かんで、まるでひとつの映画を見終えたような気分になる臨場感のある小説だった。人生とはなにか、人生とは、と考え込んで寝込んでもう動けなくなるような深く胸の奥に沈む鉛のようなメッセージが潜んでいるはずなのに、著者・平野啓一郎の表現力がその重みを晴れやかな景色に一変させている、素晴らしい物語でした。

 

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)