今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

産まれて死ぬまでの予行演習@超雑記シリーズ2020/06/01

 死ぬ時に誰かに側にいて欲しいものかと思う。想像をすれば、もしも安らかにこの人生を終える時が来るのならば、その隣に誰かの姿があれば救われることもあるのではないかと思う。靄のかかりはじめた眼の前の景色と意識に、風前の灯火がいままさに消えようとするその瞬間に脳が味わうのは、刹那か幸福か、その答え合わせは私が脳波でも測られている最中に死なない限りは真偽も不明で当人が知ることもない。いつこんな思想が育ったのだろうか、孤独では死ねないのか、孤独とはなんなのか、その問いに常にまとわりつく死という概念は私たちを試すようにほとんど光のない夜空で思考の旋回をさせ続ける。

 

 命が限りあるものだと気づいたのはいつ頃か。宇宙も無限ではなく有限だと知ったのはいつ頃か。限界、という言葉を感じたことは何度あるのか。年老いた脳には記憶だけが蓄積され続け、目の前の景色は記憶と比較されながら色褪せていく。形あるものはなにひとつとして残るものはない、と経験が呼びかける。風化する記憶に、ラベリングして忘れないようにする。そのうち、埃を被った記憶がいくつも増えて取り出す為の鍵すらも忘れる。ああ、自分は何者なのか。

 

 保険のCMで大変恐縮なんですが、このCMで使われている北原白秋作詞の「この道」が最近とても心によく沁みる。特に歌唱している阿部芙蓉美さんの歌声は、優しくてなだらかで、なめらかで、聴いていてストレスがない。


「幸せの道~行ってきます」篇60秒

 

 Wikipediaによると(という引用が良いのかはわからんが)、“北原白秋が晩年に旅行した北海道(1-2番)と、母の実家である熊本県南関町から柳川まで(3-4番)の道の情景が歌い込まれている。”そうだ。「この道」とはどの道か?という項もあり、具体的にどの場所について綴られたかまで明記されている。

 産まれた場所と、晩年を過ごした場所、そのふたつを結びつけた「この道」という歌は、その生涯を振り返るものであったのかと思う。もしも私がいつの日か生涯を振り返るときに、思い浮かぶその景色はどこであり、それを何処と結びつけるのだろうか。

 

 年老いること、その不明瞭な未来に向かって強制的に時の風に背中を押されていること、私がなにに喜びを感じ、悲しみを抱くのか、私という心の形が微かでも見えるようにと、私は新しいと思えるものを探す。わかりやすい答えで人生を埋め尽くしてしまわないように。(と、書いては見たもののシンプルな答えはとても大事だし、好き。)

 

 「この道」を歌唱している阿部芙蓉美さんの楽曲で好きなのはいまのところ『青春と路地』です。


青春と路地 - 阿部芙蓉美

 

 COVID-19(新型コロナウイルス)の脅威によって外出を制限された私は週末になるとだいたい自転車を漕いでいます。過ごしやすい室内の設計にしてこなかったせいで、読書もままならず、音楽もままならず、映画も観ては見るもののハマらず。見ざる聞かざる言わざる状態です(?)。

 街を走り回っていると、東京に何年も住んでいたはずが、知らないことがたくさんあって驚く。特に感じるのは、どの町も過ごしやすそうだなあ、ということ。その町々で特徴があって、個性があって、色があって、商店街がある。住宅街に立つ建築物の雰囲気も違えば、すれ違う人たちの雰囲気も違う。ああ、ここに住んだらどんな生活を送るのだろうと想像しながら、あとで物件を探してみたりする。

 もともと散歩するのは趣味だったのだけれど、やはり電車移動でその町を指定していくのと、自転車でぶらりぶらりとなんの気なしにいろんな町を見て回るのとでは、脳に対する刺激が違うものだなと思った。

 僕はこの町のほとんどというかその大半を知らずに死んでいくのだろうし、どれだけの人たちと同じ時代を生きているものか、とも思う。本当にたくさんの暮らしがあるね。誰もが元気で暮らせていられればいいのにな。

 

 CMで言うと、最近「ゼスプリ」のCMが話題ですね(話題じゃない?)。このCMを歌唱されている岩崎愛さんもとてもオススメです。CMに影響されてキウイを買いました。


ゼスプリ キウイ TVCM 2020「好きなことを楽しみながら」篇 60秒 歌詞付き

 

 私は東野圭吾の著する『容疑者Xの献身』で最も好きな台詞は(ちょっといますぐ本が手に取れないためうろ覚えの記憶書きですが)、「人はただ生きているだけで誰かを救っていることがある」というフレーズなのですが、やはり私はそのとおりだと思っていて、もちろん誰かを傷つけていることもあるとは思うのだけれど、それと同時に、誰かを救っていることもある。その人の生きている姿だけではなく、生きているという事実が、活動しているのだという事実が、誰かの救いになっているということはあると思う。

 こうやってつくられたCMや、歌や、それだけではない画面の向こう側の誰かの活動が、きっと誰かの人生を少しだけでも支えていると想像したら、その生活を崩すことなんてできないよな。

 ていう想像してたらさ、ずっと間抜けに生きていけんだけどな。

 

 ああ、ソラニン聴きたくなってきた。


映画『ソラニン』予告編

 

生誕の災厄

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