ガラスの動物園@シアターコクーン
シアターコクーンにてシスカンパニー公演「ガラスの動物園」を観劇。
- 作者: テネシーウィリアムズ,Tennessee Williams,小田島雄志
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1988/03
- メディア: 文庫
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作:テネシー・ウィリアムズ
演出:長塚圭史
翻訳:徐 賀世子
出演
SIS company inc. Web / produce / シス・カンパニー公演 ガラスの動物園
劇作家テネシー・ウィリアムズの出世作となった「ガラスの動物園」を長塚圭史による演出で。
出演はたったの4人だけれど、そのほかに身体全体を灰色で覆ったダンサーが8人いて舞台上でゆらゆらと風のように、セットを移動させながら空気のように漂う。
「ガラスの動物園」は不器用に生きる家族の物語だ。
母アマンダも、娘ローラも、弟のトムも、同僚のジムも、そして姿を現すことのない父さえも。
そして、普遍的な物語であると僕は思う。
決して偏屈で特別な家族の物語じゃなくて。
誰もが生きる家庭での物語なんだと思っている。
だから、僕はアマンダにも、ローラにも、トムにも、ジムにも、共感して胸を打たれた。
アマンダが子供の為に自分の人生を犠牲にし、その為の責務を兄と娘に背負わせることも、ローラの期待に応えられない自分の弱さにより臆病になっていく姿も、トムの家族のための人生か、自分のための人生かを葛藤する姿も、ジムの不器用で実直な生き方も。
人はささいなことに希望し、ちょっとしたことで脆く崩れ絶望に陥る。
でも、ガラスの動物園の登場人物たちは決して絶望なんかしなくて。
傷つけながら、傷つきながら、不器用に希望へ向かおうとする。
もう枯れ果ててしまったはずの希望に何度も意味を見出そうとする。
それは、もしかしたら悪あがきかもしれないし。
なんの意味も持たない行為かもしれない。
現にこの作品のオチは、その行為が正解であったかどうかは示してない。
ただただ不器用に生きる家族が描写される。
この演劇は、トムの追憶から始まる。
つまり瑛太の独白から始まるのだけれど。
これがすごかった。
トム(瑛太)の独白にすっと気持ちを持っていかれ。
舞台にすぐ感情移入することができた。
そして、アマンダ役の立石さんの自然な演技がまた素晴らしかった。
まるで自身の母を見ているかのように、自然体に煩わしい役柄を演じていた。
「もういいよ、やめてくれよ」という瑛太の気持ちがよく伝わるボールをしっかり投げていた。
深津絵里演じるローラの気弱さもすごく切なくて。
不器用な感じが伝わるし、あと一歩と思わせる、決して絶望ではない冷たい氷の上に立たされているような。
幼さと冷たさが表裏した演技を見せてくれた。
そして、後半で活躍するジムこと鈴木浩介。
この物語の中で唯一ポジティブな空気を放ってくれる存在。
空気を壊すことなく、そして、ポジティブな優しさが伝わる、観客に訴えかける暖かな言葉たちと前向きな力がしっかり伝わってきた。
今回の演技の見どころはきっと舞台のセットもあるだろう。
少し斜めった構成と8人のダンサー。
静寂の演出の仕方など、うまく飽きさせずに、そして心がすーっと楽に持っていかれ、程よい心持ちで観ることができた。
肩の力がものすごく抜ける。
ただ、ダンサーがなにを表現しようとしているのか、っていうのはすこしひっかかった。
演劇中偶に、そんなことを考えると集中力が切れてしまったりする部分もあり。
しかし、それにしても。
よかった。
もっと観てたい、と思った舞台でした。