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映画:おおかみこどもの雨と雪[ネタバレ]

うーん・・・登場人物の“花”が理想の女性すぎて、心が辛い。
「〜が可愛すぎて生きるのが辛い」ってネタがあるけれど、まさにそんな感じで。
花が理想の女性すぎて、現実に戻ってくるのが辛いよ・・・。

映画を観た人たちの「いい!」という感想に背中を押されて期待を膨らませて観にいった。しかし、期待を膨らませ過ぎて空気がしょぼぬけてしまった(どんな日本語)。SWITCHを買って、宮崎あおいの朗読CD聴きまくって、好感触ではあったのだけれど。

SWITCH Vol.30 No.8 ◆ 細田守『おおかみこどもの雨と雪』はこの世界を祝福する

SWITCH Vol.30 No.8 ◆ 細田守『おおかみこどもの雨と雪』はこの世界を祝福する

▼鏤められた引っ掛かり、そして細田守監督が伝えたかったこと
各所で突っ込まれている所だとは思うけれど、「えっ?」って疑問に思う点が物語の中で何度もあってうまく物語についていけない点があった。それを映画の“余韻”と言うのであれば、いいのだけれど“余韻”に浸るだけの材料が映画の中に用意されていない。例えば、おおかみおとこの父親が死んでしまった理由、とか。なぜ、ゴミ収集車(っぽいの)に運ばれてしまったの?とか。花の両親の反応ってどんなだったの?そんなすんなりいったの?中退の決断ってどんなだったの?オオカミだからって予防接種しなくていいの?とか。小学六年生にしては自我がしっかりしすぎてない?とか。山の主の跡継ぎってなによ、君、具体的になにをするの?責任って?とか。

細かい所が多々、気になってしまって、きっとそういう“フィクションの部分”に目を瞑ることで楽しめる作品なんだろうけれど。日常の範囲を出ない域、リアリティのある物語の展開を目指している様に感じる中でスルーされてしまう引っ掛かりが気になってしまった。
ただ、監督が伝えたかったことの為に削ぎ落とされたのだと思えば、と考える。

じゃあ、細田守監督が「おおかみこどもの雨と雪」で伝えたかったことってなんだろう?

“人は生き方を自由に選べる”ということだろうか。
“親と子の絆”だろうか。
“生き方を捨てる覚悟”だろうか。

▼日常への没頭と、登場人物の葛藤描写の少なさ
いずれにせよ、“日常”という空間が繊細に描かれていたので世界観に没頭することはできたけれど、逆に空間以外の、花、雨、雪、それぞれの登場人物に感情移入してグッとくることができなかった。
2時間の大衆向けの映画を目指した、ということを無視すればもっと個人のディテール、思いの描写を映して欲しかった。
例えば、花が自然出産に至るまでの葛藤とか、夫婦の心の揺れ(さすがに最初から“よし自然出産で産もう!”というほど強くなかったでしょ?)とか、雪や雨は不登校になったわけだけど、その心の揺れももう少し描いてほしかった。

ただでさえ「オオカミ」と「人間」の間を彷徨う、っていうファンタジーを含んでいるのだから、「そうだよなあ、その気持ちわかる。。。」っていう状態まで心を持っていくのは難しい。
「人に言えない秘密」というのは誰もが抱えているものだとは思うけれど、じゃあ、小学生が、そういう「秘密」を抱えてしまったときに抱く感情の迷いというのはどういうものなんだろう?
その感情の迷いの描写が表れているのが「おみやげみっつ、たこみっつ」を何度唱えても効かない、という点や「不登校」という拒否行動だったりするのだろうけれど。
じゃあ、もっと、不登校になってからの落ち具合、みたいのも知りたかったな、と。なぜ雪の殴ってしまった男の子、草平は雪に惹かれていったのか?秘密を言わないという決意が生まれた理由は?

なんでもかんでも説明してしまう作品はつまらない。
でも子供たちが精一杯楽しく、強く、健やかに生きていく描写がたくさんあったのに、悩む描写がなんとも、材料が少ない気がした。

雨の性格、と言ったらそれまでだけど、もっと母親と衝突してほしかった。花はあれだけで納得いったのだろうか?いつかまた戻ってくると思っているのかな。勿論、そうであってほしいけれど。

▼映画の物語の中に、そこら中にある“愛情”
一方で、それぞれのキャラクターの愛は目一杯感じた(現実にあり得るかどうかは別として、世界に没頭いている僕はそういうの気にならなかった)。
こんな風な時間がずっと続けばいいのに、と思うし、二人とも人間としてうまく生きていって欲しいのに!と思ったし、それぞれの優しさに胸を打たれたし、とくに花や雪の人を思う強さは、理想だなあ、素敵だなあ、と思ったし。
そういう意味で、ああいう理想が本当にあるのかどうか分からないけれど、少なくとも僕は現実に戻ってくるのが億劫で映画をみたその日中は少なくとも戻って来れなかったし、夢見てばかりいる男になっちゃう危険性も孕んだりする。

そういう意味で、観る側も目一杯愛を注いでいるのに、なんとなく問題がおざなりになったまま話が進んじゃって・・・心中で「もっとちゃんと話し合って!喧嘩でもいいから!」と思った。葛藤が少なかった。
もっと観る側も苦しみたかった。画面の向こう側で察することのできない苦しみが漂っているだけだった。喜びだけ分かち合って、苦しみは隠されちゃった感じ。

▼「しっかり生きて」までの苦悩
「しっかり生きて」と花が雨に言うシーンはとても象徴的だと思うのだけれど、そこに至るまでの雨と花のぶつかり合いが少なすぎる。少なくともあれだけ愛情を込めて生きてきた花が、ずっと「雨が去ってしまうんじゃないか?」という動揺に駆られていたにも関わらず、目覚めてすぐにそんな簡単に心の切り替えができるのか、と。
雨だって相当悩んだはずだ。小学生だから自分勝手という見方もできるけれど、あの一度振り返って前を向きなおしたシーンは、いままで迷いがあったからこそ、じゃないだろうか。そうすると僕らは「雨も相当悩んだんだろうなあ・・・」とかは思えるけれど、肝心の悩んでいる期間の描写が「学校をサボる」「兄弟喧嘩」ぐらいにしか現れてなくてなんとも。

でも、ほんと、なにより、花に救われた映画だったし、花が素敵すぎて、現実に戻って来れない映画だ。
とんでもないことを言えば、おおかみこどもである必要あったかな?とかも思ってしまうな。
あれは花でなければ物語そのものが成立しないので、花はあれでよかったんだと思う。

▼生き方の選択、親と子の絆、生き方を捨てる覚悟、そして想像、歩く
少なくとも“生き方”については“選択する自由”を与えた花の素晴らしい決断の成果だし(ちょっと旅立ちが早すぎたが)、“親と子の絆”はきっと切っても切り離せないものだろう(子から親への恩返し、みたいなものは当たり前だけどなかったね)。

“生き方を捨てる覚悟”というのが、僕が個人的にこの映画で最も印象的な葛藤かもしれない。
ただ、何度も言うけど、もう少し決意を掘り下げてほしかった。
例えば、雪は草平にオオカミであることを打ち明けるけれど、「草平のこと好きなの?」かどうかによっても大きくその意味合いは違うし(まあ、もちろん好きなんだろうけれど)、「草平の孤独感」みたいなものも情報でしか伝わって来ないし(頑張って、あんなに愛してたかーちゃんが迎えに来ない!っていう状況ぐらい)。

でも人は選択をするうえで、なにかを犠牲にしなくてはいけないし、それは花も、雪も、雨も、あるいはおおかみおとこも同じことだった。
その選択が分かり易く、かつ重く、強く伸し掛かり、片一方を捨てることで前に進める。
その先で、彼らがなにを得たかは、想像しよう。

物語とは直接関係がないけれど、こんな言葉を見つけて、この映画の伝えたかったことと似ているような気がしたので引用。

あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である(ヴィクトール・フランクル)

▼余談
そうえいば、同じ角度(もっと言えば当事者視点?)から様々な描写を映したシーンが多いのも面白かった。
オープニングの人の流れ方とか、グラフィックとか多少雑に感じたりしたけれど、“撮り方”“見せ方”は「サマーウォーズ」や「時をかける少女」にはなかった新しい試み、実験があったんじゃないかな、と思う(アニメ業界にとって新しいかは分からない)。
あとは、雪が草平に姿を打ち明けるシーンとかね。草木、周りの静物が動いている場面とか、“リアリティのあるアニメーション”という部分にはとても拘って作られたんだなあ、と。ただ“リアリティ”に拘っている割に、絵として魅力的な場面(広大な景色とか)が多くて「リアリティはあるけれど、日常ではなく非日常じゃない?」と思ったりも。
魅力的なシーン、カットが多かったのでは、と。

余談だけれど、最後のエンディング曲が映画にあっていない!ピアノと声を聴いた瞬間に「ジブリか!」と思わず突っ込みたくなった上にクレジットみたら「作詞:細田 守」って「ジブリか!」と再度突っ込みたくなりました。思えば、映画もなんとなく「トトロか!」ってないか。。。
音楽は素敵なの多かった。音楽でグッと入り込めるシーンも多かったし。山を駆けるシーンなんかは、爽快感あった。


あと、、、


おおかみおとこの死因が仮に“寿命”だとすると、それを知らない花は、雪は、雨は、とても残酷な現実を叩きつけられることになるんだな、とか。
兎にも角にも、オオカミと人間の間を彷徨う彼らにとって過酷のはきっと、これから先のことだと思った。