今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

非常にはっきりとわからない/目[mé]@千葉市美術館

 

 2019年内に記録を残そうと思っていたが間に合わなかった。どうにも年を越す時の実感が年々すり減ってきてしまっていて、それは私が接触する姿勢に関する問題なのか、そうではなく大晦日や、年越しといった概念に対する私の距離感の問題なのか、パソコンの横に置かれたセイコー電波時計が1/1を刻んでも、特に心変わりはない。

 とはいえ、いまの私にとっての年末年始は有難いことにまとまった休暇をとれるタイミングでもある。散らかったままの部屋を散らかったままにしながら、たまに片付ける程度だったが、この休みにある程度片付けをはじめた。とにかく片付けたいと思ったものは、ひたすらにベッドの上に並べていったのだが、もとに戻す場所がないモノで溢れて困っている。そんなタイミングで感じたのが、自分の心の狭さだった。

 不思議なことに、「部屋を片付ける」という行為はどうにも心の整理ともつながっているような気さえする。また、適当に片付けるのではなく、考えながら、心と一緒に部屋を片付けることが、思考や心の整理につながっている気がする。

 タイトルに「非常にはっきりとわからない/目」とつけておきながら、関係のない話を続けるが、ここ数ヶ月、どうにも自分が不調な気がしていて、現実は微妙にうまくまわっていて、トラブルもないのだが、どうにも不調な気がしていた。そしてその不調は周りで移ろいゆく環境や人にどこか認められない自分がいることにも通じているような感覚があった。

 低空飛行で飛んでいるとはまたちょっと違っていて、思考が深く進まない浅い状態がずっと続いているような感覚があった。「あれ、このままだとダメな気がするんだけど、なにがダメかわからないな……」といったような、砂漠の中をちゃんとした装備でひたすら歩き続けているような感覚。なんとなく部屋を整理していたら、その不安材料が少しずつ見えてきて、ただまだ地図上に宛先は見えてこないような状況だと思った。いったいどこに行けば、自分の心が喜んだり、驚いたりするのかが、はっきり言ってわからない。

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非常にはっきりとわからない/目[mé]@千葉市美術館

 というわけで、唐突に「非常にはっきりとわからない/目」の話に入ります。

 説明は受けた気がしないのですが、一部ネタバレ禁止と云われていることもあるらしいので、ネタバレ含みます。(もう千葉市美術館での展示終わってますが)

 

 千葉市美術館の7階と8階を使って行われた本展「非常にはっきりとわからない」は国内外で大きく注目を集める現代アートチーム「目[mé]」の、美術館における初の大規模個展です。目のプロフィールを千葉市美術館のHPより以下にて引用。

 果てしなく不確かな現実世界を、私たちの実感に引き寄せようとする作品を展開している。手法やジャンルにはこだわらず、展示空間や観客を含めた状況、導線を重視。現在の中心メンバー(アーティスト荒神明香、ディレクター南川憲二、インストーラー増井宏文)の個々の特徴を活かしたチーム・クリエイションに取り組み、発想、判断、実現における連携の精度や、精神的な創作意識の共有を高める関係を模索しながら活動している。

 “果てしなく不確かな現実世界”を“手法やジャンルにこだわらず、展示空間や観客を含めた状況”と書かれている通り、我々観客を含めて“作品”となる展示であった(もしくはその観客が存在しない状況を描写することによっても“作品”となり得るだろう。ただし“ない”が“ある”によって成り立つように、“存在しない”が先立ってはこの作品の魅力は半減するように思う)。

 施設(というかフロア)全体がインスタレーション作品として展開され、作品名もなにもない(あるとすれば「非常にはっきりとわからない」か?)フロアの中を我々はさまよう。「なにを見れば良いのか?」「どこを見ればいいのか?」「なにを考えればいいのか?」「はたまたその逆なのか?(見ない、考えない)」などといった問いが鑑賞者の中で様々に浮かんでは消える。

 

 平日の昼過ぎ(おやつの時間ぐらい)に行ったのだが、その日でも入場まで30分ぐらい並んで待ったように思う。それぐらいの人気展示だったのだろう。どこでなにを見て彼らがここに足を運んだのか定かではないが、その鑑賞者も様々で若い人からお年をめした人、観光客から大学生っぽい人まで、老若男女様々であった。故に、感想も様々である。

 作品のスタイルが故に、みんながフロア中でぼそぼそと会話をしている。この展示で素晴らしかったと感じたのがおそらくネタバレを禁じるが故であると思うが撮影が禁止だったのである。そのため、鑑賞者は撮影をせずに作品と向き合う必要性がでてくるのと、「それがなんなのか?」を考察しないと、その場が完結しない為、周りの人たちと語り合いをはじめるのだ。そしてそのほとんどが、作品について語っていることが多く、反対するわけではないがそうではない美術館も多い中で、ある意味“制限された中における求められた(予定された)多様性”を感じた。

 その感想は様々で「えっ、なにこれ作品の展示作業中で開館しちゃいましたみたいな雰囲気」「何回も見てたらなにがなんだかわからなくて気持ち悪くなってきた」「時計の針が動いているものと動いていないものがあった」「あの台の上に人がいた!けどあっちにはいなかったはず!」といった、多分文章にすると「なんのことを言っているの?」といったような統一性のないものになっている。

 

 ネタバレをはじめると、この展示は7Fと8Fでまったく同じ風景が広がっている。風景のコンセプトはおそらく「作品の展示作業」であり、おそらく70%~80%完成しているような作品の展示風景が“この展示における100%”なのではないだろうか。

 しかし、だいたい30分から1時間おきに、作業員(アーティスト)があらわれその70%を50%あたりまで戻していく作業をはじめる。鑑賞者に「すみません、作業するんでどいてください」といって声をかけながら、カーテンをしめたり、鑑賞可能エリアを閉じたり、作品にカバーをかけたりしだす。するとどうだろうか、さっきまで7Fと8Fは同じ風景だったが、今度は7Fは未完成、8Fは完成といったような錯覚に陥ったりする。またその作業員たちは、50%から70%~80%に戻す作業をはじめる。するとさっきまでの7Fの風景が8Fの風景、またその逆になったりする。

 この7Fと8Fの行き来は4台のエレベーターのみだ。つまり、「エレベーターが移動している」と信じ込んでいた我々は、その見ている風景によって7Fと8Fを記憶していたはずが、記憶が頼りになってこない。つまり「エレベーターは本当に移動しているのか?」といった問いすらもでてくるようなレベルに再現度が高いのだ。(まあ、実際は売店がある/ないでわかるんですが)

 だいたい作業が10~15分ぐらいかけて行われているので、ほとんどの人が最初は7Fと8Fのちょっとした違いに気づくはずだ。その後に、「もしかして、違っているところになにか作品の伝えたいヒントが?」と思いながら、別のフロアに移動する。すると別のフロアがまた作業をはじめていたりするものだから、結局なにをどう見て良いのかわからなくなってくる。この知覚の混乱がこの作品のひとつの“我々に与えるもの”である。

 だからこの私がとても素晴らしいなと思ったのが、この作品はみんなが口々に感想を語り合うわけだが、そのどれひとつをとっても「正解」になることである。そして誰も「こうなんだよ」といったことは云わない。なぜなら「こうである」ということが言えないから、「こうなのではないか?」というヒントを与え合う、というコミュニケーションが発生するのだ。

 


目  非常にはっきりとわからない

 

 我々が普段見ているものは、モノなのか、空間なのか。我々なにをもってその存在を認知するのか。この作品が我々に見せたかったのはモノか、空間か、もしくは感覚なのか。モノや空間、我々が知覚できるものは知覚させるためのツールでしかなくて、実際に我々が感じているのは知覚を通して、である。そう考えると、「なにをとおしているか」は関係なくて「なにを与えられているか」がこの目[mé]にとって重要なことだったのではないだろうか。

 作家はしばしば「なにをとおしているか」を重視し、「なにを与えられているか」は鑑賞者、受けての自由としているが、そうではなく、「なにを与えられているか」から考えているのが目[mé]の目論見なのかな、と思いました。

 

 「非常にはっきりとわからない」という感覚はそうそう得られるものではない。わからないの輪郭はわからないから、わからないことがたいていである。輪郭がわかるのなら、そこから紐解いていけるはずだからだ。だから、言語化してしまうと、この「非常にはっきりとわからない」は「わかる」か「わからない」のどちらかだろう、と言えてしまいそうなものなのだが、この目の展示を見れば、「わからない」ことが「非常にはっきりとしている」状態があることをしっかりと感じさせるのだ。

 その感覚は、例えるなら稚拙ながら前段で述べさせてもらったような“砂漠の中をちゃんとした装備でひたすら歩き続けているような感覚。”である。安心安全、おそらくこのまましばらくは歩き続けられるだろうなという感覚が自分の中にありつつも、自分がいったいどこに向かっているのかを知らないまま歩き続けてよいのか?(ただ大抵がそうであるはずだ)という疑念にもなりきらない微妙な感覚だ。凡庸であることは悪いことではないが、凡庸であることには漠然とした納得のいかない感がある、今の私には。ああ、なにを言っているんだろう。

 

 と、いうわけで、2020(1010以来の合成数)は20が2回並ぶので、良い年になるといいですね。愉快に幸せのそばで笑っていたい。

 どうかみなさま、そして世界が幸せに向かって進んでいきますように。

 

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