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対抗文化(カウンターカルチャー)と音楽について

対抗文化とは簡単に言ってしまえば、言葉そのままの通りで
現代の風潮に対して叛骨的な精神、文化を目指すものである。

これに象徴される音楽が“ロック”だった。
所謂“love&peace”の原型。
自由で平等な社会を目指すためにロックスターは声を枯らして資本主義に噛みついた。

反資本主義を訴えるメッセージに同意するドロップアウトした人間たちは、資本家が支配する社会に対し腐敗を訴える。

しかし実際の所は時代の進歩に依存しながらロックスターもステージに立ち、アンプを通し、ギターやマイクを使い、ライトアップに照らされ、派手なショーを繰り返していた。
それって反資本主義なの?

結局の所(とはいえ僕はその時代の音楽業界にいたわけじゃないからわからないが)、時代の風潮にのっかったエセロックスターが反資本主義を訴えながら富に溺れた時代であったように僕は思う。
勿論、政治意識が高かったミュージシャンもいたとは思う。

と、説明が少し長くなったけれど、対抗文化とはこうして生まれた(らしい、僕の知識上は)。

じゃあ、いまの時代に必要とされるカウンターってなんだろうか?

極端な話、「永遠なんてつまんねえよ」「金?おれは金なんかじゃ動かねえ!」「政治クソつまらん」
みたいなのがもともとの対抗文化だったのだ。

しかし、今のそれってもうそこら中に溢れてしまっていないだろうか。
僕らの平和は今、目の前でまさに崩れ落ちようとしてるじゃないか。
果たしてそこで「世界は明日にでも終わっちまえ」と歌う事はカウンターとなりうるだろうか。

無論、「原発反対」と歌うミュージシャンがいればそれはロックだろう。
僕も思う。
今にも終わりそうな世界に対して、「最低だ、畜生」と吐き捨てるのは、それはそれでロックだ。

けれど、その歌を歌う事が本当に今必要とされているだろうか?とも僕は思う。
はたして人々にとって「カウンター」となりうる音楽だろうか?
政治運動を推進するような歌が市場に必要とされているだろうか。

どんどん話が逸れていっている気がするけど、僕は今必要とされている音楽は「日常」が歌える音楽だと思う。
個人的な希望を言えば、まるで風景画を描くように言葉を操って、景色を綴れるミュージシャンが好きだ。

原発反対を訴える為に必要な絵は、原発によって失われた悲惨なメッセージじゃなく。
限りなく当たり前な日常の風景なんじゃないかと思う。

そこから、聴き手は各々のメッセージを生み出していけばいい。

もともと反資本主義を訴えたロックミュージシャンが資本主義に媚売ったのはなにも間違ったことじゃない。
ただ、あまりにもそこから想像される未来が曖昧だった。

もしかしたら、ロックとか、対抗文化とか偉そうに語ってしまったけれど、そういうのとはもっと別の、違う所にある価値観として。
僕は、日常を伝える事が出来る人こそ、今必要とされていて、ある意味では時代に逆行した、僕らが受け取るべきメッセージを含んだ音楽であるように思う。