今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

「KOIKI/赤い公園」がとにかくすごいこと今更気付いた(感想文)

KOIKI(初回限定盤)(DVD付)

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赤い公園がすごいって今更かよ〜」と思う人がいるかもしれないけれど、実際赤い公園のスゴさに気づいたのは、ここ1週間です。
赤い公園をはじめて知ったのはSMAPの「JOY!!」がきっかけだった。
SMAPの記念すべき50枚目のシングル「JOY!!」の作詞・作曲を担当したのが“赤い公園”というバンドで、とにかく若いバンドで、そんなバンドが、国民的アイドルの50枚目を担当するって、担当した津野米咲もすごいけど、SMAPもすごいなーと思った。
しかも「JOY!!」がこれまた、めちゃくちゃいい曲で…。聴くたびに泣いていた。

どうにかなるさ/人生は/明るい歌でも歌っていくのさ(JOY!!/SMAP)

コード進行とか、メロディーとか、そしてなにより詞が、明るいポップスなのに刹那を含んでいて、今思えば彼女のスゴさはこの曲にも十二分に詰まっていたのだけれど、赤い公園についてアルバムをたまに聴く、ぐらいの感じていた。

そこで、ここ最近発売された「KOIKI/赤い公園」をやっとこフルで聴いて…。

「おいおいおい〜〜〜なんだこの名曲は〜〜〜」と思わず仕事している手をとめてしまった。何回もリピートした。
「JOY!!」の時には気付けなかった、というか、個人的にこの“KOIKI”は彼女たちのいままで以上の“本気さ”を感じるのだけれど、バンドとしての迫力をどの曲以上にも感じた。

とにかくボーカルがやばい。

ボーカルの佐藤千明の歌声が、ぐーっと心に攻め入ってくる。しかも、無理やりじゃなく、聴き手に寄り添う感じなのにパワフルだ。女性ボーカルって、優しい歌声で包むような印象を与えたりする人もいれば、パワフルな歌声でエネルギーを提供する人もいると思うのだけれど、そのどれもと違う。
無邪気、って言葉が正しいのだろうか…。(ってか、KOIKIのPVでのパフォーマンスが最高すぎ!!)メロディーのせいもあるんだろうけど、なんか普通に涙腺を震わせるんだよね。心の内側の琴線にダイレクトに触れてくる。
「JOY!!」でも感じていた“明るいポップスなのに、刹那を含んでいる”という魅力が、佐藤千明の歌声を通すと何倍にも増幅して、メロディーはもちろん、“赤い公園”というバンドが演奏するからこそ、より魅力的にさせる魔法があるのだと思う。

実際「KOIKI/赤い公園」をギターでなぞって弾いてみたりするんだけれど、メロディーセンスもずば抜けている。
コード進行がめちゃくちゃ複雑で、凝っている、とかではなく、「このコード進行から、このメロディーで、この展開?」みたいな、王道を進んでないのに、聴き手にはものすごく気持ちよく聴こえるようになっている。

だから、これを違和感なく、聴きやすいように歌い上げる佐藤千明の技術もとんでもなくすごい。

んでもって、やっぱ詞がすごい。

世界が浮き足立っても/あなたが泣いてたらしょうがない/こんな時笑えるジョークを/ひとつくらいはひねり出して
呆れて笑うあなたのそばで/ずっと小粋でいたいのだ(KOIKI/赤い公園)

これも言ってしまえば、「世界中が敵になっても私だけは味方だよ」という王道のメッセージを綴っているにすぎないんだけど…。
“こんな時笑えるジョークをひとつくらいは持ってたいな/だって小粋でいたいのだ(KOIKI/赤い公園)”ってなんだよ!

泣けるだろ…。

アーティストってものすごく難しい職業だと思う。
だって“あなたの側にいつでもいるよ”とか“私だけは見放さないよ”とか言ったところで、
「いや、そもそも、会ったことないし……どうせ稼いだ金でワイワイやってるんでしょ?」とか思ってしまったら、
応援ソングなんてひとつも聴いていて楽しくない。
そういうところに嫌気がさした人たちは、J-POPを離れていくんだろうな、って思う。

でも僕は違うと思っていて、どれだけ聴き手にそれを想像させてあげられるかっていう技量なんだと思う。
安っぽい歌詞だな〜って思っても、売れている人たちは、聴き手にそれを想像させる力がきっとすごいのだ。
かといって、あっちもこっちも“負けそうなときは思い出して、私が側にいるから”とか言われても、ピンと来ないわけですよね。

だから、「そうは言うけど、どう思ってるの?」と一歩踏み込んだ歌詞も最近は多いな、と思うわけです。
この赤い公園のKOIKIは、「あなたがどうしようもなく落ち込んでいる時、ちょっとした“面白いな”ってのを提供したい」って思いが込められていると思うんですよね。
“あなたが泣いていたらしょうがない”ってのは、きっと少しだけ突き放していて、“あなた自身で立つしかないんだ!”ってことを伝えている。
そこに“笑えるジョーク”を提供することが、赤い公園というバンドにできることなんじゃないかと綴っている。

ラスサビ前のこの歌詞も痺れますね…。

誰もが自分のことで/本当はいっぱいいっぱいなんだ/寂しさに負けそうになって/明日がこわくて/それでも優しさを振り絞ってゆく(KOIKI/赤い公園)

もうほんと、このバンドのエネルギーすごいな、ってこのラスサビ前で思うんですけど…。
ドラムが小粋なことやっているのに、全然うるさくないんだもんね…。本当にバンドを支えるって感じですよ…。
そこにベースとギターが一気にエネルギーを注いで、ボーカルをバックアップするっていう。J-POPの姿。
どれひとつも欠けて欲しくないなあ(チャットモンチーを思い出す)。
たぶん、ベースも、ドラムも、ギターも、ボーカルも、どれか一つが抜けたら全く違う色になってしまうバンドだ。

このラスサビ前の歌詞ですごいと思うのは、やっぱり“共感させる”という点。
捉え方次第なんだけど「みんながんばってるから、がんばれよ」ってメッセージではなくて、「(赤い公園ですらも)いっぱいいっぱいでやっているけれど、(どんな状況下でも)優しさを振り絞ってゆくよ」という宣言に聞こえる。
すげー都合よく解釈するよ??都合よく解釈すると、

「これからも、どんな状況下でも、笑えるジョークすっ飛ばしていくから、よろしく」

って聞こえる。

んでもって、彼女らは「純情ランドセル」っていう謎のタイトルのニューアルバムを来週リリースされるわけです。
そのリード曲的なものとして「黄色い花」っていうのが動画公開されているんですが。

なんでこんな明るい歌なのに、こんなにボロボロ泣けてくるんですか?もう10回目ぐらいなんですけどね。ちょっとここまでくるとさすがに不思議すぎて、俺がおかしくなったのかな?って思うんですけど、結婚してくれません?ほんと。

幸せは手と手を合わせてできてる/誰かへのわずかな祈りでできてる(黄色い花/赤い公園)

ここ数年で、久々に何も知らないのに、胸が熱くなった楽曲&バンドでした。
こういう純粋に、ふつふつと情熱がよみがえる瞬間が、もう少し生きてみようって思うきっかけになったりしますよね。
こういう体験したのは岩崎愛記事はこちら!)以来かな〜と思ったりするんですが、岩崎愛さんはあまり売れてくれてないんですが、その後の楽曲とかもとにかく素晴らしいです。

純情ランドセル(初回限定盤)(DVD付)

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正直、赤い公園は琴線に触れすぎて聴きすぎると疲れてくることに気づきましたわ…。
感情に訴えかけすぎ…。

応援してます。

何の変哲もない日に思うこと×超雑記シリーズその9@20160222

自分の子供が、なんの儀式もなしに、ある日突然、親元を離れたと実感することは、寂しいことか。
いったい、なんのために子供を産むのか。
それは自分の一部が、感覚を持たない場所で蠢くことを指すのか。

だって、引き継ぐと云っても、僕らはどこに向かっているのか?
そういうことを考えだしたら、無責任な希望を子供に託し続けた無意味なバトンタッチを続けているような気さえする。

ウィキペディアで歴史上の誰かを視る。
この歴史は、なんの意味も持たない。ただの足跡である。
フィクションのそれと違わない。むしろフィクションよりもたちが悪い。

なぜか?

僕がいま認識している世界が、僕だけのものではない限りは、「そこに歴史が在った(であろう)こと」が証明されているわけで、証明されているということは、もはや、このような形でしか人は残らないという、この長い長い歴史の中で、果てのない時間の中での何億分の、いやもっと、無料大数分の一みたいな、そんなレベルのピースでしかないことを証明される。
「じゃあ、それ以上の価値って例えばなにがあるの?」
もう想像の域をこえていて、無理。だって、人間が価値を持たせている限りは、それは、ほとんどが我儘でつまらなくくだらない価値も意味もない、人間だけしか持つことのできない感覚だから。
それを超えたものがなにかあったとき、人間のままではおそらく認識ができない。だから、想像もできない。

もう何度目の春か。
あれも、これも、それも、すべてが繰り返している。
人間が想像し得ることがすべて起こり得ることであるということは、人間は人間である限り人間を超えられないということである。

僕らは想像の範囲でしか暮らすことができない。

受け入れがたいものは、ただの心の防御なだけである。

友人から、ずっと自問自答している死への問いかけは、まるで禅問答のようなものだ、よくそんなこと続けられるな、と言われた。
でも、ここから逃れたらそれこそ死んでしまう。
誰かの考えをひとつでも多く飲み込んで、消化して、すべての人間が想像し得るすべてを手に入れないと、って思ったけど、そうそう居ないよそんな人って、そんなもんなのか。

何の変哲もない日曜日の夜に、こんな何の変哲もないことを考えている。

数年前の自分の思想と、ちょっとだけ違うんだな。

うめざわしゅん作品集成 パンティストッキングのような空の下/うめざわしゅん[感想][レビュー][ネタバレ]とゲスの極み乙女。

 熱量に身を任せたまま書きます。

 だいたい週末は意味もなく書店をウロウロして、目についた書籍をパラパラとめくる習慣がついているんだけど、漫画コーナーでこの「パンティストッキングのような空の下」を見つけた。平積みされている漫画の中で、これだけ残り1冊だった。珍しいなと思って手に取った。そのままレジへ。
 実は、この漫画、なにかの雑誌で特集されていたのを見ていて、なんとなく頭に残っていた。後書きか何かにも書かれているけれど、15年ずっと日の目を浴びずにここまで来て、どっかの編集者が注目したんだね。太田出版は、そういうところ偉いよね(どこから目線?)。帯でも作家の高橋源一郎氏が……「こうやって、本当に素晴らしい作品が、ちゃんと評価されるのであれば、まだまだ世の中捨てたもんじゃないと思った」って書かれてて…確か雑誌の特集でも似たような煽りがあった気がして、ちょいと気になってた。その時もそのまま漫画コーナー行ったんだけど、その時はなくて。縁がなかったかなー、とか思ってた。

 「うめざわしゅん作品集成 パンティストッキングのような空の下」は、漫画家うめざわしゅんによる短編集である。ほぼすべてのストーリーに「性」が絡んでいる。っぽく言えば「性による生の表現」とか語れるんだろうけど、村上春樹あんまり得意じゃないので、割愛。
 正直な所、短編を読み進めていくにつれて「帯でいうほど衝撃なのかなあ……?」って感じはしていた。なんか中学生の時に友達の家でゴロゴロしながら、積んである漫画を適当に読んでいって、たまたまこの本を手に取った夕暮れが刹那的に感じるだろうなぐらいの感想でした。
 ただねえ、最後のねえ、「唯一者たち」がねえ、すごくよかった。

パンティストッキングのような空の下

パンティストッキングのような空の下

 社会人になると、新しい友人が少なくなる人は少なくないと思う(頭痛が痛いなー)。出会いはあるけど、無邪気じゃない。思考回路の中にある経験が邪魔をして、人とのコミュニケーションが打算的になっていく。友人には違いないけど、中学生の時の適当なソレとは違うのを感じる。安っぽい青春は、もうない。
 ところが、この年末年始で旧い友人とか、しばらく会ってなかった人とかに会うと、大抵はくだらない昔話。まあ、だって会うの久しぶりだし、お互いの過去から現状までを話すのが当然といえば当然だよね。でも、いつ会ってもそう。会話のレベルが、中学生の時からたいして進化していない。みんなちょっと賢くなっただけ。気の利いた一言がいえるようになっただけ。芸を身に着けただけ。
 そんな時思うわけですよ。「あー青春がループしてんなー」って。「ズッコケ三人組」の大人版があったと思うけど、なんかそんな感じなんだよね。ドラえもんに出てくる、大人になったのび太たちでもいいや。見かけで変わってしまって、中身はさして変わってない。けど、集まって、繰り返す。あの時の青春繰り返している。
 なんかそれって、“過ぎていくこと”に対する痛みに耐えるための、ちょっとした療法なのかな?って。

 社会人になるとき思った。「あとは、死ぬだけなんだな」って。平凡な人生は手に入れるのが難しいっていうけど、そこそこ頑張ってれば、そこそこに幸せな人生は送れるのでは?って思う。
 だから、ここでいま、もう一度青春を繰り返すことは、その緩やかに死へ向かう過程を、受け入れるための、抗不安剤みたいなもんかなーと。用法容量を守って、割と少なめのね。そんなに強い効果もないけど、副作用も少ないっていう。

 で、「唯一者たち」。

 あるトラウマを抱えたフリーター男と、ある日突然あらわれた(物語として都合がよすぎな)同級生の女性が主な登場人物。なにもかもを卑屈になって考える主人公の凝り固まった思考を、同級生の女性は緩やかに解していく。
 その主人公はロリコン癖があって過去に小さい女の子を傷つけて傷害容疑で捕まったことがあった。そこに罪悪感を抱いていて、なにかにつけて思い出し、蘇り罪に苦しむ。漫画のなかでも書かれているけれど、罪悪感ってのは、ある意味では生き甲斐みたいになってしまって本質に気付けない都合のいい感情だったりする。自分がそこから抜け出られない一種の言い訳みたいなね。一方でヒロイン(現実にはヒロインでもないけど)は人生順調。「なぜ、この主人公に構う?」ってぐらいに充実した人生を送っていて、ある事件が起こった後、主人公のトラウマの症状は悪化して、「だったら、傷つけたその子に会ってみたら?」と提案する。被害者に加害者が望まれてもいないのに一方的に会いに行くなんて、とんでもない提案であるが、ストーリー自体が結構メッセージ性重視なので仕方がない。
 被害者の女性に会ったとき、主人公は“取り返しのつかない罪を犯していた”ことをあらためて認識すると同時に、“これだけ人を苦しめておいて、じぶんはじぶんの苦しみしか苦しめない”ことを実感し、悔しがる。結局、主人公が感じている苦しみは、罪悪感とか体のいい言葉で飾り立てているけれど、その被害者の苦しみでもなんでもなく、自分自身の苦しみなんだよね。
 “苦しみを分け合う”とかいう言葉があるけれど、それは信頼しあっている間柄での話。それも“分け合っている”のではなく“信頼により軽減しあっている”が正しい表現だと思うしね。
 この先、解釈が人それぞれ違う可能性があるんだけど、それで主人公は「(こんなクソみたいな自分は結局自分の苦しみしか苦しめない。それなのに)なんで俺は生まれてきたのか…」と呟く。

 まあ、なんていうか自分自身が“最低な人間だ”って思いこんでいたからこそ、主人公は、なにもかも卑屈に考えていた。前半でヒロインに会って、気力を取り戻していたのは、おそらく「こんな自分でも生きていい」という自信からだったと思う。けれど、ある事件をきっかけに「“こんな自分”はいつでも破綻する」という恐怖にかられる。「じゃあ、“こんな自分”がいまどんな立ち位置にいるか確認してみたら?それから生きるか死ぬか決めようよ」っていうのが、ヒロインの提案する被害者に会うという行為。そのあとで、「“こんな自分”とか言っているけど、それって誰でも同じじゃね?だって人間、自分のことしか自分って言えないし、感じられないし、考えられないし」って気づく。

 充実した生活を送っているヒロインがね、言うわけですよ。

 私は生きてるのがすごく楽しい。冬は寒いけど たくさん服を選んで着れるし 近くにできたケーキ屋さんは大当たりだし もうすぐハンターハンターは連載再開するし……(中略)とにかく! 私の人生超すばらしいよ!

 でも…

 生まれてこないで済んだなら それが一番良かったな

 誰だってそうじゃない? みんな自分だけが自分なんだから

 (うめざわしゅん作品集成 パンティストッキングのような空の下 / うめざわしゅん)

 彼女(ヒロイン)はすごく、俯瞰的に人生をとらえているのだな、ととれる一節。そのあと、雑踏の中をひとりで歩く主人公は、感じるわけですね、いろいろな人たち、それぞれの人生を。だけど、誰一人として、“自分ではない”人はいないと。寄生獣にも、「別の人の視点から世界を見たら、全く違う世界が見えるかもしれない」という一節がありましたが、あれは想像力の話だったように個人的に思っていて。この「唯一者たち」はもっと内向きで“それぞれが孤独として孤立して在る”っていう。うめざわしゅん氏の作風全体も、たしかに「つながり」みたいな意識は非常に薄くて、“個(孤独)”の話が強かったように思う。
 「生まれてこないで済んだなら――」ってのはなかなか極論だとも思うけど、ようはいつまで経っても自分は自分でしかなくて、いまある以上のなにかは起こらない。想像の域をこえない、ということなんだよな。だから、彼女(ヒロイン)は、「私の人生超素晴らしいよ!」って言うのだと思う。

 たまに「幸せになるために生きている」という人がいるけれど、それなら「いま幸せな時に死んだらいいんじゃない?」って思う。だって、そこで目標達成されているわけだから。でも、「幸せをもっと味わっていたいから」という。裏を返せば、「死ぬ」という行為は自然に起こってこそ美しいのであって、自ら選択すべきじゃないのよね。自分で言っておいてなんだけど。だから、彼女(ヒロイン)は俯瞰的に人生を捉えられていて、幸せはそれぞれの考え方次第で得ることができる、形のない概念であり、気持ちの問題でもあり、かといってそれ以上はない、永遠の孤独を全うするだけであることを感じているんじゃないかなと思う。

 ゲスの極み乙女。に「私以外私じゃないの」という歌があるわけですけど。思いの外、この漫画とシンクロしていて、おもしろい。

 私以外私じゃないの/当たり前だけどね/だから報われない気持ちも整理して生きていたいの/普通でしょう?(私以外私じゃないの/ゲスの極み乙女。

 この歌、最後は自分以外自分でないのは、どうやら誰もが同じである、ということに気づき、それならもう怖くないと答えを出す。おそらく、「唯一者たち」の主人公もクライマックスで、そのことに気づいたんだと思う。
 前半では「自分を認めてもよい」という考え方から自信を持てたけど、後半では「(認めるも何も)自分は自分以外にない」という考え方。
 
 うめざわしゅん氏の作品に「わかったふりをしている漫画」という批判があったんだけど、わからなくもない。このあたりの、「自分は自分でしかない。それ以外の何者でもない」っていう感覚は思春期と同時ぐらいに芽生えるものだと思うから。でも、人生進んでいくと、やっぱりそういう瞬間が何度かあって、個人的な気持ちだと、ここ最近は「せめて誰かのために生きることが、生まれてきたことへの償いなのかな」と思ったりする。償いって言葉はちょっと違うかな?!

 それでまた、ゲスの極み乙女。の話に戻るんだけど、タイムリーにも話題になっている。ベッキーが涙の謝罪会見をしている。
 この漫画で悩ましい人生を送っている彼らは、たぶん僕が前置きしたように「ゆるやかに死に向かう」感覚で生きている。ちょろっと書いたけど、場合によっては、副作用も少ないけど、効果も大きくない、容量少なめの抗不安剤を摂取しながら。
 僕が、ゲスの極み乙女。に限らず、ああいう人たちをうらやましいなと偶に思うのは、その加速度だ。シェイクスピアはかつて「時というものは、それぞれの人によって、それぞれの速さで流れる」と云った(気がする)。
 本来なら平等であるはずの時間。けど、おそらく彼らと僕とでは、時の流れの加速度は全く違うものだろうな、と思っている。たぶん、それは大きく言えば努力の違いで、羨むだけでなくお前が頑張れよって話なんだけど、メディアがいくら、大衆がいくら「不倫」と騒ぎ立てたところで、大衆の持っている「時の流れ」の速さと、彼らの持っている「時の流れ」の速さは全く違う。
 その速度が違うということは、もう僕らが騒ぎ立てている間に、おそらく彼らはあっという間に先に行ってしまう可能性のが高いんだよね。(止まってしまう人たちもいるだろうけど)。だってそれだけの努力をしていきて、才能を持っているのだから。たかだか人生のワンシーンでしかないわけ、いまのその瞬間なんて。ものすごい速さで彼らは人生を進んでいる。最終的な距離を見据えたら、いったいどれだけの長さなの?このスキャンダルって?って話なんだ。
 僕らは、たいした距離も進めないかもしれない。すなわちこの瞬間、瞬間が、ある意味ではもっともっと大事になってくる。
 だから、って言い方は義務的で好きじゃないけど、でもだからこそ、「唯一者たち」のヒロインのように「人生素晴らしい」って思えるような瞬間を積み重ねていかなきゃって思う。思ってほしい。

 青春ループさせるのが、はたして、いいのかわるいのか、ちょっとまだ分りかねるけど、でもきっと、このスピードに対する痛みを和らげているだけなのだろうな。甘んじちゃいけない。甘んじずに、もっと精進していかないと、と思う。

 んー。話脱線しすぎたかな。ここ最近思っていることを書きすぎてしまった。
 なんか、最後独白みたいになってるし。
 ブログだからいいけど。けど、オードリーの若林がブログに独白を書くべきでない、と過去の中二病ブログを閉鎖した理由で言っていた。

 とにかく、「パンティストッキングのような空の下」、とても素敵な作品でした。
 いつの世も、素敵な作品には、素敵な女性がでてくるものね。

 インタビューもあるので、一読どうぞ。
『うめざわしゅん作品集成 パンティストッキングのような空の下』特設サイト - 太田出版

一匹と九十九匹と(1) (ビッグコミックス)

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クリスマスソング

 クリスマスソングが街中に溢れ出す季節。この習慣は、いつまで続くのだろう。知らぬ間に根付いた文化は、そこかしこにあらわれ、このチェーン店のカフェも例外ではない。新宿の人混みを窓越しに眺めながら、コーヒーを飲む。騒がしい休日の会話と、BGMで流れるクリスマスソング。そこまで装飾の派手ではない、シンプルなアレンジの楽曲は、益々派手になってゆくクリスマスツリーとは対称に、幸せとは何かを、その輪郭をはっきりとさせた。想像を巡らせる。この歌を、演奏していたであろう、そのスタジオを。そして、この歌が、必要とされていた時代を。おそらく、この歌は、そこにある幸せの為に、歌われていたのだと考えた。世界中を幸せにするためではなく、目の前の人を幸せにするためではなく、そこにある“空気”に幸せというエッセンスを振りかけるための、いわば魔法であったのだ。種をこえるための歌でも、国境をこえるための歌でも、万が一にも貧しさからうまれた発想でもない。ただただ、当たり前にそこにあるものを、のんきに、いたずらに、そしてわがままに、気の向くままに演奏することで、小さな町の、どこか小さな演奏会の、幸せをつくり上げていたのだ。それが、自由に、各所で、ある時代までは行われていた。遠くの町で、また別のなにかが歌われている、そんな事実すら、知る由もなかった。
 僕らは、知りすぎた。仕事帰りにクリスマスケーキを君の家まで持っていくだけでは物足りなくなってしまった。その1行がものすごくつまらないものに変化してしまった。味気ない、夢と化してしまった。暗闇に灯る何本かの蝋燭を吹き消す瞬間が、心に残らない。それは、もう見飽きた風景だ。なにがよくて、なにがわるいのか。常に人は求め続ける。効率化という意味ではなく、最善の幸福を人々は求めている。人それぞれの価値観が尊重されているように見えて、僕らは統合に向かっている。よりよいもの、よりベストなもの、それらがつくりあげられる瞬間に僕らは向かっている。非の打ち所がない最新で最高の解答が、必ずあることを知ってしまった。そこに、着実に時代が流れていくことを、知らなくてはいけない。
 ひとつになる必要なんてどこにもないのに、それらを人々は気にかけない。自分に固執せず、自分の個性を尊重しているという錯覚に陥り、やがては時代が、その人を犯す。
 あるとき、世界のどこかで起きている紛争が語られる。テレビの向こう側でも、ネットの向こう側でも構わない。人類が犠牲になっている。罪のない人が、悲しみに打ちひしがれている。その計り知れない悲しみを、僕は知れない。そんな想像を巡らせながら、新幹線の車窓から見える街並みを見ている。夜が落ちた日本では、民家に明かりがつきはじめている。営みが繰り返されている。何千年と続いてきた、生命の螺旋階段を、僕らは今日ものぼっている。たぶん、誰も、遠い国で、悲しんでいる人のことなんて知れないのだ。ましてや、隣の家で起こったとしても、おそらくわからない。隣の席では母親と、幼稚園ぐらいの娘と息子が三人掛けで座っている。無邪気なその姿は、本当になんでもない姿だ。本当になんでもない。
 また明日がはじまる。その繰り返しに、善も悪もない。いや、善も悪もあるのだけれど、それを問う力が僕らにはない。僕らはただ、僕らを守ることに徹するべきなのだ。統合から、できるだけ免れて、僕らだけの、その場の幸せについて、そう、それは、いつかの時代のクリスマスソングのような、そんな幸せをつくりあげる技術をつくりあげるべきなのだ。サンタクロースを信じる必要もない、クリスマスソングを、僕らはいつか奏でたい。

遺書みたいなもんが書きたくて〜その7/例えば、追憶の向こう側で、厭きれる程の短編が綴られたなら

 例えば、追憶の向こう側で君が手を振っている。コントラストが曖昧な、その所為で距離も不均衡な、砂漠に放り出されたかのように立ち尽くして蜃気楼を眺めている気分だ。声がする。叫び声でなく、記憶が鳴る。パズルのピースのひとつひとつは、幻想ではなく事実だ。その完成図が、心許無く神経を逆撫でる。いっそ先端に火を点け閃光となって、大事な一瞬だけを照らしてくれたらいいのに。何故にこうも悪戯に、そして不用意に、現われる映像。乱れた感情をままに、目の前にある物すべてを打ち壊した。
 永遠という言葉が確かなのであれば、その苛立ちはすべて永遠という概念に向き、それ以外についての思慮はすべて邪念に過ぎないであろう。つまりは、永遠という言葉が信頼に値するのであれば、そのほとんどが価値をなくし、思考の必要もなくなる。無論、感情の起伏も、である。
 だが実際には、この生涯とは一瞬の積み重ねである。無数のシーンが、捉えきれない速度で描写される。そのカメラでおさえられるのは、儚さだけだ。その儚さが故に、そのほとんどが価値を付けた。
 蟀谷に銃口をつきつける。走馬灯は用意されていない。およそ2分ほどで世界はインストールされるような情報量だ。悔恨の余地も残されていない。さあ、いますぐ引き金をひいて撃ち殺すまでだ。そのほとんどが、種類は違えど、こうやって死んできた。命を賭したはずの未来も、懺悔の時間でしかなかった。推測するに光年の罪が、未だ生物の業として360度纏わりついているのだろう。仮にそのすべてを把握する全知全能の神であれたら。その場合、存在すら信じ難い矛盾を強いることになる。有り得ない。
 時を通り越して、まるでそれはハードルを乗り越えるように、駆け抜ける日々に摩擦が生じる。僕らは、それらを意識せずとも、例えば風に雨が纏えば、温度を感じ、雹であれば痛みを感じる。見えないが故に、疎かにしているだけの事象は、あらゆる場面で僕らを取り巻いて、その感情に影響しながら、関わり合いながら世界を成している。形成している。その敬意をしめして、いま、僕は引き金を引いた。他でもない、僕を殺める為に。

コンプレックス・エイジ/佐久間結衣[感想][レビュー][ネタバレ]

 帯のコピーに惹かれて買ってしまったのは、『よつばと!』以来である。たしかそのコピーは、“楽しめ。血を流しながら。”といったものだった気がする。
 『コンプレックス・エイジ』は、コスプレという、まだ世間からの目はあたたかいとは言い難い趣味を思いの限り楽しもうとするOLの話である。
 コスプレ、という絶妙なジャンルが、素晴らしい。これが音楽だったら、バンドだったら、「よくある話だよね」という悟った体の視点で物語を見てしまう人が多いし、もっとマイナーだったら興味を持ってもらえなかっただろう。「別にいいんじゃない?楽しむ分には」と表向きは言えてしまうけど、大抵の人は、そのジャンルに自分が接触することへの抵抗がなくはないとは言い切れないコスプレという趣味だからこそ、この漫画は素晴らしいのだと思う。
 だから、声を大にして言いたいんだけど、「楽しみたいこと楽しめばいいじゃん」みたいなことが言いたい漫画じゃないのだ、これは。だったら、売れないバンドの漫画を書けばいいんだから。

コンプレックス・エイジ(1) (モーニング KC)

コンプレックス・エイジ(1) (モーニング KC)

 『コンプレックス・エイジ』は、コスプレの解説も非常に丁寧で、そのジャンルに抵触したことのない僕は、はたしてリアリティがどこまであるのか分からないのだけれど、読んでいてまったく不自然じゃない。完璧主義者の主人公と、その周りにあらわれる表情豊かなキャラクターたちにより立ちはだかるいくつもの壁が、読者に痛烈なメッセージを与える。
 タイトルにもなっている“コンプレックス”というのは、あらためて言うと“複合的な感情”である。いくつもの感情が入り混じり、整理できないまま、ひとつの言葉として処理されない、もやもや、葛藤。いままでは、なに不自由なく、心のままに、楽しめていたコスプレという趣味が、年齢と共に「その年齢でコスプレやるわけ?」と見えない声が聞こえてくることから、主人公の毎日は徐々に変化をはじめる。
 もう、とにかく素晴らしいのが、ひとつひとつの課題が、良い意味で、しっかりと解決されないことだ。解釈を読者に委ねている。どちらの側にも立つことが出来る。人の心の闇も描かれ、それが一見、物語上の悪役にも見えたりするけれど、それは誰の心の中にも潜むモンスターだったりする。表面上に描かれる言葉のひとつひとつと、定型的な解釈じゃ、きっとこの物語の伝えたい真意みたいなものとは程遠くて、誰の心の中にもある孤独感とか、焦燥感とか、劣等感、そういった善悪を通り越した人間の感情、自身の内側と共鳴できてこそ、物語をやっと受け入れることができるのだと思う。
 だから、前述したように「楽しみたいことを、誠意を持って愚直に楽しめばいいじゃん」みたいな安直なメッセージ漫画では決してない。「なにか問題が起きた時、そこで辞めるか、続けるか、それはどちらもあなたの選択であれば、間違いではない」といった、読者そのものに可能性を委ねている漫画だ。
 諦めることは決して悪ではないし、趣味だから「続ける」という義務はない。でも、その「趣味だから」という言葉の重みもひとによってはめちゃくちゃ変わってくる。主人公はひたすらそこと葛藤し続ける。「趣味ってなんだ?」と。そこにウエイトがかかればかかるほど、趣味を純粋に楽しめなくなってくる。だって、疑問なく素直に、無邪気に弾けられることが趣味のスタートでもあったはずだから。

 話はちょっと変わって、主人公にとって「コスプレ」は半ば人生そのものみたいなもので、一生辿り付けない「二次元」という理想に向かって完璧に近づいていく為の生きる意味みたいなものでもあると思う。そんな時、「コスプレ≒生き甲斐」を辞めた時、自分になにが残るのか?というのが最も大きなテーマでもあるのかな。
 夢とか、目標とか、なくてもよくない?という空気がひろがっている世の中。それは、よくもわるくも考えることを放棄した結果であり、仮想でもいいから人はなにかを求めていきているはずだと個人的には思う。だから、「コスプレ」という趣味はあくまで仮初の夢であり、それと真剣に向き合った時、仮面を剥しきった時、そこになにを求めている自分の姿があるか、というのが答えなんじゃないかとも思っている。
 つまりは「夢とか、理想とか必要ない」というのは、その仮初の姿と向き合わない結果であり、趣味という姿も、仮初の自分と傷を舐めあっているのに過ぎないのかな、とか思ったりもする。

 そんな「趣味≒生き甲斐」をもった人々との交流、理解し合える、し合えない、というすれ違い、温度差、レベルの差。いろいろな歯車が絶妙に絡み合って、主人公はその都度、読者に問いかける。それは正しさでも、幸せの価値でもなく、選択肢を与える。私は、ただコスプレを純粋に楽しめる、極めることのできる未来へと進んでいくのだと、ページを捲る度、主人公は突き進む。

 もうとにかく、いろんな価値観が物語には広がっていて、大袈裟に言えば『寄生獣』をもっと掘り下げたような、そして日常にグッとフォーカスしたような名作であると思っています。

読み切り版コンプレックス・エイジ/佐久間結衣 コンプレックス・エイジ 【第63回ちばてつや賞入選作品】 - モーニング・アフタヌーン・イブニング合同Webコミックサイト モアイ

※読み切り版、読み返して思ったけど、やっぱり趣味って、大袈裟に言えば、そのものに恋をする(心を奪われる)、っていうことなんだよなあ、と。それがなくなったら死ぬでもなんでもないけど、失恋と同じで、もう明らかに、人によっては想像をこえる喪失が、そこには待っているんだろうな、と。胸が締め付けられるほどに体に染み込ませてしまった趣味への思いを、どうやって守っていくか、切り離すタイミングは本当に必要なのか、って人が人と共に生きていく為のテーマそのものだよなあ、と感じました。

バンドとしてのあらゆる時代を余すことなく鳴らした傑作 / Album:REFLECTION(Mr.Children)全曲レビュー

 未来へ続く扉“REFLECTION”

 いつも、Mr.Childrenの新しい曲を聴くときは、胸が高鳴る。そして、その高鳴った胸を鎮める様に、スピーカーの向こう側から溢れてくる鮮やかな音色はスーッと心を浄化していく。昨日までのアレもコレも、ついさっきまでのモヤモヤも、明確な答えはなくとも、心を真っ新な状態に戻してくれる。その景色で、もう一度、“Starting Over(≒再出発)”を示してくれる。
 こんなことを言うのは今更かもしれないが、「Mr.Childrenはこうあるべきである」という理想の姿は、おそらくもう存在しない。それほどにMr.Childrenは国民的モンスターバンドとして肥大し、さまざまなJ-POPの形を世に提示してきた。デビュー作「KIND OF LOVE」のように甘酸っぱい青春の形を切り取った音楽や、ある時は「深海」のような、それまでのミスチルの歴史を塗り替えた一枚、そして「Q」のようなポップバンドに甘んじないバンドとしての可能性を示したり、「HOME」のような揺るがない信頼をあらためて築いたり、とその時代ごとにリスナーを増やし、“Mr.Children像”とはもはやどこかひとつに定まっている明瞭なものではなく、まさにファンとMr.Childrenとの間で“REFLECTION”し続けているものだ。
 本作「REFLECTION」はMr.Children史上初の23曲入りUSBアルバムである。コアファン層向けの{Naked}、ライト層向けの{Drip}の2形態で発売されている。はじまりは、誰も知らない未発表曲ばかりでセットリストが組まれた前代未聞の21周年記念ファンクラブ会員限定ツアーだった。そのツアーを皮切りに『足音〜Be Strong』が月9主題歌としてタイアップが発表されたり、ツアーの模様を撮影したドキュメンタリー映画が公開されたり、未発表曲をテレビで初披露したり、長い沈黙を破り音楽誌のインタビューを受けるなどMr.Childrenが大きなプロジェクトと共に動き出す予感をファンは察知するようになった。やがてスタジアムツアーが発表され、ほどなくしてツアー最終日にニューアルバム「REFLECTION」が発売されることが発表された。
 「REFLECTION」は凄まじい。桜井氏が冗談で「遺作」と呟いたのも頷けてしまう程に、最高傑作だ。Mr.Childrenでオススメのアルバムを聴かれたら、これからは「深海」でも「シフクノオト」でも「SENSE」でも、はたまたベストアルバムでもなく、この「REFLECTION」を勧めるだろう。“Mr.Childrenというバンド”を表現するありとあらゆる夢が、希望が、皮肉が、嘘が、そして覆い隠すことのできない煌めきが「REFLECTION」には詰まっている。過去へ向けて、現在へ向けて、未来へ向けて、リスナーが聴く、想像する多様な光が放たれている。
 僕らは、こんな時代に産まれ、育ち、生き、また新たな一歩を踏み出す瞬間に巡り合うことができて素直に幸せだと感じられる。その新たな一歩が、誰の一歩であれ、大小の歯車となり、どこかで噛みあいながら、軋みあいながら関わっているのだろう。Mr.Childrenのニューアルバムはいまかいまかと待ち続けた2年強を溢れんばかりに満たした「REFLECTION」。これから何年、何十年と、何度も何度も聴くのだろう。そして、僕は、その先に待ち構える新たなMr.Childrenが描く放物線の先へ、扉の向こう側に射す光を共に見届け、常識という壁を越え、何度だって未来へ続く扉をノックするファンの一人でありたいと思う。

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最高傑作[MR.CHILDREN:REFLECTION]

REFLECTION{Drip}初回盤

REFLECTION{Drip}初回盤

  • アーティスト:Mr.Children
  • 発売日: 2015/06/04
  • メディア: CD

M-1.fantasy

 なにかが始まる予感を、突き抜けるようなイントロのギターリフが表現している。幻想という世界に入り込むための『Pink~奇妙な夢』のような妖しげなイントロでも、魔法にかけるような『エソラ』や『Marshmarrow day』のような煌めき溢れるイントロでもなく、充分に歪んだ音で現実と夢の狭間を旅する5分間へと誘うのだ。いままでにあったようでなかった、Mr.Childrenの形。『擬態』とはまた違った『名もなき詩』ポジションの名曲だ。少ない言葉で、時代を写しだし、風刺し、僕らが生きていくにあたって必要なイメージを疾走感あふれるアレンジで描き出していく。
 本アルバムで随所に感じているのは、メンバーそれぞれの表現性がグンとアップしていることだ。雑誌のインタビューでも桜井氏は「小林(武史)さんが抜けることによって、少なくとも欠ける部分があった。それを埋めるわけではなく、どう表現していくかが課題にもなった」と語るとおり、fantasyでは田原氏のギターが空間を覆うように優しい歪みと、適度な太さのサウンドで包み込み、ナカケーのベースが下地を強く支える。そして、JENのドラムのハイハットがいつも以上に効いている。メンバーそれぞれが調和するべく方向へ個性を活かしながら奏でている。ああ、これは「I♥Uツアー」の『未来』みたいだな、と感じた。
 この『fantasy』ひとつで、アルバムを買う価値はあったな、と納得させられてしまうぐらいの“至高のポップス”として仕上がっている。この時代を映し出す鏡の様な曲の向こう側に見える、もうひとつの世界。そこにあるファンタジーは決しておとぎ話ではなく、あくまで日常の延長線上に存在している。聴いた人を、強く勇気づけるわけでもなく、励ますわけでもない、主張の強い曲ではないが、確実に日常の見方を変える、いきるエナジーを与える素晴らしきメッセージ・ソングだ。

ゴミ箱に投げ捨てたファンタジーをもう一度拾い上げたら/各駅停車をジェットコースターにトランスフォームして/[不可能]のない旅へ(fantasy/Mr.Children)

M-2.FIGHT CLUB

 “疾走POP”と仮タイトルがついていた様に『fantasy』以上に疾走感溢れるロックナンバーだ。映画「REFLECTION」で見た時、その格好よさに痺れた。正直“ミスチル、まだまだこんなことがやれるのか”と感じてしまった程に、メロディーもサウンドも青臭く、田原氏の劇的に格好良いギターリフとミュートをかけたストロークで物語はハードに展開していく。歌詞の内容に青臭さを感じれど、大人になった青年が“あの頃”を振り返るストーリーとなっており、“大人になった今だからこそ語れる青さ”が表現されている。ブラッド・ピット主演の映画「FIGHT CLUB」がそのまま題材となっており、映画やドラマの主題歌としても非常に栄えそうな位、ロックでありながらも非常にキャッチーで疾走感に満ちている。
 青年期に誰もが味わう“見えない敵(≒仮想的)”と闘いながら孤独を振り払い、やがては自分自身の中にある空虚を認めながら成長していくという体験。ある意味では『ランニングハイ』のようで、『ランニングハイ』以上に振り切っている楽曲だ。“俺たちはもう特別じゃない”と綴られるフレーズが、諦めでもなく、悟りでもなく、それ以上に受け入れることが難しい、真の敵と闘う為の“覚悟”であることを知る。
 ギターに注目されがちになりそうだが、ナカケーのベースがとてもユニークで、そこに絡み合うJENのいつもとちょっと違ったドラミングが“なにかとの闘い”を連想させて、聴く者を高揚させる。

死を覚悟するほど/まして殺されるほど/俺たちはもう特別じゃない(FIGHT CLUB/Mr.Children)

M-3.斜陽

 「さらばシベリア鉄道/太田裕美」に似てるよね、というのは置いといて。この楽曲が、未発表の楽曲にも関わらず2014年末のフジテレビFNS歌謡祭で披露された楽曲である。その時は、なぜこの楽曲を選んだのだろう?と思ったのだけれど、ファンクラブツアーのセットリストを見ながら考えると、消去法的には『斜陽』が適切だったのかな、とも思う。僕は『未完』のがよかったのでは、と思いつつも。
 詞の世界観や、楽曲の哀愁を帯びた渋さから感じるのは「シングルのカップリングっぽさ」である。悪い意味ではなく、ここ数年はデジタル配信でリリースされることも少なくないMr.Childrenだからこそ、こういう立ち位置の曲を聴く“シングルCDを買うワクワクさ”みたいなものがなくなってしまったなあ、と。『箒星』の煌びやかさから一転したジャージーな『my sweet heart』を聴いた時の「ああ、このミスチルも好きだなあ」というシングルならではの満たされ方というか。
 だからこそ、このアルバムにもそういう立ち位置を目指して作られた楽曲が必要なのでは?と思うし(実際の制作秘話は知りませんが)、こういうMr.Childrenを聴きたい人ってコアな層にはたくさんいるんじゃないかと思う。

M-4.Melody

 そういった“『斜陽』はカップリングっぽい”という個人的主観を挟んだ前段の流れを汲んでの、シングル『足音〜Be Strong』のカップリング『Melody』。ここ最近のミスチルって個人的にはカップリングもやたら煌びやかで豪華で、この『Melody』も例外ではなく。おそらく制作の仕方が1曲1曲丁寧にアルバムを作ることに向けて作られているからじゃないかと思うのだけど(そしてどれをシングルとしてきるかを考える)、この『Melody』は年末の疲れを癒すのにもってこいの素晴らしいポップバラードだった。
 桜井氏の特徴であるハイトーンボイスを可能な限り控え目にし、ミディアムボイスで滑らかに歌われるメロディーと、クリスマスの装飾のように煌びやかなブラスとストリングスが目の前の何気ない風景をカラフルに色付ける。
 ワクワクするようなメロディーを、これほどまでに意図的に作り上げることのできるのは桜井和寿というシンガーソングライターの才能だと痛烈に感じる一曲。そして、この煌めきは「HOME」あたりから歌声や表情にも表れはじめて、“幸せを巻き込む能力”みたいなものが、こういった楽曲にはあるんじゃないかと、時々僕は思うのです。

見飽きたこの街が/クリスマスみたいに光る/そんな瞬間/今日も僕は探してる/苛立ちの毎日/行き詰まった暮らしを/洗うような煌めくハーモニー(Melody/Mr.Children)

M-5.蜘蛛の糸

 ファンクラブライブで披露された時は、とてもシンプルで、スッキリしている曲だ、というのが第一印象だった。しかし、音源をヘッドフォンで聴くとその世界観は綿密に構築されていて、『CANDY』よりも大人寄りで、『隔たり』よりもより妖しげで艶めかしく、『旅人』の言葉を借りるなら“恋に身を投げるロミオ”の心情が美しい比喩で描き出されている。所謂“大人のラブソング”であり、男目線で描かれつつも、女性も聴けばうっとりするようなピアノとストリングスのバラード。
 しかし、弦楽器アレンジにとどまることなく、バンドもがっつりと入ってくる。定番になることはないだろうなと思いつつも、桜井氏の作家性が非常にあらわれた詞とメロディーはファンの心をとらえ、一定数いるファン層にとっての「待っていた」感あふれる楽曲なんだろうなと感じる。こういったラブソングがあるのは、Mr.Childrenのオリジナリティというよりは、Mr.Childrenの振り幅を広げていることに繋がっているのだろう。

M-6.I Can Make It

 アンニュイでフォーキーなロックソング(フォーキーなのかロックなのか、という)。決してキャッチーなメロディーではないけれど、同じメロディーの繰り返しに留まらないひとつひとつのサビがとても素晴らしい。
 誰かの背中を押している励まし系の歌でもあるようで、『FIGHT CLUB』のような“ありもしないもの”に可能性を感じている人々を遠回しに皮肉っているような歌にも思える。だって、この曲の主人公、遠い夢を見すぎて、なにひとつ目の前のことを肯定し切れてない気がするしね。なにより、楽曲全体に漂うアンニュイなパフォーマンスがそれを暗に示唆している。
 ただしそれは、『fantasy』でも綴られていたように、それが皮肉であれ、嘘であれ、それを希望と信じ込んで前に向いていく強さを僕らは持っていて、この「REFLECTION」というアルバムに閉じ込められた楽曲のすべては、『fantasy』という幻想に集約されてしまうのではないかと思える。
 この楽曲も例に漏れず中川氏のベースと田原氏のギターが世界観構築に一役も二役も買っている。中央に響き渡るベースと、不安定なアコースティックギターストロークが印象的なAメロの“バスタブ〜”から、ドラムが入り込んで来れば、そこに歪んだエレキが参戦し、ミュート気味のカッティングによって出口のない迷路へと誘う。サビに入るまでのRから鳴るエレキのチョーキングも素晴らしい。どことなく楽曲のアレンジ具合は『声』を感じさせる。

明け方/非現実的な夢を/バスタブに浮かべてみる/身体は疲れてるのに目は冴える/やるべきことは沢山(I Can Make It/Mr.Children)

M-7.ROLLIN' ROLLING〜一見は百聞に如かず

 アルバムで初解禁された楽曲。この流れではこの楽曲が初。
 時期で例えるなら「DISCOVERY」期のミスチルにあたるようなロック&ブラスアレンジソング。『アンダーシャツ』のようにシャウト気味の桜井氏のボーカルとエレキのリフが印象的な楽曲。田原氏のギターが炸裂、というわけではないけれど、「BOLERO」の時によくあったなーと感じる“ロック+ブラス”のアレンジに加わる歪んだリフが際立ってライブ栄えする様が目に浮かぶ。特にCメロ〜間奏部分の裏で鳴らされるブラスなんかは、『タイムマシーンに乗って』を連想させる。
 個人的にはアルバム曲という印象がとても強く、というのも、詞がどうにもうこうにもうまくまとまらないままオチに向かってしまっているような気がしている。詞の世界観に寄り過ぎず、楽曲のアレンジ、世界観で勝負をしてきている、そのまとまってなさは「BOLERO」や「DISCOVERY」期を確かに思い起こさせるな、と。(この文章もまとまっていない)

M-8.放たれる

 映画「青天の霹靂」主題歌。初聴の感想は、『祈り〜涙の軌道』っぽいな、であった。しかし、何度か聴くうちに音楽的にとても実験的なことをやっているのだと気付いた。閉じ込めていた光がそっと放たれていくイメージを抱かせる、『祈り〜涙の軌道』とは明らかに違う、J-POPという次元から抜け出したまるで聖歌の様な音楽。そこにバンドが控え気味になることなく調和していて、アルバム「シフクノオト」の後リリースされた『sign』のような、ある種「[(an imitation)blood orange]」の延長線上にあるような楽曲に感じる。

あきらめかけたいくつかの/夢/希望/憧れ/幸せ/朝顔が空に伸びるみたいに/その光をたぐり寄せる(放たれる/Mr.Chidren)

M-9.街の風景

 この楽曲については『パノラマの街』で感じたことを下記で詳細に記しているので参照頂ければと。
 パノラマの街/小田和正・桜井和寿(Mr.Children) - 今日もご無事で。
 『街の風景』を聴き終わった後に感じたのは、「え!?これアレンジ違くない苦笑?」というのが率直なところ。詞がめちゃくちゃ素晴らしいので、辛うじて保っているけれど、サイモン&ガーファンクルっぽさを目指しているようで、がっつり歪んだギターが入ってきて、世界観を壊しているわけではないんだけれど、アレンジがマッチしていない、それが“若さ”の表現なのか?とリスナーを混乱させてしまう気がする。
 個人的には“鼻につく”ではなく“欠点になる”のがよかったなー。

M-10.運命

 「初期のミスターチルドレン」を彷彿とさせる、と言ってしまうのは安直だとは知りつつも、『運命』はそれぐらいに軽快なポップスであり、青臭い歌詞だ。桜井節全開の爽やかで、男臭い(そして女々しい)韻の踏み方は、読みどころ。シンセとギターの絡み合いが絶妙で、そこにライブでも盛り上がるであろう手拍子が入っている。
 「初期のミスターチルドレン」なんて言ってしまったけれど、こういった楽曲は近年でも『I'm talking about lovin'』など、おそらく桜井氏が意識して作っているものであり、年月をかけて不定期ではあるが、産み落とさずにはいられないエネルギーのひとつなのだろうな、と思っている。ただ、『運命』が特別なのが、これまでの曲とは違い“10代ならでは”の心の揺らぎや青さが楽曲に託されている点じゃないかな、と個人的に思います。10代の頃に聴きたかったなー。

M-11.足音〜Be Strong

 フジテレビ系 月9ドラマ『信長協奏曲』主題歌として『祈り〜涙の軌道/End of the day/pieces』より2年7ヶ月ぶりにリリースされた本作『足音〜Be Strong』は、Mr.Childrenにとって35枚目のシングルとなる。
 長期レコーディングの中、タイアップが決定し“新しいMr.Children”を世に示す代表曲のひとつとして放たれた『足音〜Be Strong』はスタッフとバンドの間で何度も「その“新しいMr.Children”の“新しい”とは何か?」を試行錯誤した結果誕生したものだと度々インタビューでも語っている。
 特に「楽曲の露出が尤も多くなるであろうCMで予告が流れることを意識して作った」「サビの部分だけを切り取った時に、ストーリーを内包できる広さを持ったもの」といった桜井氏のコメントからは、かつてポカリスウェットのCMで流れる15秒でどれだけキャッチーなサビを流せるかを意識し作られた『イノセントワールド』の制作エピソードを思い起こさせる。
 そんなエピソードの通り、本作は過去のMr.Childrenの楽曲の中でも屈指のロックバラードとなっており、リスナーの背中を後押しするような力強いサビとバンドサウンドが魅力となっている。
 ファンクラブツアーでいち早く先行公開された『足音〜Be Strong』は、SNS上でも様々なコメントが寄せられたが、もし今、過去の楽曲に例えるなら『Everything (It's you)』と『終わりなき旅』を掛け合わせたような強さと言えるだろうか。
 決して出だしから気負うようなサウンドではなく、エレキギターと静かなリフと、一歩ずつ踏み出していく様なリズム隊と景色を浮かび上がらせるような滑らかなストリングスで、Aメロ〜Bメロへと情景が綴られる。むしろ、どこか寂しさや切なさを思わせる様なメロディで、独り言のようなAメロの歌詞が刹那を匂わせる。
 そこから“夢見てた未来はそれほど離れちゃいない”と綴られるサビは、ストレートなメッセージながらも、掻き鳴らされるバンドの熱気とあいまれば、この時代に生きる人々が素直に前を向きたくなるような強くポジティブな力を持つ、まるで『終わりなき旅』のようなポジティブでありながらも、射程範囲の広い、不思議な楽曲だ。

M-12.忘れ得ぬ人

 ONE DIRECTIONを意識して書いたというこの曲。イントロのピアノが美しいのもそうなんだけど、ヴォーカルのリバーブがとにかく素晴らしい。サビにはいる直前でストリングスが入ってきて、一旦ブレイクする。まさに“歌を聴かせる曲”なんだけど、「いままでMr.Children」にこういう曲があったかな?っていうと思い当たらなくて、その新鮮さは未だに鮮度を落とさない。「隔たり」や「安らげる場所」とはまた違うバラード曲。

M-13.You make me happy

 イントロのブラスが高揚感と懐かしさを引き連れてくる。これもまたボーカルのコーラス具合が面白くて、最近のミスチルっぽくもあるし、昔のミスチルっぽさもある。まさに楽曲のテーマともリンクするようなアレンジ。こういったジャジーな楽曲はいままでのMr.Childrenにも何度かあったけど、その度に進化していて、ブラスのアレンジなんかは、いままでよりもより前に出ているように感じている。間奏で口笛が入ってくるあたりなんかも洒落ていて、「演奏していたら楽しいだろうなー」と感じる楽曲。どことなく「split the difference」で行われたblue motionでのライブの余韻を感じる。

M-14.Jewelry

 こちらもまたブラスが活かされつつ『you make me happy』よりもよりアダルトなトーンに仕上がっている。より歌謡曲風にアレンジを寄せながら、歌詞の世界観も情緒的。『Jewelry』は『you make me happy』の感想で遊び心的に入っていた口笛とは違い、間奏では正統派に洒落乙なピアノが散りばめられている。L-Rで掛け合うように、絡み合うように演奏されるアコースティックギターとピアノとの音が心地よくて、最小のアレンジでも楽曲の魅力は十二分に伝えられるのではないかと思いました。

M-15.REM

 このアルバムの中で、リスナーがはじめて耳にした楽曲。まるで「DISCOVERY」期の『#2601』のようなハードロックなサウンド。不穏なSEとギターのアルペジオからはじまり、太く歪んだエレキのミュートがかったストローク。暗い闇の向こう側から、姿も見えないなにかが叫ぶような複雑なメロディーと決して暴れすぎることのない地に足のついたドラムとベース。奇を衒っているのではなく、挑戦をしてきているような気がした。この『REM』がリリースされた2013年、ミスチルサマソニに出演し、『ニシエヒガシエ』『フェイク』『REM』を演奏し、「ミスチルなら馴染みのあの曲たちでセトリを組んでくるだろう」という期待を良い意味で裏切ってきた。意図的に振り幅を産みだすべく、シングルレベルまで技術をあげた楽曲を造ろうと『REM』が完成したんじゃないかと思う。
 詞の世界観は、過去のMr.Childrenの中でも類を見ないほど個性的。断片的な思考をノートにメモした言葉そのまま詞に落とし込んだかのような、完成しないパズルのピースを渡されたような感覚だ。個人的にはこれ、小林武史氏にもっとアレンジして欲しいと思っていまして、ライブでは『ニシエヒガシエ』や『フェイク』のように化けたら面白いなあと秘かに思っているのです。
 それとアルバムの中でも数少ないMVが作られている楽曲でして、めっちゃ不気味です。これはなんなの笑?

M-16.WALTZ

 『REM』に引き続き激しめでダークな1曲。Mr.Childrenって歌詞が素晴らしいのも魅力のひとつだと思っているんだけど、正直最初にこの曲の歌詞を見たときは「えーーーMr.Childrenらしくないな……」と感じました。わりかしストレートに表現されているし、比喩表現も特別珍しいものじゃないし……と。けれど、聴けば聴くほどこの楽曲の魅力に引き込まれて、ライブではもう虜になっていた。
 この楽曲の魅力の世界観を作っているのはまさにボーカリスト桜井和寿の歌い方であると思う。この23曲の中で、その楽曲それぞれの歌い分けができている。声色が違う。その歌声に潜む「やりきれない感情」が、聴き手の心まで届いて、歌詞の世界観に没入していく。
 Cメロでは怪しげなハープシコードと共に、「諦め」を「亡霊」に例えて、歌い上げる。「Mr.Childrenでいままでこんなに過激な言葉を使ったことあるっけ?」っていう表現がでてきて、驚かされると同時にそれだけの不満や不安、苦悩がこの楽曲の主人公に存在していることを知らされる。
 

M-17.進化論

 未レビュー。優しい。

M-18.幻聴

 未レビュー。希望の歌。

M-19.Reflection

 未レビュー。予感。

M-20.遠くへと

 未レビュー。泣ける。

M-21.I wanna be there

 未レビュー。イカしてる。

M-22.Starting Over

 未レビュー。ラスボス。

M-23.未完

 未レビュー。てなわけで、続く。