今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

島で暮らす。

以前、BRUTUSで島特集なるものがあった。
そのコピーは「たとえば、いま、あなたが都会を離れて島で暮らすとしたら」というものだった。

BRUTUS (ブルータス) 2011年 9/1号 [雑誌]

BRUTUS (ブルータス) 2011年 9/1号 [雑誌]

そのコピーから考えると、やはり島と都会というのは対比される関係にあると言ってもいいと思う。
だけど、僕が思うのは島は決して田舎ではなく、田舎も決して島ではない。
少なくとも僕が抱く田舎のイメージは島で暮らすことと一致しない。

ちなみについさっきまで恵比寿でこんなイベントもあったようだ。
是非、行ってみたかったが予定が重なって行けなかった。
【東京仕事百景】というサイトの【島で生きる】というトークイベント
http://shigoto100.com/?page_id=15158
島で暮らしている人々の彼是を聞ける機会だったみたいだ。

いまはインターネットを介して遠く離れた人と話が出来る時代だ。
DOCOMOタブレットCMが宣伝しているように、パソコンにも携帯にもカメラが内臓され、それを通して映像をやり取りできる。
島と都会でのやり取りだって可能だ。

だから、島で暮らすこと、昔と比べて随分その概念は違ったものになっているのだと思う。
勿論、僕が以前、国際芸術祭で香川県(いまではうどん県)の直島や豊島の島々に訪れた時は交通の不便さや、食料や店の少なさを感じたけれど、そんなもの取るに足りなかった。
携帯が繋がるか、繋がらないか。大きく言えば、ネット環境があるか、ないか。
それさえあれば、大抵は補える、といっても過言じゃないと思う。(お金は別)

そこで【島で暮らすってなんだろう】と考えた。

結論から述べると、僕らなら向上心をなくして死んでいくだろうと思った。
僕は田舎から上京してきた身なのだけれど、大学に入って3年目になってやっと都会を散策するようになった。
なにもない休日は、とにかく都心に出て、なにかしら新しい刺激に触れるようにした。

ぶらっと外に出れば、否が応でも新しい刺激が入ってくるのが東京だ。
その流れに嫌気がさす人もいるのだろうけれど、僕は新しいものに満ちた東京が好きだし、古いものに、臭いものに蓋をするように排他的になったシーンがいくつも置き去りにされている光景も好きだ。

そういう刺激に囲まれてこそ、葛藤することができる課題がいくつもあると僕は思う。
そして、助けられるものもいくつもある。
溢れすぎた、氾濫しすぎた情報だからこそ、多種多様な救いと傷みがある。

まあ、例えるならHeat Waveのトーキョーシティーヒエラルキーな雰囲気が好きなんです、僕は。
ぐちゃぐちゃな感じが。

だから、島にいったら僕は同じルートでしか物事を考えなくなってしまうでしょう。
twitterがあっても、facebookがあっても、そこから情報を取り入れていたら、きっと物足りなくなってしまうと思うし、そうでないなら、考える思考のパターンは2,3年で固形化してしまう気がする。
あくまで、想像上にある論理だけど。

いまは、穏やかな時間が欲しい、と思い浮かべる時が島なのだけれど。
いざ、島に住んでしまったら、なにも考えずに死んでいきそうな気がする。

それはきっと幸せかどうか?で言えばとても幸せなことなんだろうけれど。

いまの僕はそうでないし。