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今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

カテゴライズ(カテゴリー分け)について

以前、「あなたの親友について教えてください」というアンケートを頼まれた事がある。
それだけでもあまり良い印象は受けなかったのだけれど、その質問項目のひとつに
「あなたの親友のイニシャルと、その順位を3位まで教えてください」というのがあった。
言いようのない気持ちになったのを覚えている。

親友ってなんだろう?
友達ってなんだろう?
恋人ってなんだろう?

そういう定義に関しての疑問を抱くのはなんら間違っちゃいないと思う。
それを振り分けるのも間違ってないと思う。
だから、アンケートについて大きな批判をしようとか、そういうつもりで書いてるわけじゃない。

前回のエントリーで書いた「佐藤可士和の超整理術/佐藤可士和」ではないけれど
人は物事を整理する為にカテゴリー分けをする

ぐちゃぐちゃになったアレコレにラベルを張って、A,B,Cと振り分けて、はては境界線を引いて、AとBの間に壁を作ることだってある。

上記の親友、友達、恋人もきっとそうだ。
生き物のラベルを張って、その中から、人間のラベルを張って、知り合い?友達?の振り分けをして、男、女、仲良い、悪い、好き、嫌い、等々。

パソコンのフォルダがそうなんだけど。

AとBで振り分けたら、Aのフォルダ内のA-1とBのフォルダ内のB-1は決して繋がらない。

要は、カテゴリー分けをするというのは、分別をするというのは、極端に言えば、振り分けるモノそのものの可能性を萎める事になるのだ。

「私たち、親友だよね」
と呼ぶ相手が1人、2人、もっと存在したとする。

そうすると、αもβもγも親友で括ってしまって、α、β、γそのものが持つ個性というのをどこかに追いやってしまっている感覚が僕にはある。
言い方を変えれば“親友”というフィルターをまず通してからα、β、γを見るような先入観を持った見方、接し方になってしまう気がするのだ。

親友というラベルを張ってしまう事で、「親友」から連想することのできるキーワードの範囲内でしか、物事が結びつかなくなる。

親友というとポジティブキーワードに見えて、ピンと来ないとも思うけど。
例えば、「犯罪者」なんてラベルが誰かに張られたら、きっと大抵の人は、そのキーワードの範疇でしか、物事を考えたり、接したりすることが出来なくなってしまう。

言いたいことは、整理をする、カテゴリーを振り分ける、という行為は、ある程度に物事を俯瞰する能力を持っていないと、バイアスのかかった見方しかできなくなってしまう可能性がある、ということ。
二度目だけど、パソコンのフォルダの階層のように。

なんだか発端が親友についてのアンケートだったので、親友なんて決めるものじゃない!みたいな中学生とか高校生の青臭い主張になってるように見えるけど、偶々例がそうだっただけで、そういうわけじゃない。
あくまで、カテゴリー分け、カテゴライズ、について。