考える、ということ。
日本人男性の平均寿命は80歳、女性は86歳。
人生80年だ。
産まれたときから死ぬまで、歴史をずっと見ていれば分かるけど、きっと劇的な変化はない。
ここでいう劇的な変化っていうのは、例えば「宇宙人が襲来して別の惑星に住むことになる」とか「未来からタイムマシンにのって未来人が来て、過去と未来での交流が可能になる」とか「不老不死」とか。
突如「ありえない」ことが起こること。
勿論、産業革命や第二次世界大戦だって人々にとって衝撃的な出来事だったとは思うけど、歴史としてみれば必ずそこには「流れ」があった。
地動説や万有引力だって「その時代の常識」を覆したかもしれないけれど、それは「事実」が露になっただけで「ありえない」ことではない。振り返れば。
だから、僕らの人生80年、最初に述べたような「劇的な変化」に期待をするのは難しい。
きっと大して変わらない。
歴史上ずっと繰り返されてきた普遍的な幸せと不幸せを往復しながら、ちょっとした人類の発展に歓喜を上げながら死んでいく。
そこで「考え続けること」と言うのはどのように意味を成すか、と考えたりする。
生きるうえで考えることは、必要条件なのかどうか。
勿論、「頭のいいこと」は必要であると思う。税金を払ったり、節約をしたり、人間関係においてのコミュニケーションであったり、それらを円滑に進ませる為には「頭がいい」必要がある。
また、科学、政治、医療、人類の発展にとって必要なテーマだって多くあると思う。
けれど、一個人がこうやって、このブログにあるような戯言をだらだらと思考することは必要なんだろか。
逆説的にいえば、人間である以上「考えないこと」が出来ないんだろうけど。
偶にそんなことを思う。
こんな風に考えたって考えなくたって、そこそこ楽しく、そこそこ悲しく、笑ったり泣いたり終わっていくものなのに、そこで「考えること」ってなんなんだろう、と。
まあ、一種の娯楽なんだろうけど。