今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

美術館とシャッター音

 森美術館に塩田千春さんの展示『魂がふるえる』を観に行った。いつの頃だったか、いろんな作家さんの作品が集まっている中で、塩田さんの“糸”を用いた繊細でシンプルな構造、そしてある意味では幾何学的な表現をしている作品に惹かれ、いつかちゃんと観に行きたいなと思っていたから非常に楽しみにしていた。

 

www.mori.art.museum

 

 誤解を恐れずにいうと、とても大味で大胆な展示でありながら、塩田さんの半生を表現するような、けれど“集大成”とも“アーカイブ”とも異なる、傑作選のような展示だった気がした。ある意味では森美術館らしく、あの空間を有効に使いながら、アート好きをたくさん増やしてくれるような構造になっていたと思う。例えば、少し前の「カタストロフと美術のちから展」は、背景が“災害”ということもあって、読み解かなければいけない歴史が複合的に絡み合って、作品に落ちていたことで、“どう歴史と向き合うか?”によって受け手の消化レベルって違ってくるものであったが、塩田千春さんはしっかりと“個”にフォーカスが寄っていて各々の“個”と“感情”の共通項を“記憶”という形で結び付けることで、自分なりの解釈を生み出せた人は多かったんじゃないかな、と思う。そういう意味で、僕が昔見た塩田さんのシンプルな赤い糸のみで構成された作品よりも、より大衆的なものであったと感じた。お気に入りは、ベルリンの窓の作品とラストのスーツケースの作品です。

 

 そして、今更なんだけど、最近の美術館はほんとうにシャッター音が鳴り止まないですね。なんなら、写真だけ撮ってその場を去る人とかもいるような印象を受ける。写真を撮ることの良し悪しを語りたいわけではないんだけれど、アートって“そこで(立ち止まって)考える”ことが、結構重要なんじゃないかなあ、と思っているから、そんなにパシャパシャと撮りたくなる心理がなかなか理解し難い。

 勿論、持ち帰って写真を見ながら反芻することができる人もいるんだろうけど、360°カメラで撮っても個人的には作品を思い返すことができるかが怪しい。あまり“生感”は信用していないタイプではあるんだけれど、こと作品においては、そこで考えないと、ずっと考えない気がしている。(性格の問題だろうか)

 特に観光客に多い気がしていて、おそらく“作品を観に行きている”という立場と“美術館に観光に来ている”という心理の違いなんだろうなあ、と思います。写真撮るのはいいから、シャッター音だけどうにかならないかな。

 

 ここからは完全にアホの妄想なんだけれど、“自分で撮ること”ってあまり意義のあることのように思えなくて、その場で撮れる写真はすべてその場に訪れた人で共有できるような仕組みさえできちゃったっていいんじゃないかとすら思う。“その人にしか撮れないもの”なら理解できるんだけれど、作品を撮っているほとんどの写真には個性がないと勝手に踏んでいる。

 

 と、ここまで書いたのが2週間ぐらい前なのだけれど、それでもやはり美術館という場所は良い場所だなあ、とつくづく思う。ここ数日間は、世界があまりにもカオスであることを感じていて、それは自分自身の感性が物事を“ばらばら”にとらえて、境界や視界のフィルタリング作業をうまくできていないことが起因しているのだろうなあ、と思っている。町中を歩いていると、“こんなに人がいるんか”と処理しきれない奇妙な気持ちになるし“これだけの多くの人は、いったいなにをしているんだ”と思うと、解釈と理解の追いつかない複雑な気持ちになる。そういう気持ちにとてもなったのは、特に代々木公園を散歩していた時です。歌を歌う人がいれば、楽器を練習する人がいて、演劇をする人がいれば、家族でサイクリングをする人もいる。恋人と手を繋ぐ人もいれば、友達と談笑する人、迷い込んだ人、ドッグランを走り回る犬……。

 で、なぜ美術館がいいか、なんてことを書いたかというと、まとまりのない自分の点の話(しかもすごく小さな)に苛々したわけではなくて、美術館という空間は“作品を観賞する場所”として、“場所そのもの”が世界を調整してくれているから、である。だから、落ち着くんだろうな、と思う。写真を撮るためだけの人が仮にいるとしても、それでもある程度、カオス感は少ないし、目的を持って集まっている。代々木公園の人混みと、美術館の人混みは種別が違うのよね。そういうわけで、私は美術館が好きです。

 

 

塩田千春展:魂がふるえる

塩田千春展:魂がふるえる

  • 作者:塩田千春
  • 発売日: 2019/09/03
  • メディア: 単行本