今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

感動について。

人は感動する。

花火が夏の夜空に上がって光となって夜を裂いた時。
大好きな音楽に酔いしれて、ふとした瞬間に気付かなかったフレーズが胸を打った時。
伝えたかった事が伝わった時。

情報は細分化する。

君が本を読んでいる時、僕はラジオを聴く。
彼が煙草を吸う時、彼女はピアノを弾く。
Mr.Childrenが好きな人、嫌いな人。

多種多様になった感動の要素。

と言う事は、同じものに感動する、というのは中々なくなった。
なくなった、というのは語弊があるかもしれない。
今も昔もそうかもしれない。

Aの事柄について感動を共有することのできる2人は。
Bの事柄についても感動を共有できるとは限らない。
ましてやAの事柄について感動する部分は違うから、A-1について感動する人とA-2に感動する人がいるかもしれない。

だから、感動の共有って言うのは思ったよりも貴重なものなのだと思う。
好きなものほど「ここのここがいいんだ!」ってあると思う。
だから、より感情が籠るし、より感動する。

その共有部分を多くの人と、多くのモノで出来たらいいって思うけど、人それぞれ感性は違うから、「違う人と多くのモノ」を共有することはできるかもしれないけれど「君と多くのモノの感動」を共有することは難しいのだと思う。

僕の中にしかない感動は、一生誰にも知れないものかもしれない。
でも「感動」という言葉で纏めてしまうにはとても御粗末で。
出来るなら分かり合って、理解しあって感動を共有したいものだ。

でも、感動ってそんないちいち理屈で考えるもんじゃないから。
「あれ、楽しかったね」「面白かったね」「泣いちゃった」
だけでいいのかも。

シンプルだからこそ、感動し、共有しあえるものなのかもしれない。