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イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに@森美術館

この個展を見る一週間ぐらい前にジャン・ミシェル展を見に行ったのだけれど。
どうにもピンと来なくて。
感性が腐ったかなーとか思っていた。

展覧会について | イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに | 森美術館

しかし、今回のイ・ブル展は最高に面白かった。
言葉にすると陳腐かもしれないし、芸術作品にそんなものは要らない、という人もいるかもしれないがやはり僕は「メッセージ性」を含んだ作品のほうが好きだ。

今回の個展の中でイ・ブルは「死」についても語っていて、「私にとって死というテーマはいつだって私を憂鬱にさせる、しかし、それらと向き合うことも必要であることは分かっている」というようなことを語っていて、やはり作品にも生命の儚さとか危うさとか妖艶さみたいなものが漂いつつ、散らばりつつ、集合体となっていたりした。

個展の途中ではイ・ブルの作業場の再現が見れるのだけれど、これを見たときに感じたのは「芸術はセンスじゃなくて技術」だな、ということだ。
頭の中にある創造性をいかに具体化して、現実に生み出せるか。

語ることは芸術じゃない。
語る芸術はない。

考えることも芸術じゃない。
考える芸術もない。

それらをいかに現実に落とし込む技術があるか。
そこが重要なんじゃないかな、と。
いくつもの試行錯誤が重ねられた「秘密を共有するもの」を見て感じた。

この個展最大の見所も「秘密を共有するもの」だろう。

作品が作られた年も解説に書かれていて、その都度テーマを変えながら作品と向き合っているのも楽しかったし、面白かったし、やっぱり技術、実力、想像力、すべてにおいて優れている人だと感じた。
その時代にあった、その時代に対抗した作品を産み出せる強さがあった。

例えば「永遠の生」を求める時代に対し、それらが遠く儚いものであることを訴える作品もいくつかあった。
ユートピア、それはいつでも手が届きそうな場所にある。手が届くそうだから、誰もが強く望むが、それらに届くことは決してない。そのことを知ったとき、絶望した人たちに伝えたい」のようなことも書いてあったかな。

サイボーグと名づけられたシリーズはどれも片足がなかったり、片腕や頭がなかったりと不完全なものばかり。
人は人でしか要れない、それ以上は望めない。
それなら、僕らに必要なことは「共有すること」なのだと、そんな風に感じた。

生きること、社会、世界、宇宙、までテーマがマクロ化していき、最終的には「秘密を共有するもの」でミクロな部分に落ちてくる。
数十年ともに過ごした愛犬が口から反射鏡を吐き出している。
そこに映し出されてるのは鏡に映った街の風景や訪れた人々の顔。

僕らは生について真摯に向き合い、死という概念を恐れなくちゃいけない。
恐れる先で必要なのは、その恐れを延長させることではなく、共有すること。
その共有の一部こそが、今回の個展で「私からあなたへ、私たちだけに」ではないかと感じた。