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火の鳥①黎明編、火の鳥②未来編/手塚治虫[ネタバレ]

読み終わった後の温度が冷めないうちに書こうと思う。
散文。

手塚治虫火の鳥手塚治虫の作品の中でも名作と呼ばれていて、僕の印象では「人の生き死に」をテーマにしたものであった。
誰もが考えたことではあると思うが、「人の生き死に」とはとても不思議なもので、その死生観は人が生きていく上で決して避けては通れないテーマだし、考えるべきテーマであるように思う。
まるで人生が余生かのように温かい脈を打つ生命を孤独に苛ませたまま殺していくには愚かだとすら思う。

火の鳥」の中に手塚治虫なりの「死生観」がきっと眠っていると思っていたからこそ、読むのを避けていた。
理由はいろいろあれど、この本の中に答えがなかったら怖いな、と思っていたから(ニーチェのように運命論という苦し紛れの答え(それでも僕は正解に近いと思うけど)を出してしまっていたら、とか考えたり)。
ひとまず、火の鳥の①黎明編、②未来篇の感想を温度が冷めないうちに書きたい。

火の鳥(1) (手塚治虫文庫全集)

火の鳥(1) (手塚治虫文庫全集)

▼黎明編―永遠の生に執着するもの、そして争いの絶えない人類
黎明編は人類が火の鳥(不死鳥。その生き血を飲めば、飲んだ人間は不死身になれる)を追い求め争いを続ける話。
老いを恐れる人間や、永遠の生を手に入れることで子孫を残し続けたい人間、単純に不死鳥と呼ばれる生き物を仕留めたいだけの人間。
それぞれの思惑が交差し、すれ違い、争いは絶えず起こり続ける。

結局、誰一人として火の鳥の生き血を手に入れることのできなかった。
しかし、それぞれに“生”に執着し争いを続けたり、逃げたりしていた。
その中で生き残った、たった一組の夫婦(人類?)は、深い深い谷の底に住んでいた。

やがて、その夫婦の間に生まれた子供が、その谷を登りきり、いままでに見たことのない地球の絶景を受ける、という話。
その登る途中で子供が死にそうになったとき、火の鳥が「生きる権利があなたにはある」と問う。
それっていうのはつまり、「新しい未来へと進もうとする生命力を絶やしてはならない」ということじゃないかな、と感じた。

度々、火の鳥は現れるけどすべての人間に「生きろ」と言っているのではない。
特に生に執着したりするものには「死ぬべき」と言っている。
ここで子供に「生きる権利」を問うたのは、前者のような「退化を恐れない生への執着」ではなく「新しい未来へ向かう生命力」の大切さを火の鳥は知っているからじゃないか。

ちなみに、この話、未来編の後の話である。

火の鳥(2) (手塚治虫文庫全集)

火の鳥(2) (手塚治虫文庫全集)

▼未来編―人類が滅んだ後に、残された男が知る「生命の螺旋」
未来編は、ずっとずっと未来の話。
三千年とかそんな時。ロボットがあったり、人工生命の研究が行われていたり、とにかくテクノロジーは進歩に進歩しまくっていた(ちなみに本の中では、人類は3000年あたりから衰退しはじめて、みんな過去に憧れるようになり、政治家も未来の行く末を問うことができなくなったあげく、ロボット(電子頭脳)へすべてを任せるようになってしまった、とある。本当にありそうな未来だ、怖い)。
なんやかんやあって、人類は滅んでしまう(ここまでで本の半分ぐらいが割かれているし重要な所だが省略)。

滅びゆく人類を前に、火の鳥は一人の男に永遠の命を与える。
「人類の滅びゆくさまと、新しい人類の誕生を見守れ」と。
なんてことない、普通の男だ。

その後、男はとにかく葛藤する。
それはそうだ、100年、1000年、とたった一人で生きていくのだから。
孤独と虚無を彼が覆う。想像できないぐらいの恐怖だ。

やがて、生命が誕生する。
ナメクジが誕生するけど、滅ぶ。
その後、僕らのいう人類が誕生する(哺乳類の誕生、など歴史の流れに沿って描かれている)。

男は宇宙生命となり、生き続けている(肉体は滅びたが、魂となって生きている、みたいな感じ)。
やがてまた火の鳥が現れ、私の中に入れ、という。
男は火の鳥の中に入り、火の鳥の中にある宇宙生命と合成しひとつになる。

火の鳥そのものも宇宙生命、といったところか(物語の中では、火の鳥は地球の分身、と言っている)?
そして、現代でフェニックスや、鳳凰と言われている火の鳥の歴史がちょこっと語られる。
不老不死の象徴である。

火の鳥①黎明編、火の鳥②未来編/手塚治虫、までで感じた手塚治虫の死生観
まず、手塚治虫は自らの死を受け入れていたんだと感じた。
多分、死を受け入れられない人間であったらこんな漫画は描けないだろう。
もっと「生」への執着が腐る程染みついた、「輪廻転生」なんて答えを出すような漫画は描けない(そんな幻想を、生へ執着した人間は抱かないだろう)。

むしろ生に執着する人間を疎ましく思っていた様にも思える。
物語の中では、生へ執着する人間はことごとく死んでいる(まあ、生を持った人間は誰でも死ぬけど)。
永遠の生を手に入れて喜び続ける人間は出てきていない(これから出るのかな)。

じゃあ、手塚治虫が黎明編、未来編、でどんな答えを出していたかというと「幸福」だ。
それは「生の長短」に対する幸、不幸ではなくて、食べるものが美味しい、とか、君が好き、とかそういうものに対する幸福感、至福である。
僕は「人は幸せの為に生きている」という考え方は好きではないけれど、火の鳥の中では「人は幸せの為に生きるべきである」と書かれていたように思う。

例えば現代の芸術家だったら、恋愛やゲームに没頭して一生を終える人間を皮肉り、風刺作品として誕生させるだろう。
一方で手塚治虫の作品に芸術やゲーム、恋愛に没頭し続けた結果、なにも歴史に残されないような一生を終えた人間の姿は描かれていなくて。
常に、欲を求めて争いを続けている。

どちらが正解か分からないし、もっと選択肢はあると思うのだけれど、手塚治虫火の鳥の中で「争うな」「奪い合うな」ということを伝えたかったのかな、と思う。
“永遠”や“無”への恐怖心は無関係なのだ。
争わず、奪い合わず、人類が向かうべきなのは、それぞれが幸福に生きていける世界、社会であるべきと、火の鳥には理想像として描かれているような気がする。

間違いを犯し続け、自らの首を自らで絞め続けてきた人類がまた終わり、また始まる。

▼最後に。
決して“生き死に”を考えない必要がないはずがない。
手塚治虫は“生命の使い方”を葛藤したことが火の鳥に擦り切れるほど刷り込まれている。
“生き死に”を考えないことは生命への冒涜である。

そういうことが、登場人物たちがとにかく、良くも悪くも「生き死に」について執着したことの表れなんじゃないかと思っている。
どのように「生きるべきか」、そして、どのように「死ぬべきか」
それだけは常に登場人物たちは「葛藤していた」

そうでなければ「考える力」は必要ないからだ。

それにしても、物凄い漫画だった。
散文、散文。
後で反省しそう。