腑抜けども、悲しみの愛を見せろ/本谷有希子
夢中になって読んだ。
面白い小説というのはなぜか読むのを中断する箇所が見つからず結局一度も目を離さずに読み終えてしまったりする。
暇な証拠でもある。
- 作者: 本谷有希子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/05/15
- メディア: 文庫
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音楽にジャケ買い、というものがあるけれど、本にはタイトル買い、があると思う。
wikiを覗くとこの物語は「ブラックコメディ」という分類がなされている。
正直、あまりその要素は強くないと思う。
最後のオチの部分だけ、捉えようによってはブラックコメディに成り得るオチなのだろうけれど、もう物語にのめり込んでしまったらそう捉える余裕はない(物語に夢中、という良い意味で)。
ここで書く「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」は本谷有希子による中編小説だ。
もともとは演劇から始まり、小説化、映画化された。
戯曲の雰囲気を保ちつつ描かれた描写はとても特徴的で、読んでいて惹き込まれる要素のひとつだった。
この本を読む手が止まらなかった理由として、まさに演劇を見ているかのようだった、ということもある。
両親が事故死した事をきっかけに、姉・澄伽が帰省し、妙に不穏な空気を読み取るもそれ以上は探れない兄嫁の待子、過去に犯した過ちの呪縛から逃れる事の出来ない妹・清深と、自身へ課した責任から自由を奪われた兄・宍道。
それぞれに視点が幾度と移り変わり、それぞれの物語がギシギシとぎこちなく回想され、どの物語もやがて姉・澄伽の現在へと繋がっていく。
この視点の切り替え方とか、演劇でいう照明の感じとか、特に息遣いみたいなものが妙にうまく想像できてしまって、スピード感がある。
物語の中心となるのは、姉・澄伽の「自分は絶対に人とは違う、特別な人間だ」という思いだ。
この物語の中で姉の「(演技に関しての)ダメさ」みたいなものは具体的に書かれずあくまで「周りがダメだと思っている」だけだし、実際そこはあまりテーマになっていないと個人的には思うのだけれど、「自身に過剰なプライドと期待を背負っているだけの、所詮は神頼み、他人頼みの腑抜け感(すべてを捨てた勝負をしない感)」みたいなものは醸し出ている。
その姉が腑抜けだとすれば、そうじゃないもので勝負していく人物が、読後の爽快感を増させる。
しかし「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」の物語の進め方、展開の仕方、描写の仕方は、ぐいぐい引き込まれるもので、爽快感、スピード感のあるものだけれど、一方でそれがゆえに読後にすっきりしすぎてしまう危うさはあると思った。
芸術作品ならではのカタルシス、というか。
「面白い!」に尽きてしまうかもしれない。