今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

ニューニュートラルな時代の幕開け - turn over?/Mr.Children[感想]

 

 「東京の新型コロナウイルス感染者数が2日連続で100人を下回る」

 そんな毒にも薬にもならないニュースの見出しが速報としてテレビのテロップで流れる。昨日と違う今日を追い求めてマスコミは日本中の観光地を駆け回り密集した観光地の様子を伝える。その状況を「気が緩み始めている」「麻痺し始めている」と捉える人もいれば、「経済が死んでしまう」「我慢して我慢して今なのだ」と口にする人もいる。この日本の状況を楽観的とするか、悲観的とするか、それとも堅実であるのか。一方、世界の新型コロナウイルスの感染者数は日に日に増加していき、1週間あたりの新規感染者数はパンデミックが始まって依頼最多であるとWHOが発表した。物事は、どこの視点から見るかで全く違うものになってしまう、その感覚をヒリヒリとこの事象を通じて感じる日々だ。

turn over?/Mr.Children

 そんな中でもハッピーなニュースはたくさんある。私にとってはMr.Childrenの新曲『turn over?』が発表され、配信リリースが開始されたこともまたそのひとつである。『turn over?』はTBS系火曜ドラマ『おカネの切れ目が恋のはじまり』の主題歌として起用され、初回放送日の9月16日に初めて音源が公開、その翌日17日0:00から配信がスタートした。

 

 リアルタイムでドラマ『おカネの切れ目が恋のはじまり』を観ていて、ドラマのストーリーにも惹かれながら、そのエンディング間近で『turn over?』はボーカル桜井氏の歌メロはじまりで解禁された。“明け方の東京は/しらけた表情で/ボクのことを/見下ろしてる (turn over?/Mr.Children)”のフレーズをはっきりと聞き取った瞬間、久々に気持ちが高揚した。こんなにワクワクして、頬が緩んで、ニヤけてしまう、そんな喜びを与えてくれるのはMr.Childrenだけだな、ぐらいに大袈裟に感じてしまった。彼らの新曲が封切られる瞬間は、いつだって期待に満ちている。

 

 『turn over?』はハッピーなミドルテンポのポップチューンだ。しかし、歌い出しのフレーズからも感じる通り主人公の恋愛に対する葛藤や苦悩が日常と照らし合わせながら描かれている。それはドラマ『おカネの切れ目が恋のはじまり』にも通じているようで、一見ハッピーなコメディ・ドラマのようにも感じるが、ヒロインの松岡茉優が“ほころび”をキーワードに随所で人と人とのコミュニケーションのすれ違い、ひっかかり、価値観の異なりを引っ張り出している。

 『turn over?』も“人生で最大の出会い”“人生で最愛の人”に向けて歌ったラブソングであるが、それは決して大袈裟なものではなく、日常から切り取ったワンシーンのような普遍的な愛の歌なのである。 

turn over?

turn over?

  • 発売日: 2020/09/16
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 アレンジも決して壮大な仕上がりではなく、歌始まりという大胆なスタートを切りながらも軽快な8ビートのドラムに乗せたシンプルなアレンジになっている。特にアルバム『重力と呼吸』でよく感じられたような所謂強く押し出された“バンドサウンド”ではなく、楽器隊でいえばアコースティックギターとタンゴが主軸となってアレンジされているような感じがして、そのせいかバンドサウンドでありながらも主張しすぎないアレンジになっているような印象を受ける。

 このロックではなくポップなMr.Children像はいままでであるようでなかったMr.Children像だと感じていて、『Birthday』『turn over?』ともに最低限のアレンジで、けれど“余白を大事にしている”軽快ながらも輪郭がはっきりと見えてくる音像はニューニュートラルなMr.Childrenの時代の幕開けを感じさせる。

 

 今回のマスタリングは、Sterling SoundのRandy Merrillが担当しており、その影響もあってか、『Birthday』とは全く音の見え方も違って面白い。『Birthday』では広がりのある空間が非常に意識された音像のように感じられた一方で、『turn over?』はより近くに音像を感じられながらも隙間が意識されている。ちなみに『Birthday』のマスタリングはMASTERDISKのScott Hull。2000年代ベスト盤あたりから、Mr.Childrenはマスタリングも外部とタッグを組みながら試行錯誤している様子があるが、この最新の2曲は特にその違いが感じ取れて面白い音源になっていると思う。

 

 歌詞の面でも、『重力と呼吸』を経てからのMr.Childrenは“肯定すること”“認めてあげること”“尊重すること”が根底に潜んでいるように感じる。だから、聴いていてとても前向きに慣れるし、明るくもなれる。暗い部分があるから、明るい部分もある、それはMr.Childrenがずっと歌ってきたことであるけれど、“光”や“陽”といった輝きの側面ではなく、かといって“陰”を映し出すのでもなく、あるがままの形を書き留めることで今を肯定する、そういった姿勢が『Birthday』や『turn over?』からは感じられる。無理矢理な力強さではなく、聴いている側のイメージでより日常に少し彩りを添えるような、そんなささやかなフレーズがいくつも散りばめられている。

 

 リリース済みの『Birthday』『君と重ねたモノローグ』『turn over?』に加えて、既に発表されている『The song of praise』『others』『こころ』『お伽話』『ヒカリノアトリエ』がもしアルバムに収録されるのであれば、そのアルバムはMr.Childrenの新しい基準になりそうな予感がしていて、とてもワクワクしている。『シフクノオト』は、前後のMr.Childrenの時代と比べてひとつのポップの起点になったアルバムだと思っているのだけれど、もしかしたら今度のアルバムもそういった立ち位置のいい意味で“まとまりのない”、そして50歳代の“私服の音(あるがままの音)”を感じられるアルバムになりそうな予感がしています。2020年内に発売されるといいな、なんて思いながら、楽しみに待っています。

明け方の東京は/しらけた表情で/眠れないボクのことを/見下ろしてる (turn over?/Mr.Children)

 ところで、ジャケットアートワークは『tomorrow never knows』をイメージさせる、なんだか飾っておきたいようなアートワークですね。 

 

 

常夜燈と羅針鳥 / PEOPLE1とKitriと[永遠はきらい]

 

 「あとで読み返してから公開するか〜」と思って一晩寝かせるといつの間にか数週間経ってしまっていることがある。2~3週間ぐらい前に書いたものです。相変わらず東京は暑いけれど。

 

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 東京では35℃以上の気温が続く影響で、毎日昼頃になると「猛暑に注意してください」とスマートフォンに警告がでる。お昼を過ぎてしばらくしたあたりで防災行政無線から「光化学スモッグ注意報が発令されました」と街中にアラートが鳴る。「不用意な外出はしないようにしましょう」という警告で、家に閉じこもる理由だけが増えていき、半ば強制的に隔離されたこの空間が自分の意思と相反しているような気さえして、窓辺から射し込む太陽の光とは裏腹に陰鬱な空気が思考を纏った。

 春先に雪が降った記憶も、全国的な緊急事態宣言下にあったゴールデンウィークも、雨が思ったよりも降らなかった6月も、1ヶ月以上前の話で、じとじとと終わりのない雨の季節から抜け出した東京は、降り続けた雨を蝉の鳴き声に変えて“予定されていなかった夏”を幕開けた。

 2020年夏、本来ならオリンピックが東京では開幕され街中には様々な人種が行き交っていたはずだった。それが開催が延期になっただけではなく、日常の様相も昨年までとは違った形で我々は“予定されていなかった夏”を迎えた。さて、我々は来年どのような夏を迎えるのか。予想することが楽しくなるような未来が来ることを、願うばかりだ。

 

 そんなこんなで、最近すごく素敵な音楽を見つけたので紹介したい、です。2020年に出会った音楽、としていいはずだけどいつどんな形でこの音楽たちに出会ったのかは覚えているものもあれば覚えていないものもある。が、備忘録として記憶の限り書いていきたい。 Twitterで呟けば、瞬間的に消費できるけど、好きなものはできるだけ言葉にする訓練を行いたいものですね。

常夜燈/PEOPLE 1

 未だにその全容が明らかになっていない音楽家PEOPLE1によって発表された『常夜灯』は “天国に学校はあるかしら(常夜灯/PEOPLE1)”という一文から始まる。絶妙なリズムとスタッカートにのせて歌われるAメロは、どこか物悲しい気にもさせながらも男性の優しい歌声をMVの女性のリズムにあわせて踊るアニメーション、そしてささやかでやわらかなフィンガークラップが物語の魅力を引き立てる。


PEOPLE 1 "常夜燈" (Official Video)

 スマートフォン推奨の縦画面MVでは、女性が画面いっぱいに かろやかにステップを踏む。その軽やかな踊りにあわせてPEOPLE1は歌う。

“皆は君の/君は神様のせいにする/その神様の歌声は/今じゃよくあるコンビニの放送(常夜灯/PEOPLE1)”

  なんて素晴らしい歌詞なんだろう、なんて素敵な表現なんだろう、とこのフレーズを見て思った。恥ずかしいぐらいにちゃんと考えたこともなかった、“神様”という存在。でもその存在は、今じゃ物事の評価の際の形容詞として使われるようになった。ヒット曲は漏れなく神曲として崇められて、色とりどりの神様の歌声のラインナップが有線で流れるだろう。

 神様は誰のそばにもいる身近な存在でもあり、祈りや願いの類、その心の拠り所としても存在する。皮肉のようにも聴こえるこのフレーズは、その後に続く“みんな優しさを受容して/そっと心に釘を打つの(常夜灯/PEOPLE1)”という歌詞を考えると、もしかしたら「自分でばかり抱え込まずに、なにかに逃げたって、なにかのせいにしたって構わない」ということを歌ってくれているのかもしれないとも思える。

 

 楽曲を纏う音色はどんどん温度を増していき、ドラムやピアノがくっきりとしたリズムを刻みだす。その輪郭を顕にしたまま、物語はサビへと向かっていく。アニメーションの女性が“よーいどん”と言わんばかりの動きで駆け出した先で歌われるフレーズは、私がもっともこの楽曲で好きなフレーズでもある。

“この世界には/未来がキラキラと/みえる人もいるというの(常夜灯/PEOPLE1)”

  「ああ、こんな風な世界の捉え方があったか」とすごく感動してしまった。いまの自分自身の状況を表現するときに自分自身の“暗さ”を表現することや、周りの“明るさ”を表現することで相対的にどちらかの光陰を想像させることはあると思うのだけれど、この楽曲は“みえる人もいるというの”という、まるで噂話のような、仮定を歌っているのだ。

 これにはいろんな解釈ができると思っていて、「人間は自分自身のことしか認知できない」以上、他人がこの世界をどう捉えているか、も含めて「自分自身」である。そう考えたときに、そりゃそうなのだが「誰かがこの世界をキラキラと見ている」ことも断定はできないわけであって、「あの人にはキラキラみえている“らしい”」というのがどちらかというと“自分視点”に置き換えたときの真実なのである。だから、このフレーズからは「自分にはこの世界はキラキラ見えない」という心境と「でもキラキラみえるという見方もどうやらあるのか」という希望も垣間みえる。そのいつも心に灯り続けている希望や不安が、常夜燈なのではないだろうか。

 

 PEOPLE1の常夜燈は、そんな誰もの心のなかにある不安や希望に寄り添い続け、何度も何度も聴きたくなってしまう楽曲だ。特に楽曲だけではなくMVも非常に素晴らしくてアニメーターや振り付けなどもクレジットにいれているところから、この世界観を表現するために色んな思いが込められていることを感じる。特に2度めのサビからのMVの展開、感想での女性の動きは本当に映像作品としてもとんでもなく素晴らしいものだと思う。どちらが前にでても、どちらを表現の主語にしても、遜色ないほどにお互いがお互いの作品・クリエイターを支えていると感じる。そしてこの楽曲を何度も聴いているうちに、楽曲そのものが聴き手にとっての常夜燈になっていることに気付かされるのだ。こうやって音楽に感動できる時間があとどれだけ続くかな、できる限り心の機微を感じ取れるよう、暗すぎて見失わないよう、心のなかに灯す常夜燈は、たくさん見つけていきたいな、と思った。

 

常夜燈

常夜燈

  • 発売日: 2020/07/28
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

羅針鳥/Kitri

  楽曲そのものは2019年に発表されたもので、Kitriというユニットは度々聴いていたけれどどこかのタイミングでこの『羅針鳥』を何度も聴くようになった。仕事終わりの帰り道で聴いていた思い出があるから、自粛前だったようには感じるが発表されてから時間が経ってから聴き始めたような気がする。


Kitri - キトリ-「羅針鳥」 Rashin dori Music Video [official]

 Kitriは姉妹ピアノ連弾ボーカル・ユニットで、楽曲のほとんどのプロデュースを大橋トリオが手掛ける。だからか、全体的に感じる雰囲気に大橋トリオっぽさはあるものの、驚くほどにKitriの楽曲はその世界観と調和している。

 『羅針鳥』は、姉のモナが作詞作曲を手掛けた楽曲でマイナー調の構成が物憂げな雰囲気を醸し出している。どこか懐古的な、ノスタルジーを感じさせながらも、かすかに鳴るドラムのキックの音が物語の前進を感じさせる。Kitriのふたりは、“「ここから始めます」と言えるような曲を作りたかった”と述べていて、まさにその言葉に象徴されるとおり、いままで霧がかかっていた森の中が一気に開けるようにサビが展開されていく。

ここからはじめまして/あなたは羅針の鳥/ひたすら胸の中の/音を頼りに飛んでいけ(羅針鳥/Kitri)

  Kitriはピアノを基調としたユニットではあるものの、この『羅針鳥』では、シンセや管楽器など様々な楽器が取り入れられ、それぞれの音色が啀み合うことなく織りなすことで生み出される幻想的で美しい世界観に、道案内をしてくれるようなピアノの音色が仕掛けになっている。

 幻想的で森の中に迷い込んでしまったような音像に重ねられるふたりの透き通るようなコーラスは、本当に靄の中に光を差すようで、この楽曲を聴いていると未来に少しだけ自信を持てるような気がしてくる。

 決して力強いボーカルではないのだけれど、楽曲の世界観に寄り添うように敷かれた歌声はそっと背中を押してくれるような安心感を与える。クラシックとポップが入り混じったこの世界観の中で、ふたりの歌声はしっかりとそのふたつを繋ぎ合わせることに成功している。

 いまあるこの世界が、少しでも新しく切り開かれていくものであるように、新世界より鳴る音に耳を傾けながら、その方向に飛んでいきたい。

 

 ちなみにこちらも『羅針鳥』と同アルバムに収録されている『細胞のダンス』という楽曲ですが、より彼女たちのピアノの連弾がシンプルに際立った楽曲です。コーラスとピアノ、そのシンプルな構成がKitriの魅力を最大限に引き出しながら、決して明るくない世界感と変則的な旋律が脳に違和感となって残りKitriから戻れなくなってしまう。


Kitri - キトリ-「細胞のダンス」 "Saibo no Dance" Music Video Full Version [official]

 

Kitrist

Kitrist

  • アーティスト:Kitri
  • 発売日: 2020/01/29
  • メディア: CD
 
 あとがき

 とか、なんとかいろいろ書いているけど、とりあえずこの2曲はとても好きなので、ただそれが言いたいだけだった。あとで書き足すかも。(といって書き足さないパターン)

 

 おまけ - 永遠はきらい/上白石萌音

 と、書いたのが数週間前でございまして頭の中でこの記事のことがずっとぶら下がっている中で「どうせだったらあの曲も」というものがあったので紹介します。

 

note (初回限定盤)(DVD付)

note (初回限定盤)(DVD付)

  • アーティスト:上白石萌音
  • 発売日: 2020/08/26
  • メディア: CD
 

 

 上白石萌音の『永遠はきらい』という楽曲。どこで出会ったかさっぱり記憶にないが、おそらくサブスクリプションサービスが巡り合わせてくれたような気がしている。はじめて聞いた時、正直な感想としてプレイボタン一発目のブレスからの透明感のある、けれど質感もしっかりある歌声に引き込まれたし、“神様/お疲れ様”ってキーワード、反則的でしょ、と思いました。そしてキラキラと弾けるように鳴るギターが主役のイントロ。なによこの、高揚感とポップさと輝きが混じったリフは。

 私はこの楽曲、詞・曲ともにとても大好きなんですけれど、まさかの全く別々のクリエイターがつくっているんですよね。どちらが先でどのように組み立てられていったか、インタビューもなさそうなので想像もできないのだけれど、とにかく詞・曲がお互いに補い合っている最高の形だと思う。

 

 まず歌詞についてとても若々しく、瑞々しい。“ミレニアルに生まれた鼓動”といった直接的に若さを感じさせるAメロからはじまり、サビでは“頬につく/ご飯の粒/直接/今なら食べてもいいよ”という胸ときめきキュンキュンフレーズが仕掛けられている。「これは上白石萌歌が直接書いているのか?そうしたらとんでもない才能だな」と思い、作詞作曲を調べると、YUKIであった。年齢を引き合いにだすのもよくないのは承知の上でですが、40代後半でこのフレーズがでてくるって、とんでもない才能だな!!

 そしてこのフレーズをサビに持ってきたというクリエイターの能力もとんでもない(もともとここをサビに指定されていたのかはわからないが)。だって“ご飯の粒”がサビなんですよ?かつてそんな曲ありましたでしょうか?しかも、おふざけじゃなく、こんなに青さを感じさせる美しい旋律の楽曲で。

 かつでレミオロメンの代表曲『粉雪』のサビで歌われる“こなーゆきー”に対し、Mr.Childrenの桜井氏がレミオロメン藤巻氏との対談で「粉雪、という一見柔らかく感じるフレーズをサビに持ってきて、あんなに張り上げて歌う発想がすごい」といったような趣旨のことを語っていた。それと同じことを思い出した。“頬につく/ご飯の粒”が、こんなにも美しく情景豊かに青々しく、そして胸を時めかすフレーズとして表現することができるのか、と。

 詞曲どっちが先立ったのかわからないけれど、とにかくこの歌詞をサビに持ってこようとしたクリエイターがとんでもなくすごいよ……。

 

 この楽曲を作曲しているヨルシカのN-Bunaもとんでもない才能の持ち主ではありますが(とにかくアレンジが凄まじいし、詞の世界観や上白石萌歌の個性を最大限に引き出していると思う)、YUKIの歌詞の表現力が素晴らしい楽曲だと感じた。『永遠はきらい』というタイトルにも表れているとおり、彼女の哲学的な思考が瑞々しく弾けているように思った。上白石萌歌の楽曲をこれきっかけで様々聴くようになったが、いちばん彼女の個性が活かされている楽曲なんじゃないか、いまのところ。

 

 大抵楽曲提供って提供する側の世界観にひっぱられることが多いと思うのだけれど(例えば大橋トリオ上白石萌音に提供する『Little Birds』なんかはザ・大橋トリオを感じる)、『永遠はきらい』でヨルシカN-BunaとYUKIが提供する楽曲の世界観はプロデュース側に徹して、上白石萌音を目一杯に立たせているのがすごい。ヨルシカの楽曲もいくつか聴くけれど、仮にセルフカバーしたとして全く世界観の違うものになっているだろうな、と思う。

 

 いま、たまたまあるアルバム発売にあわせて公開されていたN-Buna側のインタビューを発見したのだけれど、どうやら曲先で、あとから歌詞をつけたらしい。ますますYUKIがすごいな……。ていうかYUKIがめちゃくちゃすごいんだな……。とんでもない才能だな!!

 

神様/お疲れ様/どうやら/まだ/私生きているみたい/頬につく/ごはんの粒/直接/今なら/食べてもいいよ(永遠はきらい/上白石萌音

 


上白石萌音 - 「永遠はきらい」Music Video

 

 ところで今はじめてMVを見たんですけど、これは正解なんですか?(世界観に混乱している)

 

 

自己の喪失

 

 深夜。冷めた感情に身を任せたまま。駄文。

 

 いくつかの文章を振り返る中で、小川洋子さんが『物語の役割』というエッセイの中で記されていた『ほんとうに悲しいときは言葉にできないぐらい悲しいといいます。ですから、小説の中で「悲しい」と書いてしまうと、ほんとうの悲しみは描ききれない。言葉が壁になって、その先に心をはばたかせることができなくなるのです。』という文章を思い返し、ここ数日救われている。

 

 とはいえ、私自身の中になにか悲しい出来事が起きたわけではなく、日々は淡々と続いている。

 あえて、その言葉になぜ救われたのかを書くとするのならば、この言葉で表現しようのない感情の正体がまるっきり掴めそうにもないから、ただひたすらに文章にしようと思えたことだ。

 言葉を撒き散らすことで、思考が整理されているのかどうかも把握はできないが、幾分すっきりする節もある。

 

 タイトルで“自己の喪失”と書いたけれど、それは「私とは何者であるのか」を問うものではない(書き終わってから気づいたけど、結果的に問うものになっていた)。ここ数年、「私とは何者か」「何者かになろうとして悩む人が増えている」とよく聞くようになった気がする。勝手な印象であるけれど、インターネットやSNSが普及するにつれ、「(では)私は何者であるのか」と考える人が増えたように思う。

 それは推測であるけれど、それまでの時代では接することのある著名人という存在が“遠い存在”であったことに対し、現代では“まるで身近な”存在が「なにかしらの者」になっている現象が起きているからだと思う。少し広い視点でいえば、「インフルエンサー」という存在は一見なにをなしているわけでもないように見えて、その言葉だけで誰かがなにかであることを抽象的に理解できる存在だ。狭い視点でいえば「フォロワー数がいくつ」という指標ですら、その人が何者かを示す糸口になっていることもあると思う。

 Instagramがいいねの数を表示するのを廃止したように、人々は「自分」と「誰か」を比べることで、「私が何者であるのか」を証明しようとするし、「相手が何者かである」ということを感じてしまったりする。

 「少なくとも私は何者かである」ということが、自己の存在を認めることに繋がり、安心感を得られているんじゃないかと思う。

 

 話は脱線するが、こういった話を書くときに、度々思い出すのが学生のときにグループでおこなった「あなたが人生でもっとも重要だと感じるものを高いものから並べ替えなさい」という問いかけで、なんかたしか8つぐらいあったんだけど、優先度が最も高いものに「他者から認められること」をあげている人が多かったのが印象的に残っている。私がそのときなにを最も優先度の高いものにしたのかは覚えていないのだが、「他者から認められること」は8つの中では結構低めにだした記憶がある(その理由が大事なのだが、当時を思い出せない)。「ああ、みんな誰かに認められることで自己の存在を認めているんだな」とその時に“勝手に”感じた気がしている。

 

 さて、話は戻り、仮に現代人が「私は何者か」を探し求めてSNSの海の中を彷徨っているのだとしたら、私はなかなかそこについていけないな、と思う。

 「私は何者か」を気にしたことがないと言いたいわけではなく、むしろずっと問いかけているし、「何者にもならなくていい」なんて風潮は気休めでしかないと思っているのだけれど、じゃあこのインターネットの中で「私は何者であるか」を誇示するために活動ができるのかと言うと、それはInstagramがいいね数の表示を廃止したように、右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても、きっときりがないからだ。

 

 「自己の喪失」と書いたのはそういうことで、「何者であるか」を他者から認められることで自己を得ようとする行為は、結果的に“自己を喪失”しているのではないかと思った。

 私はここまで生きてきた中で明確な人生の設計ができていない。アスリートではないからオリンピックを目指していたわけでもないし、どこかのチームに所属することが目標で活動してきたわけでもない。引退後にコーチになるか、タレントとして生きていくかといった選択肢があったわけでもない。(なんか変な喩えを書き続けている気がする)

 つまりは私は明確に“ここ”という場所に向かって歩いてきたわけではないので、それなりにひたすらに“山頂”は目指して山登りを続けながら、昨日よりはいい景色を見ながらなんとか生きてこれているわけだが、ここにきて「本当に山頂はあるのか?」「これが本当に山頂なのか?」「もしかしてもう下っているのではないか?」とか考え始めているのである。

 

 そう考えると、“登っていること(正しく登っていることが証明されること)”そのものは、本当はさして重要ではないのだ。

 いや、勿論明確なゴールを見据えてそこに向かって歩いていくことも重要ではあるのだが、それ以上に大事なのは……と書いたところで思考が詰まった。勢いに身を任せながら書いていたので、幾分「ああ、いま自分はこんなことを考えているのだろうな」というのは見えてきたのだが、「では結果大事なことなのはなんなのか?」はまだ言葉にならないようだ。

 

 それ以外に私がいま考えていたことでいうと、「例えばあなたの人生を全肯定してくれる存在があるとしたら?」ということである。

 もしも、私がこうして自身を見失っているときにそれまでのすべてを肯定されたら、それはそれで足元を照らす光になることに違いはないだろう。しかし、それは本質的な解決策ではなく客観的に考えたら文字通りそれは“照らされている”にすぎないのだ。人は人を照らし合いながら生きていると思っているから(東野圭吾が小説の中で描いたように「生きているという事実だけで誰かを救っていることがある」)、勿論その“照らす行為”そのものはとても重要なことであるし、現状誰かの失敗を一斉に叩く行為の中で例えそれが失敗であっても「あなたのしたことは間違っていない」という言葉は、その人の自己を保つことのできるきっかけになり得るだろう。

 

  と、書いているところで風呂に入ってきたら自分がなにを言いたいのか多少見えてきた気がする。

 

 つまり“他者によって自己の存在を得よう”とする行為は“他者依存”が強すぎるために自己と他者の境界がなくなり自己の喪失とも言える危険性があるなと思うのだが、そうではなく他者は自己を発見するための“ツール(という言い方は無機質だが、きっかけや手がかり、とも言い換えられるかも)”であると考えたときに、そこに光明が指すのではないかと思う。

 風呂に入りながら考えていたことは、私自身は自己を他者へそもそもほとんど開示しないし(ロックされているレイヤーが多い)、自分自身に対しても開示できていない(解除できていない)深層の心理が多いな、と感じた。

 そうなったときに前述のようにそもそも「他者を通して自己を認める」ことは結構難しく(むしろ容易が故に危険なのか?)、必要なのは少なくとも「自分自身に対する自己の開示(深層心理の解除)」であるのではないかと思った。

 

 山登りの例も、自分で書いておいてしょうもない例ではあると思うが、「どこに向かって歩いているのか」が重要なのではなく、「その行動は自分自身にとってどのような影響を与えているのか」を常々フィードバックできるかどうかが大事なのではと思った。

 全肯定してくれる存在も、“全肯定”というまやかしのキーワードが本質をぼやけさせてしまっているが、そもそも自分はなにを肯定してほしいのか、という“状態”があるはずだ。その自身の心の機微を感じ取ることで、気づいてあげることで、自身という存在が明らかになっていくのではないかと思った。

 「私は何者であるのか」を問うことは非常に重要であると私は思うが、それは「他者によって何者であるかを認められること」を指すのではなく、「自身に対する自己の開示(解除)がどこまで行えるのか」ということなんじゃないかと思った。

 

 けど、それをしたところで「はて……ではこの感情の正体と行方は?」という問いかけが私自身にいま生まれたので、きっと自身の根本的な解決には至っていないなと思ったのと、これって結局ジョハリの窓と言っていること変わらんのでは?と立ち返った。(まあ、そもそもフレームワークが広いのであてはまるか)

 把握した自己という構造を、どのように肯定してあげるのかが、その上で課題になってくるのかな、とか考えた。

 

 うーん、ひさびさに自分の頭の中のことだけ書いたな……。

 

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

  • 作者:小川 洋子
  • 発売日: 2007/02/01
  • メディア: 新書
 

 

 

くだらないことを書く@超雑記シリーズ2020/07/20

 よくあるお昼の散歩番組で、ゲーム性のあるしいたけ狩りをしていた。3人で競い合っていて、ルールは簡単。「200gぴったりになるようにしいたけを採ってください」というものだった。袋に詰めたしいたけは、一度採ったらもとには戻せない。3人はそれぞれ200gを目指してしいたけを採った。

 しいたけ狩りの測定で、重量計に3人がそれぞれしいたけを乗せていく。3人が3人「うわ〜〜〜採りすぎたかな?採りすぎたかも!」とリアクションをしていた。その発言を聞いた時、頭の中でなんの気無しに「そりゃそうだよな」と思った。けど、なぜ自分が「そりゃそうだよな」と思ったのかは理解できないまま、番組を見続けた。

 結果、3人中2人は200g以下で、1人は200gぴったりを当てた。誰も“採りすぎて”いなかったのだ。

 

 その後、どうして自分は「そりゃそうだよな」と思ったのかを考えた。

 しいたけ狩りに参加していた3人は「200gに近い人が勝ち」という“200gの基準(ボーダー)”を設けられていることと、「採ったら戻せない」という“制限”があった。

 そう考えると、採る人間としては「200gに達成するように」と頭の中で巡らせながら考える。つまり「200gに達しない」ということは基本的には考えない気がした。そう考えると、頭の中で200gを目指しながら不可逆な収穫を行う場合、「まだ200gじゃないかな?」「もう少しで200gかな?」と考えながら作業をするわけで、結果的には「200gぴったりである!」か「200gを越えてしまったかもしれない」という思考に至ることしかないんじゃないか、と思った。

 

 が、あくまで推論なので、この実験を行って、参加したうちの何%が「採りすぎた」と感じたのか、「採らなかった(≒200g以下だった)」と感じるのかを測定したい。また、被験者同士はお互いに意見を交わし合わないものとする。※「君、少なすぎるのでは?」など思考にバイアスのかかる発言がかわされる可能性があるため。

 

 などなど、くだらないこと考えている週末であった。

 ここ数回の日記(ブログ?)を読み返して見たら、だいぶ思い詰めた(思い詰めてはないが)ものが多かったので、くだらないことを書くにあたり1ヶ月半ぶりにHatena Blogに向き合ったわけだが、日曜日中に書こうと思っていたものが流れに流れて月曜日に。(大して流れてないか)

 夜の散歩中に「よし!今日は書くぞ!」と強い気持ちを持って帰宅したのであった。

 

 それにしてもオリジン弁当ののり弁が300円ちょっとって安すぎますよね。オリジン弁当やっていけてるんですか?大丈夫ですか?比べてないけどもしかしてセブンイレブンより安くないですか?

 でも、オリジン弁当がピンクの看板から少しデザインを変えたのは大正解だったと思います。(でも、とは……?)ピンクの看板の弁当屋ってなかなか食欲が湧きにくかったんですよね。ピンクで食欲が湧くものってなにかあります?桃?

 ていうか“ORIGIN(原点)”って意味強くですぎじゃない?

 

 だいたいこのブログはいつも書こうと思って書き出してからまとまるまで1〜2時間ぐらいかかるのだけれど、今回はひたすらにくだらないものを書こうと思ってやはりそれぐらいの時間はかかるものだな、と思った。(とにかくこのことを書こうと散歩中に頭で考えていた)

 けれど初期の自分の文章を読み返すと、当時もそこそこ時間をかけて書いていたはずが、今と比較すると随分稚拙だったりするので書き続けることで変わることもあるんだなあ、とぼんやり考える。特に改行がないのがひどい。

 

 前のブログでも書いたように、STAYHOMEをしていると(はじめてSTAYHOMEって使った)、本を読んだり音楽を聴いたりをあまりしなくなってしまうため、通常であれば、紹介したいものに紐付けて自分のあれやこれやを語るのだけれど、そういうわけにもなかなかいかない。

 

Birthday/Mr.Children

 強いていえばMr.Childrenの“Birthday”がいかに素晴らしかったを書いていなかった気がするので、少し書こうと思う。(今度単体で書いたときに文章をごっそり移行するかも)

Birthday/君と重ねたモノローグ

Birthday/君と重ねたモノローグ

  • アーティスト:Mr.Children
  • 発売日: 2020/03/04
  • メディア: CD
 

  まずジャケットが非常に素晴らしい。実際のジャケットは紙ジャケットなのだけれど、これはポスターを見るとわかるのだが、東京都内?から見据えた青空のいち部を切り取った青となっている。なにを隠そうこのシングルのアートディレクターは奥山由之さんである。

 奥山由之さんの“BACON ICE CREAM(ベーコンアイス クリーム)”は頭の中がぱんぱんに詰まったときにぼんやり眺めていくと、塊が解けて、ばらばらになっていく感覚があるので、ぱらぱらとめくったりします。

 奥山由之さん自身がジャケットのデザインを動画で紹介しているものが以下より。

 

Yoshiyuki Okuyama(奥山由之) - Mr.Children | Facebook

 

 私は“Mr.Childrenらしさ”というのがそれぞれの世代が思う像があるように多面的にあると思っていて、その集大成が『Reflection』というアルバムだと思っている。その後に続いた『重力と呼吸』というアルバムは、“バンドとしてのMr.Children”を強く押し出したもののように感じていて、ある種“宣言”のような、強いアイデンティティを感じた作品だった。特に『皮膚呼吸』という楽曲は桜井さんの心の内側を吐露するような、ヒリヒリとする無視せずにはいられないメッセージ・ソングに感じた。

 一方でこの『Birthday』はどうか。私は、いままでの“Mr.Children”らしさを振り切った“新しいMr.Children”が生まれたと思っている。あえて例えるなら『IT'S A WONDERFUL WORLD』期に持っていたMr.Childrenの若さ(青年性)は感じるのだけれど、ここに来てまた“若い芽”がでてきたような印象だ。

 ストリングスを用いながらも、誇張しすぎず主張しすぎないアレンジ。イントロで重なるアコギとストリングスに、軽すぎず重すぎもしないのにタイトめなキックの音。桜井氏のボーカルも熱量を持ちながらも、前にですぎていない。『重力と呼吸』のときから感じていたけど、あまり高い音程で動き回りすぎないようになった気がしている。張り上げているように聞こえる『Your Song』ですら、きっともっと高い音がだせるのに控えめだし。

 しかし『重力と呼吸』ではボーカルに“重み”があったのが、『Birthday』では軽快に歌っている。これはすごく良い意味で、なぜ『IT'S A WONDERFUL WORLD』を引き合いにだしたかと言うと、あの時期の桜井さんもフラットに歌っている楽曲が多いように感じるんですよね。(まあ、Bird Cageとかあるから一概にはいえないが)当時は“作家性”を極めようとしていたこともあり、楽曲によってボーカルの見せ方をより使い分けようと作為的にやっていた点は多かったのかな、と。

 例をだすなら、『youthful days』の軽快さを思い出したのです。

 

 だから聴いていてとても心が若返っていったし、思わず笑ってしまった。楽曲を聴いてこんなに嬉しい気持ちになったのは何年ぶりだろう、と嬉しくなった。

 『皮膚呼吸』のような楽曲はやはり共感性も高く、自分と重ね合わせながら心の奥深くまで言葉が沈み込むのだけれど、『Birthday』はそういった論理を越えて“あの頃”へ連れて行ってくれる楽曲だと思った。「まだまだこんな風に若くいれるのか」と、若い人たちに合わせるのではなく、彼ららしくいながら「こんなにも風を切って前に進めるのか」と感動した楽曲でした。

 『Birthday』ならびに『君と重ねたモノローグ』は「映画ドラえもん のび太の新恐竜」の主題歌です。

BACON ICE CREAM

BACON ICE CREAM

  • 作者:奥山 由之
  • 発売日: 2016/01/30
  • メディア: 大型本
 

 

猫ちぐら/スピッツ

  そんなこんなでMr.Childrenの『Birthday/君と重ねたモノローグ』の感想を書こう書こうと思っていたら、スピッツの新曲まで発売されたのでした。

 音楽を聴く機会が減っていると言いながら、このSTAYHOME期間中(STAYHOME2回目の発言)は、スピッツをよく聴いている。

 やはり『隼』は名盤だなと感じるし、『インディゴ地平線』は名曲だなと感じるし、『さざなみCD』の良さが聴くたびにわかりはじめるこの頃です。 

 

 6月末にリリースされた「猫ちぐら」は、配信限定のシングルで、この自粛期間中にスピッツのメンバーがリモートを活用しながら書き下ろした楽曲だそう。

 『優しいあの子』や『見っけ』あたりから感じていたけれど、スピッツはまた違うステージに進み始めたように感じている。いまのスピッツがとても好き。

 スピッツは一貫して“バンド”を強く守っているバンドだと思っていて、それこそ『ハチミツ』〜『フェイクファー』あたりでは音楽路線についてプロデューサーと方向性でぶつかったりもしたようだけれど、それぞれの時期でスピッツのバンドサウンドって趣向が変わっている気がしていて、『とげまる』〜『醒めない』あたりは結構重めのサウンドだったと感じているんですよね。

猫ちぐら

猫ちぐら

  • 発売日: 2020/06/26
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 一方で『優しいあの子』や『猫ちぐら』なんかは、バンドサウンドを保ちながらも、重すぎず、かといってしっかりと芯のあるサウンドになっている。(そういう意味では「おっ?」って感じ始めたは『みなと』あたりかな。『醒めない』期ではあるけれど……)

 『猫ちぐら』は、イントロのアルペジオとベースのアンサンブルが非常に良い。こんな風に綺麗に折り合うアンサンブルを作れるスピッツは本当に素晴らしい。アルペジオの一方で、E-bow?使っているかな、ギターで伸ばすような音が鳴り続けているのも楽曲の心地よさを醸成しているひとつにポイントになっているように感じます。

 

 そしてなにより『猫ちぐら』で絶賛されているはその歌詞の世界観ですよね。私はサウンドもそうだけれど、『小さな生き物』あたりって“強い主人公像”がすごくあって、いままでのスピッツが描いてきた像と少し見える景色が違ったなと思っていたんですけど、この『猫ちぐら』は、そのフレーズからもわかるとおり、“強がりな主人公像”が表現されています。

 

弱いのか強いのかどうだろう? 寝る前にまとめて泣いてる(猫ちぐら/スピッツ)

 

 “寝る前にまとめて泣いている”というのは、“強がり”を表現するフレーズとしては、非常に秀逸ですよね……。

 この不器用さが描かれた世界観が、スピッツの真骨頂とも思ったりするので、いまから既に次のアルバムが非常に楽しみです。(2022年あたりか……何度も言うけど『変身』を音源化してほしい……)

 

 では、今日のくだらないはここまで。(更新頻度あげたい)

 

産まれて死ぬまでの予行演習@超雑記シリーズ2020/06/01

 死ぬ時に誰かに側にいて欲しいものかと思う。想像をすれば、もしも安らかにこの人生を終える時が来るのならば、その隣に誰かの姿があれば救われることもあるのではないかと思う。靄のかかりはじめた眼の前の景色と意識に、風前の灯火がいままさに消えようとするその瞬間に脳が味わうのは、刹那か幸福か、その答え合わせは私が脳波でも測られている最中に死なない限りは真偽も不明で当人が知ることもない。いつこんな思想が育ったのだろうか、孤独では死ねないのか、孤独とはなんなのか、その問いに常にまとわりつく死という概念は私たちを試すようにほとんど光のない夜空で思考の旋回をさせ続ける。

 

 命が限りあるものだと気づいたのはいつ頃か。宇宙も無限ではなく有限だと知ったのはいつ頃か。限界、という言葉を感じたことは何度あるのか。年老いた脳には記憶だけが蓄積され続け、目の前の景色は記憶と比較されながら色褪せていく。形あるものはなにひとつとして残るものはない、と経験が呼びかける。風化する記憶に、ラベリングして忘れないようにする。そのうち、埃を被った記憶がいくつも増えて取り出す為の鍵すらも忘れる。ああ、自分は何者なのか。

 

 保険のCMで大変恐縮なんですが、このCMで使われている北原白秋作詞の「この道」が最近とても心によく沁みる。特に歌唱している阿部芙蓉美さんの歌声は、優しくてなだらかで、なめらかで、聴いていてストレスがない。


「幸せの道~行ってきます」篇60秒

 

 Wikipediaによると(という引用が良いのかはわからんが)、“北原白秋が晩年に旅行した北海道(1-2番)と、母の実家である熊本県南関町から柳川まで(3-4番)の道の情景が歌い込まれている。”そうだ。「この道」とはどの道か?という項もあり、具体的にどの場所について綴られたかまで明記されている。

 産まれた場所と、晩年を過ごした場所、そのふたつを結びつけた「この道」という歌は、その生涯を振り返るものであったのかと思う。もしも私がいつの日か生涯を振り返るときに、思い浮かぶその景色はどこであり、それを何処と結びつけるのだろうか。

 

 年老いること、その不明瞭な未来に向かって強制的に時の風に背中を押されていること、私がなにに喜びを感じ、悲しみを抱くのか、私という心の形が微かでも見えるようにと、私は新しいと思えるものを探す。わかりやすい答えで人生を埋め尽くしてしまわないように。(と、書いては見たもののシンプルな答えはとても大事だし、好き。)

 

 「この道」を歌唱している阿部芙蓉美さんの楽曲で好きなのはいまのところ『青春と路地』です。


青春と路地 - 阿部芙蓉美

 

 COVID-19(新型コロナウイルス)の脅威によって外出を制限された私は週末になるとだいたい自転車を漕いでいます。過ごしやすい室内の設計にしてこなかったせいで、読書もままならず、音楽もままならず、映画も観ては見るもののハマらず。見ざる聞かざる言わざる状態です(?)。

 街を走り回っていると、東京に何年も住んでいたはずが、知らないことがたくさんあって驚く。特に感じるのは、どの町も過ごしやすそうだなあ、ということ。その町々で特徴があって、個性があって、色があって、商店街がある。住宅街に立つ建築物の雰囲気も違えば、すれ違う人たちの雰囲気も違う。ああ、ここに住んだらどんな生活を送るのだろうと想像しながら、あとで物件を探してみたりする。

 もともと散歩するのは趣味だったのだけれど、やはり電車移動でその町を指定していくのと、自転車でぶらりぶらりとなんの気なしにいろんな町を見て回るのとでは、脳に対する刺激が違うものだなと思った。

 僕はこの町のほとんどというかその大半を知らずに死んでいくのだろうし、どれだけの人たちと同じ時代を生きているものか、とも思う。本当にたくさんの暮らしがあるね。誰もが元気で暮らせていられればいいのにな。

 

 CMで言うと、最近「ゼスプリ」のCMが話題ですね(話題じゃない?)。このCMを歌唱されている岩崎愛さんもとてもオススメです。CMに影響されてキウイを買いました。


ゼスプリ キウイ TVCM 2020「好きなことを楽しみながら」篇 60秒 歌詞付き

 

 私は東野圭吾の著する『容疑者Xの献身』で最も好きな台詞は(ちょっといますぐ本が手に取れないためうろ覚えの記憶書きですが)、「人はただ生きているだけで誰かを救っていることがある」というフレーズなのですが、やはり私はそのとおりだと思っていて、もちろん誰かを傷つけていることもあるとは思うのだけれど、それと同時に、誰かを救っていることもある。その人の生きている姿だけではなく、生きているという事実が、活動しているのだという事実が、誰かの救いになっているということはあると思う。

 こうやってつくられたCMや、歌や、それだけではない画面の向こう側の誰かの活動が、きっと誰かの人生を少しだけでも支えていると想像したら、その生活を崩すことなんてできないよな。

 ていう想像してたらさ、ずっと間抜けに生きていけんだけどな。

 

 ああ、ソラニン聴きたくなってきた。


映画『ソラニン』予告編

 

生誕の災厄

生誕の災厄

 

 

 

終末のナイトサイクリング@超雑記シリーズ2020/04/03

 春を目前にして東京には雪が降った。空気中の汚れを純白のドレスで纏った氷の結晶は、風のないせいか、まるで空から垂直に落下してくる様だった。コンクリートに打ち付けられた瞬間に、その温度差で瞬く間に液体と化していく景色は、目に焼き付いてすぐ記憶の藻屑となって、これから来る新しく忙しい季節に一掃されてしまった。無意味にシャッターを切ったスマートフォンのカメラロールを見返して、その痕跡を辿りながら、あやふやなあの日を思い出す。この作業に、意味はあるのだろうか。

 

 日記をいつの間にか、90日以上も書いていなかったことを「この広告は90日以上更新のないブログに掲出されます」というテキストで知る。気を抜くとすっかり更新が止まってしまうのだな。気持ちはいつでも月一、週一を心掛けたいのだけれども。書きたいことがあっても、中々アウトプットする作業が捗らないことってあるよね。

 

 世間は気がつけば新型コロナ(COVID-19)一色に染まってしまった。1月に報じられた“海の向こうのニュース”は、目の前の実生活にまで結びつき、日々の生き方までも変えてしまった。もしかすると、この「外にでることのリスク」が死ぬまで続いていく日々もあるのかも、と想像してしまう程に。

 なんとなく2020年の1月に書いたブログを読み返していたら「世界が少しでも幸せな方向に向かっていきますように」と綴られていて、思う通りに、願う通りに、世界はいかないものだなあ、とも思った。

 日々の生活のなかで、いまはその瞬間瞬間を感じていて、「その瞬間より前」を思い出しながら、「誰がこのような事態を予想していただろうか」と事あるごとに呟いたりしている。

 

 人間の意識は、社会性と密接に結びつく。「外にでてはいけない」という言葉だけではなく、「実際に外にでていない」という“実感”を伴って、その意識が書き換えられていく(ように感じている)。実際に外出自粛が“できていない”人の話を聞くと、それはやはりシステムがそうさせてしまっている側面も感じるし、そうさせている以上、その人の意識は書き換えられない。自分が誰かを傷つけてしまっているかもしれないという想像力は、ある種利他的な行動であるし、「自分さえよければ」と考えている人がその行動をとれる可能性は低いと考える。

 自分の頭の中で人間は常に選択を繰り返している。選択は経験に基づき、その判断は意識より前に脳が判断しているとも云う。(そうなの?)

「意識による判断の7秒前に、脳が判断」:脳スキャナーで行動予告が可能|WIRED.jp

 まあ、調べているうちになにが言いたかったかを忘れてしまったのだけれど(笑)、人間の意思決定は潜在的な意識で既に決定されているのであれば、その人が“AとBをどのように天秤にかけているのか”“そのAとBはなにか”ということはシステムがコントロールできることではないから、判断ではなくルールで規制しないと、いま本質的に求められている“不要不急の外出”を浸透させるのは中々難しいよなあ、特に短期的に、と思った。だからこそ“自粛”という表現なのかもしれないけどね。

 

 アランの『幸福論』が大好きなのだけれど、アランはとてもいい事を言っていて(そしてとてもシンプル)、「人の精神は運動と密接に関係している」「運動しないと精神もネガティブになっていってしまうよ」って書いている。(引用するのが面倒なので記憶からの超意訳だけど)

 この自粛ムードの中、きっといろんな人が「コロナ」という情報の洪水の中で精神的にも身体的にも動けずに思考が鈍化してしまうことがきっとあると思うから、できる限り“動く”ことは心掛けていきたいなあ、と思っている。

 

 震災のことを引き合いにだすのは不謹慎かもしれないけれど、震災のときみたいな空気感があるのを個人的には感じていて、すごく嫌だな、というのを正直なところ思う。

 それは「確実に明るい未来」は待っているのに、そして時間が今を癒やしてくれることはわかっているのに、この状況下でどんどんと想像力が鈍ってしまう危機感を抱いている。

 できるかぎりこうやって言葉を吐き出したり、音楽や本などの文化にふれることで、想像力を働かせていきたい。心も身体も健康でいてほしいし、健康でいたい。

 そのためには、できるかぎりの想像力を働かせて、ちょっとずつでも心をストレッチしながら、希望を探すことを、諦めちゃいけないな、と思う。でも流されたっていいと思う。適当でよい。

 

 本当は、Mr.Childrenの新曲『Birthday』がとんでもなく良かったこととか書きたかったんだけどなあ。気持ちが10歳ぐらい若返る素晴らしい曲だった。下手したらここ数年でいちばん好きかも、ってぐらい。

 音楽や物語は、新しい刺激を連れて、想像の向こう側へ連れて行ってくれる素晴らしい“なにか”だと思います。

 

 最後に。

 そんなわけで(?)最近とてもいい曲を見つけたので、こんな状況下で、たまたまこのブログを読んでくださっている方にシェアします。

 

 今日もご無事で。

 

youtu.be

 

 このブログを「あの頃」と振り返ることのできる、その日が一日でもはやく訪れることを願って。

 

世界が明日も続くなら

世界が明日も続くなら

非常にはっきりとわからない/目[mé]@千葉市美術館

 

 2019年内に記録を残そうと思っていたが間に合わなかった。どうにも年を越す時の実感が年々すり減ってきてしまっていて、それは私が接触する姿勢に関する問題なのか、そうではなく大晦日や、年越しといった概念に対する私の距離感の問題なのか、パソコンの横に置かれたセイコー電波時計が1/1を刻んでも、特に心変わりはない。

 とはいえ、いまの私にとっての年末年始は有難いことにまとまった休暇をとれるタイミングでもある。散らかったままの部屋を散らかったままにしながら、たまに片付ける程度だったが、この休みにある程度片付けをはじめた。とにかく片付けたいと思ったものは、ひたすらにベッドの上に並べていったのだが、もとに戻す場所がないモノで溢れて困っている。そんなタイミングで感じたのが、自分の心の狭さだった。

 不思議なことに、「部屋を片付ける」という行為はどうにも心の整理ともつながっているような気さえする。また、適当に片付けるのではなく、考えながら、心と一緒に部屋を片付けることが、思考や心の整理につながっている気がする。

 タイトルに「非常にはっきりとわからない/目」とつけておきながら、関係のない話を続けるが、ここ数ヶ月、どうにも自分が不調な気がしていて、現実は微妙にうまくまわっていて、トラブルもないのだが、どうにも不調な気がしていた。そしてその不調は周りで移ろいゆく環境や人にどこか認められない自分がいることにも通じているような感覚があった。

 低空飛行で飛んでいるとはまたちょっと違っていて、思考が深く進まない浅い状態がずっと続いているような感覚があった。「あれ、このままだとダメな気がするんだけど、なにがダメかわからないな……」といったような、砂漠の中をちゃんとした装備でひたすら歩き続けているような感覚。なんとなく部屋を整理していたら、その不安材料が少しずつ見えてきて、ただまだ地図上に宛先は見えてこないような状況だと思った。いったいどこに行けば、自分の心が喜んだり、驚いたりするのかが、はっきり言ってわからない。

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非常にはっきりとわからない/目[mé]@千葉市美術館

 というわけで、唐突に「非常にはっきりとわからない/目」の話に入ります。

 説明は受けた気がしないのですが、一部ネタバレ禁止と云われていることもあるらしいので、ネタバレ含みます。(もう千葉市美術館での展示終わってますが)

 

 千葉市美術館の7階と8階を使って行われた本展「非常にはっきりとわからない」は国内外で大きく注目を集める現代アートチーム「目[mé]」の、美術館における初の大規模個展です。目のプロフィールを千葉市美術館のHPより以下にて引用。

 果てしなく不確かな現実世界を、私たちの実感に引き寄せようとする作品を展開している。手法やジャンルにはこだわらず、展示空間や観客を含めた状況、導線を重視。現在の中心メンバー(アーティスト荒神明香、ディレクター南川憲二、インストーラー増井宏文)の個々の特徴を活かしたチーム・クリエイションに取り組み、発想、判断、実現における連携の精度や、精神的な創作意識の共有を高める関係を模索しながら活動している。

 “果てしなく不確かな現実世界”を“手法やジャンルにこだわらず、展示空間や観客を含めた状況”と書かれている通り、我々観客を含めて“作品”となる展示であった(もしくはその観客が存在しない状況を描写することによっても“作品”となり得るだろう。ただし“ない”が“ある”によって成り立つように、“存在しない”が先立ってはこの作品の魅力は半減するように思う)。

 施設(というかフロア)全体がインスタレーション作品として展開され、作品名もなにもない(あるとすれば「非常にはっきりとわからない」か?)フロアの中を我々はさまよう。「なにを見れば良いのか?」「どこを見ればいいのか?」「なにを考えればいいのか?」「はたまたその逆なのか?(見ない、考えない)」などといった問いが鑑賞者の中で様々に浮かんでは消える。

 

 平日の昼過ぎ(おやつの時間ぐらい)に行ったのだが、その日でも入場まで30分ぐらい並んで待ったように思う。それぐらいの人気展示だったのだろう。どこでなにを見て彼らがここに足を運んだのか定かではないが、その鑑賞者も様々で若い人からお年をめした人、観光客から大学生っぽい人まで、老若男女様々であった。故に、感想も様々である。

 作品のスタイルが故に、みんながフロア中でぼそぼそと会話をしている。この展示で素晴らしかったと感じたのがおそらくネタバレを禁じるが故であると思うが撮影が禁止だったのである。そのため、鑑賞者は撮影をせずに作品と向き合う必要性がでてくるのと、「それがなんなのか?」を考察しないと、その場が完結しない為、周りの人たちと語り合いをはじめるのだ。そしてそのほとんどが、作品について語っていることが多く、反対するわけではないがそうではない美術館も多い中で、ある意味“制限された中における求められた(予定された)多様性”を感じた。

 その感想は様々で「えっ、なにこれ作品の展示作業中で開館しちゃいましたみたいな雰囲気」「何回も見てたらなにがなんだかわからなくて気持ち悪くなってきた」「時計の針が動いているものと動いていないものがあった」「あの台の上に人がいた!けどあっちにはいなかったはず!」といった、多分文章にすると「なんのことを言っているの?」といったような統一性のないものになっている。

 

 ネタバレをはじめると、この展示は7Fと8Fでまったく同じ風景が広がっている。風景のコンセプトはおそらく「作品の展示作業」であり、おそらく70%~80%完成しているような作品の展示風景が“この展示における100%”なのではないだろうか。

 しかし、だいたい30分から1時間おきに、作業員(アーティスト)があらわれその70%を50%あたりまで戻していく作業をはじめる。鑑賞者に「すみません、作業するんでどいてください」といって声をかけながら、カーテンをしめたり、鑑賞可能エリアを閉じたり、作品にカバーをかけたりしだす。するとどうだろうか、さっきまで7Fと8Fは同じ風景だったが、今度は7Fは未完成、8Fは完成といったような錯覚に陥ったりする。またその作業員たちは、50%から70%~80%に戻す作業をはじめる。するとさっきまでの7Fの風景が8Fの風景、またその逆になったりする。

 この7Fと8Fの行き来は4台のエレベーターのみだ。つまり、「エレベーターが移動している」と信じ込んでいた我々は、その見ている風景によって7Fと8Fを記憶していたはずが、記憶が頼りになってこない。つまり「エレベーターは本当に移動しているのか?」といった問いすらもでてくるようなレベルに再現度が高いのだ。(まあ、実際は売店がある/ないでわかるんですが)

 だいたい作業が10~15分ぐらいかけて行われているので、ほとんどの人が最初は7Fと8Fのちょっとした違いに気づくはずだ。その後に、「もしかして、違っているところになにか作品の伝えたいヒントが?」と思いながら、別のフロアに移動する。すると別のフロアがまた作業をはじめていたりするものだから、結局なにをどう見て良いのかわからなくなってくる。この知覚の混乱がこの作品のひとつの“我々に与えるもの”である。

 だからこの私がとても素晴らしいなと思ったのが、この作品はみんなが口々に感想を語り合うわけだが、そのどれひとつをとっても「正解」になることである。そして誰も「こうなんだよ」といったことは云わない。なぜなら「こうである」ということが言えないから、「こうなのではないか?」というヒントを与え合う、というコミュニケーションが発生するのだ。

 


目  非常にはっきりとわからない

 

 我々が普段見ているものは、モノなのか、空間なのか。我々なにをもってその存在を認知するのか。この作品が我々に見せたかったのはモノか、空間か、もしくは感覚なのか。モノや空間、我々が知覚できるものは知覚させるためのツールでしかなくて、実際に我々が感じているのは知覚を通して、である。そう考えると、「なにをとおしているか」は関係なくて「なにを与えられているか」がこの目[mé]にとって重要なことだったのではないだろうか。

 作家はしばしば「なにをとおしているか」を重視し、「なにを与えられているか」は鑑賞者、受けての自由としているが、そうではなく、「なにを与えられているか」から考えているのが目[mé]の目論見なのかな、と思いました。

 

 「非常にはっきりとわからない」という感覚はそうそう得られるものではない。わからないの輪郭はわからないから、わからないことがたいていである。輪郭がわかるのなら、そこから紐解いていけるはずだからだ。だから、言語化してしまうと、この「非常にはっきりとわからない」は「わかる」か「わからない」のどちらかだろう、と言えてしまいそうなものなのだが、この目の展示を見れば、「わからない」ことが「非常にはっきりとしている」状態があることをしっかりと感じさせるのだ。

 その感覚は、例えるなら稚拙ながら前段で述べさせてもらったような“砂漠の中をちゃんとした装備でひたすら歩き続けているような感覚。”である。安心安全、おそらくこのまましばらくは歩き続けられるだろうなという感覚が自分の中にありつつも、自分がいったいどこに向かっているのかを知らないまま歩き続けてよいのか?(ただ大抵がそうであるはずだ)という疑念にもなりきらない微妙な感覚だ。凡庸であることは悪いことではないが、凡庸であることには漠然とした納得のいかない感がある、今の私には。ああ、なにを言っているんだろう。

 

 と、いうわけで、2020(1010以来の合成数)は20が2回並ぶので、良い年になるといいですね。愉快に幸せのそばで笑っていたい。

 どうかみなさま、そして世界が幸せに向かって進んでいきますように。

 

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