企画展:世界の終わりのものがたり〜もはや逃れられない73の問い @日本科学未来館
日本科学未来館の企画展のスペースってあんまり大きくなくて。
タイトルやホームページはとても面白そうだけど、どれくらい期待していったらいいんだろう?と思いつつ
感想としては期待以上に、とても素晴らしい企画展でした。
企画展「世界の終わりのものがたり~もはや逃れられない73の問い」展示概要 | 日本科学未来館 (Miraikan)
うろ覚えなままのメモなので「問い」は多少違う恐れあり。いわゆるニュアンス。
▼様々な終わりと向き合う為の展示
何事もにもいつしか“終わり”が来る。
それは朝や夜の日常のように。
春や秋の季節のように。
この「世界の終わりのものがたり展」はそんな“様々な終わり”と向き合うための企画展だ。
その“終わり”についての73の問い。
投票したり、メモに書いたり、くじを引いたり。
体験型の問いも少なくなく、誰もが楽しみやすいと思う。
▼生命の終わり
まず、僕らを試すのは「生命としての終わり」
「もし逃れられない病気になったら」「もし災害が予知できたら」「植物状態になったら」
心臓が脈を打つ、脳が機能している、生命としての終わりにも様々な定義があるけれど、比較的決定しやすいものであると思う。
「もし明日地球が滅亡するとしたらなにする?」という問いに僕が行ったときに「実況する」という答えがあって、面白いな、と思った。
ここのブースには多くの体験型があって、楽しめると思う。
そして動物(像とネズミだったかな?)の脈拍のはやさをヤカンに例えたミニチュアはとてもドキドキした。
怖い、とは違うけれど、こんなスピードで僕らは死に近づいているのだな、と思わざるを得ない。
僕自身は、災害や病を予知できるなら知りたいと思う。
自然に倣って生きていくことが人間のあるべき姿であるとは思わないし、かといってコントロールするのがすべてだと思わない。
その中間にあるのが「予知」じゃないかな、と思ったりする。
▼認知の終わり
そして「生命」の後に「人としての終わり」がある。
「生命」よりもっと広意義になる。
つまさきまでがあなたですか?それとも半径1mまでがあなた?空気も含めてあなた?思い出もあなた?じゃあ、誰もの思い出から消えたらあなたは終わり?
答えなんてないけれど、そういう問いが多くある。
生命としての終わりが人としての終わりに直結するのか。
それとも例え心臓が止まっても、燃やされて灰になっても、その灰が風に吹かれて地面に同化しても。
誰かの記憶に住んでいれば、それはあなたなのだろうか。
▼文化、瞬間、時間、様々な概念の終わり
この後からは、正直あまり覚えていない。。。
覚えていないことはないのだけれど、未来に向けた話が多かった。
ざっくり言うと「文化の終わり」「歩みの終わり」「生きることの終わり」ととにかく広意義な終わりについての問い、そして「永遠」や「瞬間」と言った“時”が複雑に絡んだ問いになって、「発想」や「思想」にまで転換する。
「持続性っていうけど、どこまでを持続、というのだろう?」
「どんな未来をつくればいいのだろう?」
「この絵に足りないものはなんだろう?」
「過去は過ぎ去るから過去だけれど、じゃあ、なにかを失っているのだろうか?」
「永遠に生きたいですか?」
などなど。
▼永遠と一瞬
こんな日本の現状において「終わり」なんて聞かされるとどうしても震災が頭をかすめる人も少なくないと思うけれど、正直僕からするとそういうのはあまり感じさせなかった。
勿論、最初の生命としての終わりの問いでの災害予知なんかは思い浮かべざるを得なかったけれど、今回扱っている終わりはあくまで「ありえない終わり」についてなのだ。
「永遠」や「一瞬」が想像はできるが手に入らないように「終わり」も想像はできるが残せるものでも、手に入るものでもない。「はじまり」も同様。
だから、「終わり」というのは実は不確かでもしかしたら存在しないのかもしれないし、それはずっと続いていて、もしかしたら何かの一部なのかもしれない。
僕らが割り切ったり、区切ったりすることで、頭の中でそうすることで、終わりが生まれる。
でも、きっと、だからこそ終わりを考えることが大切で。
終わりに向かって走り出し、息を切らすことができる。
そして、終わらせないためにはどうしたらいいんだろう、と必死になる。
それが「終わり」ではない、なにか、本当に大切なものに近づくためのプロセスなんじゃないかと思っている。
死を流れ作業のように受け止めていく人々は、つまらない。
そう思う。
ちなみに様々な著名人の「世界の終わりのものがたり」の“問い”に対する“答え”が以下に載ってます。
面白い。