佐藤雅彦ディレクション“これも自分と認めざるを得ない”展@21_21DESIGN SIGHT
これもずいぶん前になるけれど、2121design sightにて。
タイトルから面白そうだな〜と感じ、行きました。
美術展は、タイトルが強烈だとより行きたい感じになる。
正直、三宅一生展!とか佐藤雅彦展!と言われても、概要見るまで名前だけで行こう!とは中々ならない。
http://www.2121designsight.jp/program/id/about.html
今回の展示はまさに“自分とは何か?”というものを探究、体験することからはじまる。
指紋、顔の形、声、筆跡、鼓動、身長、体重、虹彩。
あらゆるもので僕らは僕らと認知される。
それを思い知らされるのが、今回の展示には訪れた人などの多くの人の前述した個人を特定するためのデータが蓄積されている。
一度僕らは、指紋や声、筆跡をデータとして採取され、しばらくして、もう一度出会う事になる。
つまり、データベースに自分のデータを保存した後に、もう一度、指紋や声だけでそのデータを引き寄せるのだ。
紛れもなく、それが自分なのだと。
ただ、身長や体重、虹彩、指紋なんかは、確実に個人と一致するのだけれど、そうでない筆跡、声などは「この分類にあてはめられる」と言われある程度のグループを提示される。
今回キーワードとなっているのは、それらを特定するための自身の属性だ。
あなたの属性は、本当にあなたのものか。
さらに、辞書には「属性」の意味として、興味深い項目が次のように示されています。
【属性】ぞくせい
2. それを否定すれば事物の存在そのものも否定されてしまうような性質
(『大辞林』より)
21_21 DESIGN SIGHT
指紋も、声も、虹彩も、僕なのだ。
僕自身を証明する一部なのだ。
それらを否定されることは、僕自身が否定されること。
ただ、それらを忘却することによって、捨て身の行動ができたりもするから、これらに縛られる、僕は僕であると誇示するのも正しいとは限らないけれど。
この展示が証明するのは、「逃れようのない属性」が僕らにはあること、「属性は監視下にあるかもしれない」ということ、「属性を殺される社会であるかもしれない」だと僕は思う。
僕を僕たらしめるもの、って一体なんなのか。
展示の後半では、
あたかも幼少期の僕が未来の僕に語りかけるように運動会などの記憶にあるはずのない思い出を朗読される「新しい過去」や、自身の筆跡をもとに書いたはずのない手紙を完成させられる「佐藤雅彦さんに手紙を書こう」、自身の心臓の鼓動の音を聞きながら、緊張下にある人たちの映像を見ることで映像と音をシンクロさせる「心音移入」など、「僕じゃない僕が僕として存在する」作品があった。
ふっと思いだしたけれど、伊坂幸太郎のゴールデンスランバーもそうだった。
物語の都合は無視するとして、あれも「いるはずのない僕」が「僕」として犯人に仕立てられていった。
精神的な面で言えば、「僕」はいくつも存在するし、「確固たる僕」なんてきっと存在しない。
しかし、物理的な「僕」でさえ確固たるものが存在しないのかもしれない、そういう疑問を投げかけてくれた展示でした。
最後にHPから一部引用。
この展覧会では、現在、あなたの属性が、あなたの知らないうちに、社会にどのように扱われているのか、さらには、あなたも意識していない、あなたのどんな属性がこれから社会に認識されていくのかを、作品を通じて知ることができます。そして、単なる技術展示にとどまらず、作品化することによって、属性の未来を可能性だけでなく危険性も含めて鑑賞してもらうことを目的のひとつとしています。
(21_21 DESIGN SIGHTより引用)