インターネットにおける責任の所在、について
インターネットの時代。
インターネットコミュニケーションの象徴かの如く開かるSNS。
当たり前だけれど、いつの時代も文明の恩恵と発展は問題を引き連れながら成長していく。核エネルギー然り。
twitterをやり始めて、ある感覚が顕著になった。
それは、僕らはこの時代において責任感というのをどこに抱えているのだろう?そして、どうやって処理しているのだろう?
インターネットに接続していれば、勿論プロバイダと契約を交わすわけだから氏名住所電話番号は確認を取られるわけだけど、基本的に自由に徘徊が出来る。
そして、本人のやり方次第ではいくらでも匿名となれる。
▮twitterのRT
twitterには、RT(リツイート)という機能がある。
フォローしている誰かが呟いた事柄を、自らのフォロワーに自身を通してもう一度呟ける、というもの。
まず、この行為だけでも「リツイートした側は、リツイート元に責任がいくと思っているから、リツイートした側の意見、共感であっても、責任感を伴って発言していないように見えるから好きじゃない」という意見を以前見たことが或る。
そういう人は「RT@〜」と書いて呟きをすることで、自身のアイコン、自身のユーザーIDが目立つ形で発言が出来る。
公式リツイートすると誰がリツイートしたか?とは小さくて分かりづらかったりするから。
こちらの方が“私は@〜に共感してリツイートした”という事が明確に分かる。
▮非公式RT
公式リツイートと書いたけれど、リツイートには非公式リツイートというのがある。
ここに来ると嫌い、と発言する人もちょこちょこ見る。
非公式リツイート、とは誰かの呟きに対して「たしかにRT@〜」と自身のコメントを付け足してRTすること。
それが連続すると「たしかにRT@〜確かにRT@〜たしかにRT@〜」みたいな形になって、最初のうちは誰の発言が誰の発言に対してか明確なのだけれど、いずれ、もとの発信元がわからなくなってしまう。
その問題点が故、嫌う人もいる。
▮不明確な発言元
「これって誰が言った事なの?」
話をタイトルに戻すと、発言元(発言者)が明確であること、って大切だと思う(とか言いながら、僕も半匿名で生きているわけだけど)。
匿名にしろなんにしろ、経緯は分からないにしろ、せめて誰が発言したのか?というのが分からないと、責任転嫁の繰り返しになってしまう。
責任を伴わない発言は氾濫して、やがてインターネットの感覚が、インターネット外にまで蔓延してきてしまう。
これは、現代だけに言えることじゃないと思うけど。
誰かが問題提起をして、それに誰かが共感する。インターネットはその繰り返しによって、情報が細分化され、責任も細分化されていくものだと思う。
そうなった時に、ものすごくこれはアバウトな考えになって申し訳ないんだけれど、一人一人が抱える責任と言うのがものすごく小さなものになってしまっていくのではないかと。
▮見えない味方
「別に僕だけじゃないですよ、みんな言ってますよ」
見えない大衆が、いつの間にか味方になっている。世論になっている。
勿論、世の中は、世論を味方につけて認められ、地位を得るのだから、方法としては間違っていないのだけれど。
責任を持って、世論を抱えるのと、世論に責任を細分化させるのは違う。
ましてや、その世論が匿名の、情報の氾濫した中のものでは、都合よく切り貼りしたテレビと同じだ。
これからは益々、“責任の所在”が不明確になっていくと思う。
そんな時、どれだけ自分が責任を持って、責任の居場所を確保できるか。
そして、誰かが抱える責任の保管庫(?)から情報を預かることができるか。
それが責任を持って日々を生きていこうとする人にとっては重要になってくると思う。