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面白いひと、について。

「面白い人に会いたい」と言って会いに来る人の残念感 | 小野美由紀 オフィシャルブログ
を読んで、思ったことを、ちょろちょろ(とはいえ、きっかけになっただけで、あんまり関係ないかも)。

これを読んで、ちょっとだけ違和感を覚えたのと、そこから僕自身も常々考えていたことがあったので、整理するきっかけにしようと思った。
まあ、このブログの「面白い人に会いたいと言ってくるやつは〜である」という大胆な決めつけは、さておいて。
そんな批判なんていくらでもできるので、「面白いひと」ってなんだろう、と考えてみる。

「面白い人」という表現がある。
たぶん大抵の人にとっての「面白い」とは、【自分の中にない“発想”を表現する一方で、自分の中に在る“価値観”と酷似しているもの】のことを言うのだと思う。
これが例えば、自分の中にない“価値観”であったりすると「変」「異質」という表現に変わり違和感を抱くのだと思う。

このブログで言われている「面白い人に会いたい、という理由で会いに来る人間」が批判の対象になるのは、その“価値観の酷似”から来るものだと思う。
つまり“相手が「面白い」と感じているという事は、相手の中にある価値観が、自分の中にある価値観と共通している”ということだ。

人って「アンチ人と同じであること」だと思うんですよね。
と、なると「私、あなたと同じ価値観を持っていて、その価値観の使い方(発想、アウトプット、表現)に面白さ感じてます」にも抵抗があると思うんです。
だからこそ「面白い人ですね」と言われることに辟易する時があるのではないかと。

勿論、みんながみんなじゃないけどね。

僕自身「面白い考え方しますね」と言われて、嫌悪感を抱く人と、そうでない人がいる。
嫌悪感を抱くとき、それは単純に「あなたの面白いと、私の面白いは違う。明らかに相違している」と心の中で思っている時。
でも、相手にとって「面白い考え方」というのは、もしかしたら皮肉や、一種の揶揄かもしれないし、「面白いひとですね」と言われることに嫌悪感を示すのは、ある意味では“驕り”であるかもしれないのよね(僕の場合ね)。

でも一方では、「価値観の共有」を目指して、「面白いですね」を行使してくる人もいるわけで。
そういう場合は、相手の自分の間に相違がないかを、やっぱり確かめる必要がある。
「面白いって言うけど、どういうこと?」と問いをお互いに繰り返して、やっと相手の真意が分かるのだと思う。

まあ、「面白い」で形容されてしまう自身も未熟であるかもしれないし、そういう言葉でしか表現できない相手の陳腐さも勿体ないかも。

あえて僕が「面白いひと“探し”」をしている、その志を批判するとすれば。
「面白いもの」なんて見方次第で、それは“いまある現状の面白さの開拓”を怠っていることにも繋がるんじゃないかなあ、と感じた。

かといって「面白い」を探すのは決して悪いことではないし、「異質」を認める覚悟を持ってして探していくべきだと思う。
ただ「異質」を認められないまま「面白い“探し”」をしていると、結局は「自分の価値観の中だけの面白い探し」にしかならない。
「異質」の中に飛び込んで化学反応を起こした結果の「面白い」を見つけているかどうかが、価値のある「面白い」かどうかを決めるんじゃないかな、と。

なんか書いてて、面白法人カヤックが思い浮かんだ。
「面白いもの」探したっていいじゃないか。
楽しくハッピーに生きたい人だっているのだから。
感覚的な勘違いしなくちゃ、切り抜けない景色だってあるのだから(なんか違う)。

ただ、その奥にある、根底にある「問い」をコミュニケーションの中で確認していくことは大事ですね。
生きている人間全員必須、とは思わないけどさ。
決めつけてしまって、幅を狭めてしまうのは勿体ないけど、そういう切り捨てがないと切り抜けない場面もあるかー。

とりあえず、本日11/16は国際寛容デーらしいので、寛容にいこう(もう終わるけど)。